あの世 |
死んだあとになって布団の上にいることに気が付いて、なんだ結局あの世というのは布団の上のことなのかと思うとやる気がなくなる、お腹が空いたので冷蔵庫の中の冷やしたクッキーを食べるとことのほか美味く、あの世は食べるものが美味しいのだなあと思う。外へ出ようとすると白い服の人が来てまだ外へ出てはいけませんよと言って、石でできた重たいドアを閉めようとするので私は慌てて外へ出ようとすると、何人も白い服を着た人が来て私にかわるがわる紫色のきれいな液の入った注射を打つ、注射を打たれるとすべてがふにゃふにゃになってしまって、私は昔飼ってた猫のように柔らかくなって布団に戻されて掛布団をそっと掛けられると、死んだ母が私の前に立っているのが見えるような気がして、なるほどあの世というのは確かに死んだ人にもう一度会えるところなのだなと思って眠った。
夢の中で長い間眠っていたような気がしていたけれども、目を覚ましたらまた布団の上にいて、すると部屋の石でできたドアが開いていて、スリッパも用意してあって、私の来ているのは薄墨色の、通気性のよい大きな縫い目のない服でスースーし、私はそれで外へ出て行ったらパジャマみたいでいやだなと思ったけれども行き違う人はみんなそんなパジャマみたいな服を着た人で、私はこれがあの世での制服なのかなと思うと案外にファッションセンスがないなあと思い、まあお化けみたいに、頭から真っ白なシーツを被ったような姿でなくてよかったと思うけれども、でもちょっとなあと思う。
階段を上って、建物の一番高いところへ行こうと思って、そこではすべての窓に鉄格子が付いていて外を眺めるのに不自由したけれども、でも窓の外を見ると平和な中庭が見えて、銀杏の緑の葉が茂っており、噴水があって、私はずっと前に、その噴水に頭を突っ込んで息の根を止めようとしたところを看護婦さんに止められたなあと言うようなことを思い出した。
時間が来て呼ばれて院長先生のいる部屋へ行くと、もうちょっとで退院できますよと言うようなことを先生が言い、私は先生に「その襟のバッヂ、きれいですね」と言うと、院長先生は照れたように笑って、もうおじさんだけどかわいいと思う。
それからまた部屋に戻ると、近頃では、部屋を掃除しに来る小さいロボットのような掃除機だけが友達で、私は彼にルンバと言う名前を付けてかわいがっていて、埃を食べるのが好きなようだから埃を集めておいて、それでルンバの通るところに埃を撒いてたくさん仕事ができるようにしてあげると、白い服の人が来て、無駄に仕事を増やしてはいけませんよと言う。
それからまた、噴水の水に頭を突っ込んで、白い服の人たちが大勢来て、私は石でできた天界の豪壮な建物の一室をあてがわれて、毎日たくさんの白い液体みたいなご飯を食べさせられて、その液体にもう少し味が付いていれば私ももっともっと過ごしやすくなるのになあ、と思ったら無性に悲しくなり、ナースコールを押し、塩をくださいと言い、それから、醤油を飲んで赤紙を免れようとした人の話を思い出して、醤油をくださいと言ってみたり、醤油をどうにかして手に入れようと思ってみたり、中庭の片隅に大豆が植わっていたから、それを持ってきて醤油を作るのに、たくさんの時間があれば可能だと思ってみたり、白い服を着た人にそれは大豆じゃなくて丸い石ですよと言われてよく見たら丸い石で、私はほとほと自分にあきれてあはははと照れ隠しに笑って、誰も、みんな、こんなふうに、照れ隠しをするために生きてるんじゃないよなあと思った。
それからまた、時間を置いたあとで、ひょっこりともういいだろうというときに噴水に行って、顔を浸して今度は誰も来ない、今度は誰も来ないと思いながら、でも白い服を着た人たちはどこからともなくやってきて、あの世と言うのも案外不自由なものなのだなあと思いながらストレッチャーに乗せられて運ばれていくとき、私を覗き込むたくさんの人の顔の中に見知った人たちが少しずつ、少しずつ増えていくのを怖いと思い、あれがみんな、私の見知った人達ばかりで構成されていたら、その時はきっと、私は本当に死んでしまうのだなあと思って怖くなる。
病室のベッドの上で目が覚めて、何時だか分からない光の窓から差してくる水面の反射のような網目模様の、きれいきれいだなと思うのを静かに、少しずつ呼吸しながら見ていて、もうすぐ何もかも止まってしまう、もうすぐ、もうすぐ止まってしまう、と思い。
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