Cocoon
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Cocoon

 

 

 

 他人というものが怖くて、とにかく誰かが常に自分を悪く言っているような、いつでも密やかに笑われているような、そんな感覚ばかりが自分を緊張させていた。

 幻聴なのか、それとも現聴なのか。その判別がつかなくなってしまったのはいつからだっただろう。それさえも今は別段変わりがないような、むしろ全て実際に囁かれ嘲われていることとして受け入れている。

 実際、大した変わりはないのだろう。戦場にいても、生き別れたとしても、遠く引き裂かれたとしても、これさえあれば互いの声を、存在を、無事を確認できる。そんな装置を考案したところで、大半の人間は怪訝な顔をして、鼻白んで笑って見せた。

 夢想家、空論主義者、根暗、変わり者、ゴミ人間の呼び名が鼓膜を震わせる。

 幻聴か、現聴か。分からないまま、それは酷く精神を磨耗した。

「ベルさん、大丈夫ですか?」

 見慣れた顔が、この無様な顔を覗き込む。嘲笑され罵られるこちらと違い、その顔は随分と年相応に若々しく輝いて、綺麗な海の青色をした瞳に痩せこけたこの表情を映して大きく瞬く。

 同じ時間を生きているのに、彼は活力に満ち溢れ、反して自分は疲れきった顔をしていた。申し訳なさも極まってくる。

「……ハハ、死にたい……」

「いきなりなに言ってるんですか!?」

 顔色が悪いと思ったらまたそんなことをと焦る助手に、なんだかダルくなって机に額をつけた。

 目の前には夢物語を実現させるための設計図解。配線の一部に銅を組み込むことは決まっても、研究は遅々として進まない。

「ワトソンくん……この紙さぁ……」

「はい?電話の設計図ですか?」

「次にトイレに籠もったときにでも使っていいよ……」

「使いませんよ!?大体それがなくなったら一大事でしょう!?」

「大丈夫、何度かグシャグシャにしたらそんなにお尻にダメージはないさ」

「いや、硬さの問題じゃなくて!」

 大事な物なんですからと苦笑する顔に、果たして本当にそうだろうかと首が傾いでいく。夢物語と言われるなら、汚物のような紙かもしれない。そうなれば名の通り汚物と一緒に捨ててしまおうとも思ったのに。

 そこではたと気付く。

「すまない、ワトソンくん。私は君に、汚物で汚物を拭けだなんて酷いことを……!」

「いや、だからしませんって!」

「そ、そうだね……そんなことをしたらまず間違いなく痔に……」

「そこは羊皮紙の時点でアウトでしょう!」

 とはいえ一つはっきりとしているのは、この紙が汚物拭きにすら使えないということだ。

「じゃあこの紙はなんのためにここにあるって言うんだろうね……。いっそ焚き火?あ、いいねぇ焚き火。どうせなら豪快にこの部屋ごと!」

「ベルさん!」

 珍しく、困惑ではなく明らかに怒りを表して青い瞳が顰められる。あぁどうやら本当にいけないことを言ったらしいと気付き、私はまた愚かそうに苦笑ばかりを顔に貼り付けた。

「……冗談だよ」

「冗談でもやめてください。怒るのは慣れてないんです」

 まったくもうと嘆息し、頭を掻く助手の顔をじっと眺めてみる。心底困ったように辺りを見渡し、大事な場所なんですからと呟かれた言葉に、この首は知らず傾いでいた。

「大事、かな」

「大事ですよ。ベルさんと、一緒に試行錯誤して色んなものを積み上げていける、大事な場所です。失敗作だって失策だって山のようにあそこに積まれてますけど、それだって大事な成果でしょう?どれ一つとっても、失えない大切なものですよ」

「ゴミにしか見えなくても?」

「人の視界なんて、そこまで僕には気が回りませんよ。……ベルさんは、優しいから。普通の人が気にしないようなことにまで気を遣っちゃうんですよね」

 でも気の遣い過ぎは気を遣ってないことと一緒になっちゃうんですよと、助手は笑った。

「ワトソンくんは」

 ボソリと呟くと、青い瞳が大きく瞬く。

「なんで、私と一緒にいるんだい?」

「なんでって……」

「みんな昔から、私のことをゴミだ、根暗だ、空想主義者だ、夢想論者だとこそこそと陰口を叩いているんだよ。ネガティブな人間の傍にいると気分が滅入るとか、そのくせ突拍子もない発想をするからついていけないとか。知ってのとおり、頭がどうにかなっている人間だと思っている人も少なくはないんだ。……なのにどうして、ワトソンくんはそんな私から離れていかないんだい?」

 人前にいると、絶えず聞こえる幻聴と現聴。嘲笑と失笑、ひそひそと、こそこそと聞こえてくる悪罵と罵倒。耳を塞いだところでそれはこの部屋を出た途端、全身を圧迫するように押し寄せる。

 世界から追いやられるような、疎外感という違和感。暖かで柔らかな綿に包まれる世界を、硬く冷たい床板の上から見上げる感覚。手を伸ばそうにも、振り払われそうな漠然とした恐怖と不安。そうされる前に怖気づくことこそ臆病者の証と知りはしても、それを克服する術を自分は何一つ持たず。

 ただ困惑だけをこの手に持って、若く聡明な助手に問いかける。

「……昔の事は、僕にはよく分かりませんけど……」

 頬を掻き、困ったように破顔する。恥ずかしいことを言いますが笑わないで下さいねと苦笑を向けたワトソン君に、わけも分からず頷いた。

「僕にとっては、ベルさんと一緒にいること、ベルさんの研究に携わること、ベルさんの発想を一つの知識として受け入れることが心地良いんです。それに……ベルさんの声は、とても落ち着きます。柔らかくて、優しくて、低いのに威圧感はなくて、聞いているだけで一息つける。例えるなら……そうだなぁ。あぁ、そうだ。この前、電話の音声配線部分に銅を使おうっていう話になったじゃないですか。人の発する周波数に一番適しているのが銅だって。あれと、同じです。僕は人当たりが良すぎて八方美人だなんだと言われますが、ようは純銅のように柔らかすぎて芯を持たないだけなんですよね。それに対して、ベルさんは芯を持ってる。どんなに後ろ向きなことを言っても、やりたいことは譲らないでしょう?それが、僕にはとても気持良いんです。隣にいて、安心する。この場合、周波数が合うとでも言ったほうがいいんですかね」

 そう笑って、ワトソンくんは私の前にしゃがみこんで手をとった。

 暖かくて、少し硬く、けれど柔らかな手がこの情けない手を包み込む。

「僕は、ベルさんっていう人が大好きなんです」

 まっすぐに目を見つめてくる青色から、視線を逸らすことも出来ない。まるで本当に幸せそうに目を細めて笑いかけるこの子の顔は、なんだか私の泣きたい気分にさせた。

 熱くなってくる目元に抗うように、口の中を僅かに噛む。

「さ、今日も頑張って研究進めましょう。早く完成させて、世界中をびっくりさせないと」

 言って、照れくさそうに頬を掻きながらワトソン君は設計図を改めて広げ直す。他に直すアイディアがあったらどんどん言ってくださいと笑いかけてくる笑顔に、死にたい気分もどこかへ失せてゆっくりと立ち上がった。

 いくつかの案を考察しながら頭を悩ませ、失敗しては苦笑と苦悩が頭をもたげる。けれどその最中に一つ気付いたのは、自分を詰る幻聴と幻聴のその中に、どうやら一つも彼の声が入っていないらしいことだった。

 

 

 

−−−了.

説明
ギャグ漫画日和、電話組の二次創作作品です。昨年10月のに執筆しました。
よろしければ批評のほどよろしくお願い致します。
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