トロイとフレア |
王女である私が嫌いだった。
王女であるという立場が嫌い。
王女という言葉も嫌い。
国は嫌いでは無いが、私は私が嫌いだった。
だって、みんなすべからく同じ言葉を私に言うのだ。
「王女だから、がまんしてください」
「王女だから、こうしてください」
「王女だから、そう言うように」
「王女だから、そこには行ってはなりません」
「王女だから、してはいけないのです」
幼い頃から言われ続けた、『王女だから』というのは、もはや差別用語だ。
生まれてこのかた、私は王女という立場を疎んじている。
…その筈だった。
だが、今は違う。
王女である自分を誇りに思う。
民の希望となってここにいる。
王女であるから、ここにいるのだ。
王女であるのは嫌だった。
だが、クールーク軍にこの島を占領された時に、あえてここに残ったのは、王女としての責任だ。
フレアは風がひんやりと寄せてくる夜の海を眺めて大きな月を眺めた。
生まれてから何度も飽きるほどこの場所から海を眺めていたが、こんなに静かな夜ははじめてだった。
潮騒が耳にとどいているのが、不安でたまらない。
ふと、ふりかえる。
王宮の一室にはまだ明々と明かりが灯っている。
こんな静かな夜なのに、寝ていない男がいた。
彼こそが、この島を圧倒的な力で占領した軍の頭だ。
昼の事を思い出して、フレアは挑むようにその明かりを睨んだ。
「…囲いの鳥か」
思い出したように含み笑いをした彼は呟いた。
「あなたは知っているのか?ここにいるあなたの事を皆がなんと呼んでいるのか」
フレアが、嫌悪感を込めて眉をひそめると、
「皮肉な揶揄ね。人の目からみれば、そう映るっていうことが、本当に汚らわしい」
切り捨てたようにそう言った。
「隷属国の王女など、格好のなぐさみ物の対象というようにね」
「私は、そういうことはしない」
「知ってるわ。あなたがそんなことをしないのは知ってる…」
民を蹂躙することなく、人として扱っていることを条件に、フレアは自室上、クールークの人身御供だ。
だが、以前に聞いたガイエン海上騎士団への振る舞いよりははるかに騎士の行いに相応しいものだった。
「あなたには感謝しているわ」
だからこそ、嫌えない。
(何を考えているのだろう。私ってば)
アレアは自分を叱咤した。
憎むことは容易いが、心を許す事はしてはならないし、できるはずもない。第一、できないことだ。
それは、王女の立場であっても、そうでなくても禁忌なことだ。
「残念だ」
「え?」
「噂を本当にでもしそうな目つきだったぞ、オベルの王女」
「まるで、心を奪われる事を羨望しているような目つきだった」
「!!!!」
彼は、滅多に表情を崩さない不思議な男だった。
寡黙という印象をうけたが、フレアと二人になるときには、からかうような事を言う。
まだ歳若いのに、恐ろしい異名を持つ男だったが、話してみると自分に厳しい騎士貴族というイメージだった。
「か、からかわないで」
「…からかってなどいないさ。本当であればいいと願うのは私だけか?」
口元をかくして、くつくつと笑う。
「あなたって人は…
出来もしないようなことを言うのはどうかと思うわ。それに…」
フレアはトロイを見据えて続けた。
「あなたとそうなった時、私はきっと、自分自身を許せない」
身体を許すよりも、純潔を奪われるよりも、心を奪われてしまうのが怖かった。
王女でなければ…
フレアは思った。
王女でなければ、こう思わなかったのに…
だが、一方で、王女である自分でなければこの男とこんな会話をすることがないかっだろうと考える。
トロイは仄暗い灰色の瞳でフレアを見据えたまま動かなかった。
いつの頃からか、気付いていた。
視線の先。視線の意味。絡まる視線。
くちづけを交わすよりもあついものが交差する感情。
絡まってほどけずにいる、やっかいな感情。
どれくらい時間がたったろう、彼は赴ろにフレアに背を向けると、自分の机の書類にペンを走らせて執務を続けた。
トロイという男は、不思議な男だ。
怖いかと思えば優しくて。目をそらせば追いかけてくるのに、いなくなると追いかけずにはいられない。
夜の王宮はとても綺麗で、フレアは目を細めた。
憎いと思うと心が痛む。
彼を思うと、息が詰まる。
それが何の感情なのか、とうに自分で気がついていた。
「もし、本当に私があなたの囲いの鳥であるのなら、どんなに楽だったんでしょうね」
ぽつりと漏らしたつぶやきは、潮騒の音で聞こえない。
夜の海は沈黙を守って、ただ…潮を満たすだけ。
了
2007.06.04
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