黒のオーバード:第4話「漂石の記憶」 |
館の外壁の一面を見上げ、ルークは眉を寄せた。
彼の目の映るのは、白壁からにょきにょきと伸びる、何を模したのかおそらく作らされた者にもおよそ理解は出来ていなかったと思しき、変な塊だった。よくよく目を凝らしてみる……心眼を全開にすれば、四肢を空に向かって伸ばしているような形に見えなくもない。
――が、緑青に覆われたその塊が何がしたかったのか、結局のところルークには理解できていなかった。きっと今後も理解できないし、理解できる者がここに住み着く予定は向こう数百年はないだろう。
懐から縄標を取り出し、ていっと変な塊に向かって放つ。刃の鎬部分をぶつけると、変な塊は継ぎ目からぼろりと取れた。
外形をほぼ保ったまま街路に落ちた不思議な彫像を一瞥すると、ルークは「止め止め!」と頭を振った。
こんなわけのわからないものを一生懸命そぎ落として、どーなるんだっつーの。大体、ここにずっと留まるとは思えねぇしな。
縄標を束ねながら、ルークは館の中へ戻っていった。
「本当にここを出て行くのかよ、ルーク」
最下層の貧民街から都市の上層部へ上がる話をしに、ファンへの店に二人が顔を出したのは昨日の話だった。
ズィルバーがどこぞの馬の骨に倒されたという話は、上層部ではあっという間に広まったのだが、流石にこの情報僻地にまでは届いていなかったようだ。その旨を伝えたら、店にいたヤツらが色めき、あっという間に二人は下級眷属に取り囲まれた。
「しゃーねえだろ、この街のドミネーターを伸しちまったんだから。このまま館を空っぽにしておくわけにはいかんだろ」
「まー、ルークがいなくなる分にゃ構わんが、クールは置いてけ。そいつがいなくなると、オレたちゃ寂しいぜ」
「そりゃ無理だ。なんたって、ズィルバーを倒したのはこいつだからな」
クール、お前も何か言えよ、と彼の薄い背中をどつくと、目を白黒させてさらにルークにぴったりと身を寄せた。
「しかしねぇ、本当にあんたらがやらかすとはねぇ。あんたらの実力を考えれば不可能ではないんだろうけど、やっぱり俄かには信じられないね」
「ファンへおばちゃんまで、何さその言い草。……とはいえ、実は俺もまさかこんなにとんとん拍子にいくとは思ってなかったけどな」
「全く、頼りないことだねぇ。クール、これはあたしからの餞別だよ」
そう言って、ファンへは白地の上着を差し出した。
「あの……これは?」
「あんたの服さ。いつまでもそんな下層住民の着るような、薄っぺらい服を着ているわけにはいかないだろ? その辺、ルークは無頓着だからね。上で一張羅を揃えるまでに繋ぎにでもしておくれ」
「有難うございます、ファンへさん。大切にします」
受け取った上着をまじまじと見つめていたクールが、ぺこりと頭を下げた。
その足で二人は早速ドミネーターの館に移ってきた。これといった私物は持っていない二人のことだけはあり、引越しはいたって簡単なものだった。
そして現在は、それぞれが落ち着くための部屋の整理をしているところなのだが、もう一つ、ルークにはどうしても確認しておかなければならないことがあった。
刻は、ズィルバーを殺害した直後に戻る。
「凄い、凄いですね!」
「何がだよ」
両手で拳を作り、ぱたぱたと駆け寄ってきたクールの顔に、ルークは胡乱な目を向けた。 無邪気な笑顔を浮かべていた彼は、ルークのぞっとしない顔に首を傾げた。
「え? だって、ズィルバーさんとその手下さんを倒したのは、ルークさんでしょう?」
ルークの視線が、前方の血溜りにスライドした。
「……俺じゃねぇ。アイツを殺ったのはお前だ、クール。覚えてないのか?」
「――嘘?」
「こんなところでお前に嘘をついて、俺に何のメリットがある。アイツらをやったのは、間違いなくクール、お前だ。謙遜するのもいいが、次はもちっとまともな切り替えしを期待するぜ」
小さく肩をすくめ、血餅と化した前の家主をどうしたものかと腕を組んだ。
それっきり、答えを返さない相棒の様子を肩越しに密かに窺う。彼はルークの言葉に納得し切れていないようで、おかしいなぁ、と呟きながら首を傾げていた。
地上階にクールの姿がないことを確認し、地下倉庫に繋がる階段を下りる。
こちらに移ってきて直に館内部を一通り確認したのだが、地下階はこれまでのドミネーター達が溜め込んだ書物が収められているようだ。尤も、きちんと手入れはされていなかったようで、階段寄りの床の上にはワイン瓶が散乱し、その奥にはかび臭い空気が澱んでいる有様だった。どれだけの書物がおじゃんになったのかを考えると、ルークは内心がっくりした。
書物が保管されている旨を相棒に伝えると、彼は喜び勇んで地下階へ降りていったのだが、今になって思えば、彼の行動は不自然だ。
まだクールは闇の眷属が用いる文字を不自由なく読みこなせるに至っていない。
書物なんて言えば、現在は使われていない古い文字や文法が満載なのが定石だ。共通の言語の読み書きすら不自由する者が、そんなものを読めるわけがない。
ズィルバーを屠った時の言動や、読めもしない書物に興味を示す様子が、これまでのクールの在り方とズレが合って腑に落ちない。
あの時のクールは、本当にクール自身だったのか?
地下倉庫に降りると、明かり一つない薄闇の中でクールが書物を眺めていた。
「おいおい、お前何時からこんな暗い所で本が読めるようになったんだよ」
ルークを一瞥すると、返事をすることもなく、クールは書物に視線を戻した。
本棚に肘を置き、クールが手に取った付近の書物の背に視線をやる。
儀式魔術について記された書物の一冊を読んでいるらしく、一篇から順に並ぶ背表紙のうち、第三篇があるであろう場所に空間が出来ている。背表紙の文字が、それが今は使われていない古い言語で記されていることを物語っている。
「なあ、その書物、何が記されているのか読めるのか? 古代文字で書かれてるだろ」
……返事はない。
視線一つルークに向けない態度にむっとなった。ページをめくる手を叩き、書物を取り上げた。ページを一瞥すると、中身はやはり古代文字で書かれている。
顔を上げたクールを睨み付けようと、視線を向けると、眼前の少年がそれまでの砂を噛んだような表情を僅かに崩した。
「何だよ」
「別に。何も」
あの時、館の廊下で、剣呑な空気を纏ったクールが発した声と同じ質の声が漏れた。
ルークは少年の肩を掴み、本棚に押し付けた。
「お前、何者だ」
クールの金色の双眸が僅かに細くなる。だが、返答はない。
「見た目はあのうすらトンカチそのままだけどな、お前はアイツじゃないな。一体誰だ? どうやってここに存在している?」
「――ルークさん、怖い顔してどうしたんですか?」
本棚に押さえ込んだ相手が、普段どおりの、つかみ所のないふにゃふにゃとした声を出した。
逃げられた? いや、同じ体の中に二人居る……?
肩を離し、距離をとった。
「いや、なんでもねぇ。つーかさ、お前この本読めるのか?」
先程取り上げた本をクールの前に差し出す。クールは小首を傾げながらそれを受け取り、ぺらぺらとページを捲る。
「読める読めない以前に、暗すぎて文字が見えません」
「……やっぱそうだよなぁ」
「どういう意味ですか?」
「いや、さっきまでその本をお前が読んでたからさ。何時から暗視が出来るようになったのかと思って」
僕がこの本を……、と深刻な面持ちで本を見つめるクールと、先程の彼を比べてみる。
やはり何かが違う。
面持ちや目付き、声音が違うのもそうだが、雰囲気が違う。今のクールが人畜無害な愛玩動物なら、先程の彼は肉食獣と言おうか、それぐらいの差がある。
「ところでお前、自分の部屋をどこにするか決めたのか?」
「あー! まだです、決めてきます!」
「別にのんびり決めりゃいいぞー」
ばたばたと騒がしく階段を駆け上る背中に言葉を掛ける。
気配が周囲から完全に消えてから、ルークは少年が立っていた場所に手を付いた。クールが無防備に残した気配に混じり、僅かだが別人の匂いが残っている。ズィルバーを圧殺した者と同じ気配のように感じるが……あの体に二人居ることはほぼ確定だ。
ゲレアト爺は、クールはゼーレライセンと何らかの契約を結んでいると推測していた。ライセン自身が契約の際にあの体に入り込んだとしても、おかしくはない。
ということは、あの時、力を行使したのはライセンなのか?
だがライセンは強大な力が故に封印されたはずだ。あの半端さ加減が、言い伝えられているライセン像とは食い違う気もするが、人間の体を依り代にした副作用で力が押されられていると考えることもできる。
そろそろ、クールの足跡をきちんと調べないといけない頃合いなのだろう。
ルークは髪の毛をバリバリと掻き毟り、クールがそのまま置いていった第三篇を棚に戻した。
街の喧噪を片目に、ルークはクールと並んで館の前に仁王立ちになっていた。
彼らが先代のであるズィルバーを伸してからそれほど経ってはいないのだが、先日、彼らを縛る差配が査察を行う旨を通知してきたのだ。上位の者の命には従うしかない。故に二人は、こうして差配がやってくるのを待っているのだ。
ルークは隣に立っているクールの様子を何気なく伺った。何事に対してもびくびくしていた以前と比べると、随分と落ち着いている。
ズィルバーを倒してから、彼との会話は何となく噛み合わないことが多くなった。
対面している時に話が飛んでいくことは流石になかったが、少し間を空けて、先日の話題を振ると、最初の切り返しが明後日の方向へ飛んでいく事が度々あった。一呼吸置けばまっとうな答えが返ってくるからあまり気にしないことにはしている。耄碌(モウロク)するような年でもないと思うのだが……
クールに視線を向けたまま物思いにふけっていると、クールの琥珀色の瞳がルークを見上げてきた。何か、と問いたげな色だ。
「今日の作戦は把握しているよな」
「分かっている、僕が倒すのだろう。大丈夫、プロトコールも把握済みだ。差配の魔力を無効化する陣は仕込んである」
「……わかってりゃいいんだ」
何か、今日のクールは随分と醒めている。やっぱゼーレライセンの精神が支配する時間が長くなりつつにあるのだろうか。
それから間もなく。
クールがふと空を振り仰いだ。琥珀色の瞳がすっと細められる。
「奴さん、来たな」
ルークの言葉に小さく黒い頭が頷かれた。醒めてはいるが、肉体を支配している人格はクールそのものではあるようだ。
くすんだ空にぽっと黒い点が三つ現れ、急激にそれは大きくなっていく。クールの上背の二倍はあろうかと思しきワイバーンが三匹、二人の目の前に降り立った。
その背に乗っていた人物は悠然とした態度で地上に降りると、白いマントを翻してこちらに歩いてきた。その靴裏が大げさに石畳の道を打ち据える。
背後には背格好の似た人型の眷属が二体……傅(カシズ)き人であろう……、音もなく控えている。
「ほう。ドミネーターが変わったという話は本当であったか」
彼の歩数にして四、五歩の距離を取り、差配……シュランゲは歩みを止めた。白いマントで全身を覆っているが、その体躯はルークより二回りほど大きい。オールバックの髪は天に向かって逆立ち、ぎらついた赤い瞳が対峙する者を威圧する。ズィルバーの青白い顔など、鼻息で吹き飛んでしまいそうな威圧感だ。
赤い双眸がルークとその隣に立つクールを順に睨め付け、再びルークを捕らえた。
「お主、かの封印されしリッチーと連んでいたヴァンパイアであろう。随分と刻を隔てて、再び頂上を目指そうというのか」
「なっ……お前、何故俺のことを知っている。そんな古い話」
「封印されし、リッチー……」
クールの視線がルークに向けられている。
ルークとしては別に隠したい過去ではないし、そのことを知っている者が居ても別段気にすることはないのだが、こういう形で暴露されるのはあまりいい気分ではない。かつての相棒と今の相棒を比べられるのも、歓迎しがたい。
「ははははは。こう見えても私も長く生きている側なのでな、名の知れた眷属の動きならばイヤでも耳に入ってくる。あの時はお主が右腕だったようだが、今回はお主が主体か?」
「違う」
「ほう、ではそちらの華奢な少年がズィルバーを倒した、と」
クールはむすっと唇を結んだまま、その問い掛けには答えない。
「まあよい。だが私にその程度の罠は通用せんぞ」
シュランゲのブーツが地面を踏み鳴らす。石畳の上に円形の淡い光の線が浮き出、シュランゲの足下から放射状に霧散していく。
「仕込み陣かね。魔力を無効化する陣の一種のようだが、姑息な罠などこの私に効くはずがなかろう」
シュランゲの右手が拳を作り、唇がぐぐっと釣り上がった。
「かの封印されしリッチーの右腕ならばと思ったが、所詮は有象無象。私を倒そうなどと烏滸がましいと知るがよい」
シュランゲが右手を天に突き上げるのとほぼ同時に、印を作ったクールの右手が空を切った。
「縛めの糸を紡ぎ、彼の者の心神を暴圧せよ――」
クールの言の葉に呼応し、先程破壊された陣の上にもう一つ、円形の陣が展開される。シュランゲだけでなく、その背後に居る眷属二体も光の紙縒が絡め取った。傍目には唯の光にしか見えないが、捕らえられた三人は完全に動きを封じられている。シュランゲの体が小刻みに震えている。全身の魔力を集めて糸を切ろうとしているのだろう。
ルークが口を開く。
「お前が破壊したのはフェイクだ。この陣も見破られて崩されるつもりでいたんだが、俺達を……いや、こいつを甘く見たのが祟ったな」
顎で背後に立ちつくすクールを指した。対峙する男の口惜しげに結ばれた唇から、くぐもった嘲笑が漏れた。
「くくくくく、確かに私に慢心はあったことは認めよう。……私程の上位眷属を抑え付ける力を持つとは、汝は何者ぞ」
「あ? こいつか。こいつは――」
クールの名をそのまま告げようとして、ふと思い止まった。
シュランゲは、ルークの過去を知る程に眷属の世界には通じている。もしかしたら、ルークには察しきれなかった、クールが内包する者の情報が欠片でも得られるのではないか。
「……ゼーレライセンを降ろしたらしい。が、真実は知らねえ」
「ゼーレ、ライセン……だと? ならば、封印されしリッチーの右腕であるお主が判らぬはずがなかろう」
「俺はゼーレライセンとは対峙したことはない。まぁ、確かに彼奴だったら旧知かもしれないけどな」
シュランゲがルークの意図に気がついたのか、眉を上げた。
「くくく、解を私に求めるか。私がお主の思うとおりになるとでも思ったか」
「いや、思わねえ。すんなり答えが貰えるとは端から思ってはいない」
首を横に振るルークを一瞥し、シュランゲは自嘲気味に嘆息した。
「まあよい、私の解をお主に与えよう。あれは確かにゼーレライセンの知識と力を手にしているようだ。主体は男だ。私はその男に関する情報を持たないが、一人の男がライセンの知識と力を手に存在している」
「どういう意味だ」
シュランゲが再び口を開く前に、紙縒の暴圧が強まる。ルークが返答を期待する唇からは、獣の呻きが漏れるばかり。
背後で風が巻き起こる。
「クール、少し待て!」
クールの左腕に空気の渦が作られていく。右手は光の紙縒を締め上げている。
「ルークさん、当初の予定通り行きましょう」
「おい、待てって言っているだろ! 待て! クー……」
ルークの制止はクールの放った空気の渦に飲み込まれ、四散した。
「どういう了見だ」
ルークは努めて感情を抑え込み、クールの方を振り向いた。
彼らの足下に広がる血溜まりには、三つの亡骸が浸かっている。原型を留めた胸部から上が、鮮やかな血肉に塗れ足下に転がっていた。
「ど、ういう了見……ですか?」
琥珀色の瞳がきょとんとしている。ルークはむっとなり、唇を僅かに曲げた。
まただ。事が済むと、醒めたヤツはするりと姿を消してしまう。
「いや、何でもない。シュランゲを殺っちまったからな、次の段階のことを考えないといけないな」
血溜まりに浮かぶ、天を向いた濁ったガラスの目玉を覗き込みながら、シュランゲの言葉を反芻する。
『主体は男だ』
『私はその男に関する情報を持たないが、一人の男がライセンの知識と力を手に存在している』
どういう意味だ。もう一人のクールはゼーレライセンではないのか。
曇天の日を選び、ルークは人里にやってきていた。ここは、クールがヒトとして暮らしていた可能性のある人里の一つだ。人里といえど、クロノーツ城下からはおよそ離れた土地に作られた村であり、そのすぐ背後には、ルークら闇の眷属が巣食う領域が広がっている。
よくもまぁ、こんな小さな村が今の今まで生き残ってきたものだ。そんな感慨すら覚えてしまう。いやいや、そうではなくてだな……
ルークは襟を整えると、眼前に佇む村に向かって歩き出した。
歩き始めて間もなく、ルークの視界に焼け落ちた民家が入ってきた。まるで外部からの干渉を嫌うかのごとく、集落からは少し距離を取った所に建っていたそれは、雑草で覆われていた。焼け落ちたままになっている所から、見捨てられた家である事は容易にわかるが、全く手が入っていないのは、周囲の住民から疎まれる何かがあるからだろうか。
興味を引かれてふと立ち止まったルークの背に、一人の女性が声を掛けてきた。
「おやアンタ! 久しぶりだねぇ。随分と見なかったけど、元気にやっているみたいだね」
「へ? ……はぁ、まぁおかげさまで」
な、何だぁ?
呆気に取られるルークの元にやってきた女性は、彼の隣に立ち、朽ちた民家に目をやった。
「あの日……あの酷い嵐の夜、突然の落雷にアンタ達の家が火事になってしまって。アタシ達はね、それからアンタ達の行方を一生懸命捜したのよ。焼け跡も皆でひっくり返したり、この辺り一帯も捜し回ったりしたのだけど。全く、生きているんなら生きているって便りの一つも寄越しなさいよ!」
「は、はぁ……スミマセン」
「ところでラーベ君、先生は元気なの? 姿が見えないようだけど」
「元気なんじゃねぇの……?」
――はい? 今、何と?
「あのー、ラーベ君って俺のことか?」
「当たり前じゃないの、アンタ以外に誰がいるのよ。一年以上会っていなかった間に随分と背は伸びたようだけど、その金髪に青色の目はラーベ君そのものよ? やっぱり男の子は違うわね〜。うちのアンナは流石にもう背が伸びたりしないからねぇ」
「じゃあ、先生ってのは……」
「ヴァルム先生でしょ。アンタねぇ、自分の先生の名前も忘れちゃったの?」
「そういうわけでは……」
「まぁ、今アンタ達が何処に住んでいるかまでは追及するつもりはないけどね。今日はこれからどこかに行くの?」
「ああ、ちょっと様子を見に来ただけだから」
「そう。また時間のある時にでも遊びに来なさい。アンタが来ればアンナも喜ぶから。その時は先生も連れてきなさいよ!」
「え? は、はい」
「それじゃね。先生にも宜しく伝えておいてね」
女性は一方的に捲くし立てると、ひらひらと手を振りながら集落の中へと消えていった。
「つーかさ、アンタの名前、俺知らねぇぞ?」
そんな呟きを零しながら、ルークは朽ちた家の中へを足を踏み入れた。クールの話からすると、この家の中で何らかの契約が執り行われたらしい。それからどれだけの時が流れているのか定かではないが……先の女の言葉を借りれば一年以上になるが、何かしらの残滓があってもおかしくはない。
僅かに残る壁材の間をゆっくりと歩いていく。
こういう時、物に残る残存思念を読めると便利なのだが、生憎ルークはその手の魔術は使えない。注意深く辺りを観察し、かすかな手がかりを探していく。
そして、壁材が正方形に近い形を作る空間にそれはあった。
「ここ……か。遺恨の感情はないみたいだが」
朽ちた床板を踏み抜かないよう、辺りに散らばる廃材を極力動かさないよう、注意深く歩を進める。
およそ部屋の中央までやってきたところで、ルークは屈み込んだ。積もった塵を手で退けると、人工的に描かれた線が姿を見せる。ありがちな、動物の血で刻まれた魔方陣だった。ヒトの世界ではポピュラーな代物なのだろう。綺麗な円形は残っていない。それが描かれた面の破壊とともに打ち砕かれた魔方陣は、断続的で不完全な円を描くのみだった。
固有の契約の印は残されていない。炎が全てを舐め取ってしまったのだろう。
大した手がかりはなかったな。
ルークは一度だけ振り返り、薄暗い地平に居並ぶ村を見遣った。クールの身に何が起こったのか、その手がかりを得るために訪れたはずの村だったが――
先程の女は、ルークの事を『ラーベ君』と呼んだ。
ラーベ・グレイシャーとはクールの名前のはずだ。何故ルークがラーベ・グレイシャーと呼ばれるのだ? 外見だってクールのそれと今のルークでは似ても似つかない。あの女が勘違いしたか? いや、あの話振りからするとそれはないだろう。
だとしたら、俺は一体誰の姿をコピーしたんだ。
ルークが部屋に入ると、中央に置かれたテーブルの上にマップを広げ、手持ちぶさたな様子でクールがそれを眺めている。彼の右手の椅子を引っ張り、どすんと腰を下ろした。クールは顔を上げると、いつものようにへらりと笑顔になった。
「お帰りなさい、ルークさん」
「……なぁ、ヴァルムって誰か知っているか?」
クールが刮目した。喉元まで出掛かった言葉を飲み込んだ様子を見て、ルークは『ヴァルム』という名がクールに衝撃を与えるに足ることを知る。
「お前には悪いと思ったんだけどさ、その……何だ。お前がこちらの世界に来てしまった所以を調べていたら、そういう人物が居ることを知ったんだ」
「そうですか……」
クールは小さく相槌を一つ返し、むすりと黙り込んだ。
「あー、言っておくけどな、別にお前の頭の中を覗き込んで、あれこれ弄り倒したわけじゃない。お前の魔力は何でそんなに不安定なのかが気になってよ、どういう術式が行われたのかを知ろうと思ったのさ。お前が最初に崩壊させたと思しき街から最寄りの人里に行ってみたら、たまたまそこでそういう話を聞いたんだ」
「そういう……話?」
クールが顔を向けた。元々青白い顔がいつもよりさらに青白く見える。多分、クールにとってはあまり触れられたくない話なのだろう。それぐらいのことは容易に想像できる。だが、この問題は解決しておかないといけないことだ、おそらく。
ルークは敢えて言葉を続ける。
「ああ。妙に馴れ馴れしいおばちゃんに声を掛けられてさ、ヴァルム先生は元気かと聞かれたワケだ。アンナって娘の居る女性だ。お前、知り合いか?」
「……ザラッドさんの奥さんですね。ルークさんに声を掛けたんですね?」
「ああ」
「『ラーベ君』と呼び掛けられたんですね」
ルークは答えない。クールの唇から、淡々と言葉が紡ぎ出されていく。ルークがどんな体験をしたのか、そして何を考えたのか、クールにはすべてわかっているかのような口調だ。
「ラーベ・グレイシャーは僕の名前のはずなのに、何故ルークさんが『ラーベ君』と呼び掛けられたのか謎だって言いたいんですよね」
「あー……まぁ、俺が聞きたいことは大体その通りだ。それを踏まえた上で、だ。お前も俺に何か聞きたいことがあるんじゃないか? 例えば、何故俺が『ラーベ君』と呼ばれるような外見をしているか、とかさ」
クールの視線がつつっと下がり、広げられた地図の上に置かれた手の甲へ向けられた。ルークが投げた言葉には乗ってこない。
「じゃあ、まず俺の事から解決しておこう。俺はペテン師だって最初に言ったことは覚えているな」
黒い頭が小さく頷かれた。
「俺が外見を変えることができること、そして以前は全く異なる見てくれだったことにも、薄々気が付いてはいるのだろう」
再度、彼は頷いた。
「俺は相手の頭の中を覗いて、そいつが一番いい印象を抱いている者のイメージを借りて姿を作っている。ほら、いい印象を抱いている相手に似ていれば、それだけで有利になるだろう? ……いや、そんなことをしなくても俺本来の姿で居ればいいんだが、他者で居る時間が長すぎたせいか元々の姿を忘れてしまってさ。本来の俺を知っている奴も居なくなっちまって、まぁ何というか、元に戻れなくなった。この見目もお前の記憶から拝借したものだ」
「そうだったんですか。それでその姿が……」
「ああ、だから俺が『ラーベ君』と呼ばれること自体はあまり不思議ではない。お前から拝借したイメージが、ラーベ・グレイシャーというヒトだったと考えればな。でもそれだと一つ疑問が出てくる」
「僕が何者か、ということですね」
そうだ、と相棒の言葉に頷く。
「俺は、お前はラーベ・グレイシャーという器と精神を持っていて、そいつがゼーレライセンの力を得たのだと考えていた。でも今の俺、この金髪碧眼がラーベ・グレイシャーだとヒトの世界では認識されるということは、お前の器はラーベ・グレイシャーではない。そうだろ? お前と俺なんて、外見は似ても似つかないんだから。ヒトが器で個体を識別する以上、そう考えざるを得ない。
――俺が分かったことは、俺の想像と現実は全く違っていたということだけだ」
ルークはテーブルに右肘を付き、青白い少年の横顔をまんじりと見た。ルークが抱いていたもう一つの疑問には敢えて触れなかった。
左手で二、三度膝を叩くと、
「ま、お前が何だろうと、俺は正直構わないんだ。ただ、お前が何か困っているのなら、俺はいつでも解決のための手は貸す」
そう言葉を続けた。
ルークが口を噤むと、部屋は沈黙が包み込んだ。
肘を付いたまま、暫くクールの様子を眺めていたが、数刻何の反応も見せないのを見ると、ルークは立ち上がった。
「俺の話はそういうこった。じゃ、俺は査察のスケジュール作りに戻るぜ」
「あの、ルークさん」
踵を返したルークを、クールが呼び止める。肩越しに、クールの顔を見た。
「僕が何者なのか、問い詰めないんですか?」
「別に。さっきも言っただろ? 俺はお前が何だろうと構わないって。お前が話したければ話せばいいし、話したくなきゃ話さなくていい。今話したいってんなら聞くぜ?」
「今……お話しします。聞いてもらえますか?」
クールの両手が強く握りしめられる。関節が青白くなり、表情は強張っている。
ルークは少年の傍らまで歩み寄った。振り仰いだ琥珀色の瞳に、ニヤリと笑った作り物の顔が写った。
「ああ、もちろん」
少年の顔から、緊張の色がふっと消えた。
クールはルークが腰掛けたのを見届け、一つ深呼吸をすると語り出した。
「僕は……僕自身はラーベ・グレイシャーです。それを証明する物はなにもないので、そこはそういう物だと信じてもらうしかないのですが」
「お前がそういう認識だという前提ってことだな。承知した」
ルークが頷いたのを見て、クールの表情が少し和らいだ。
「ありがとうございます、僕の言葉を信じてくれて。もう判っていると思いますが、元々の僕は、今のルークさんのような姿でした」
だろうな、とルークは頷く。
「僕がこの体になってしまったのは、おそらく一年程前の事だと思いますが、先生が古の魔族を召喚する儀式を行った事が関係あるはずです」
「古の魔族? 何を喚ぼうとしたのか判るか?」
クールは俯きがちに頭を横に振った。
「いいえ、知りませんし判りません。でもきっと先生は知識が欲しかったんだと思います。魔術に関する書物は沢山持っていましたけど、魔術そのものにはあまり興味はなかったみたいですから」
「へぇ、変わった人間だな。魔族を召喚しようなんて考えるヤツは、大概その魔族の力を得るために儀式を行うものだけどな。一体どんな知識が欲しかったんだ?」
「うーん……どんな知識だったんでしょうか」
「お前なぁ、何で知らないんだよ」
ルークは身を乗り出し、じとっとクールを睨め付けた。「そんなこと言われても」と、クールが身を小さくする。
「僕はヴァルム先生のことを先生って呼んでいましたけど、先生からしたら、僕は突然転がり込んできた厄介な居候だったはずですから。先生が何を考えて魔族の知識を欲しくなったのかなんて、聞ける立場じゃなかったんです」
「別に居候だからって聞けないものか? 今のお前と俺だって、お前とお前の先生の関係と大して変わらんだろ」
「そ、そうですけど! でも先生とルークさんは全然違います。ルークさんは積極的に僕に関与してくれるでしょう。先生は逆でした」
「逆?」
「ご飯を作ってくれたし、部屋やベットも与えてもらったし、必要な時には読み書きも教えてくれましたけど、先生が僕に何かを要求したのは――一回だけでした。それに先生はちょっとその……浮き世離れしていて、気軽に話が出来るような人じゃなかったんです」
「ふうん。ま、お前のそのへっぴり腰な性格じゃ、ずかずかと相手の領域に入っていくことは無理そうな事ぐらい、俺にも判るからな。てことは、その先生がお前に一回だけ要求した事ってのが、その儀式に関係あるんだな」
「はい、手伝ってくれ、と頼まれました」
ルークは僅かに目を細めた。
手伝う……何をだ? 引っかかるな。
「僕は先生に言われるがままに手伝いをしただけなので、儀式が何を意味したのかとか、何が起こるべきだったのかとかは分かりませんけど――」
「儀式の途中でトラブルが起こった。お前らが居た家が焼失する程の何か、が」
「はい。…………僕は家が火事になったことは覚えていません。その前の爆発で気を失ってしまったみたいで。ただ、気がついたときには、僕は先生の体になってしまっていて、家は焼け落ちていました」
「ふうん。その後、お前はどうしたんだ?」
「当時の記憶は曖昧で、とにかく先生を捜さないとと思っているうちに、何だか気がついたらルークさんに出会っていたというか」
「何だそりゃ」
「としか説明が……記憶が曖昧、というよりは、ごっそり抜け落ちているので判らないというか」
「力が暴走していた時期か。それじゃ、判らんものは仕方ないな。ま、お前がそのまま人里に残らなかったのは結果的に正解だったわけだし。こちらの世界にようこそってこった」
あはは、と曖昧な笑顔を浮かべる少年の顔を一瞥し、窓の外に視線をやる。
つまり、ラーベ・グレイシャーの精神が、ヴァルム先生とやらの中に入っているということか。ラーベ自身の体はどうした。落雷による火事で蕩けてしまった、と考えるのが妥当か。ではヴァルムという人間はどこに行った。それに、ゼーレライセン程の魔族を喚んだのなら、何らかの代償が絶対に要求されたはずだ。何が代償になった。ヴァルム自身が代償として喰われた、と考えると辻褄は合うが……ミイラ取りがミイラに、なるか?
それに、ラーベではないクールが誰なのかがまだ解らない。シュランゲはああ言っていたが、やはりアレはライセン……いや、ライセンの残滓と考えるべきか。
「何故、僕が先生の体になってしまったのかは判りません。ですが、僕が先生になってしまったのなら――」
「そのヴァルム先生とやらがお前になってしまっている可能性は高い。だから、俺の姿を見て先生だと思ったんだな」
はい、とクールは頷いた。
「僕が話しておかないといけないと思うのは、これで全部なんですけど」
「そうか。で、お前これからどうしたいんだ?」
「これから……?」
そうさ、とルークは大仰に頷いた。
「無論、差配の仕事はこなさないといけないが、それはこちらの世界の話だからな。それにこれ以上はちょっとシステムが変わっていて、力押しでガンガンいくとなると、世界の秩序を根底から破壊する話になる」
「秩序を根底から破壊?」
「ああ。今までは、自分より上位の支配者をぶっ倒す事で上に昇ることが出来たけどな、差配より上のクラスは基本的にはない」
「ない? でもルーラーとかってのが居るんじゃ……」
「基本的には、だ。これより上にはな、元老院(セナトゥス)っつー、選出された差配により構成される合議機関があってだな、それが事実上のこの世界の秩序だ。下々からすれば、セネクスとルーラーはほぼ同義なんだが……ああ、セネクスってのはセナトゥスの面子のことだ。ルーラーは一人であるとすればセナトゥスの最高責任者がそれに該当する。んで、セナトゥスに参加するためには、まずはアルコンまで昇って、その後はひたすらセネクスのお眼鏡に適うような働きを積み重ねる。晴れてセネクスのお眼鏡に適えば、ある時セナトゥスへの招待状が送られてくる、と」
「はぁ……」
「鳩が豆鉄砲を食ったような顔をするな。普通はアルコンどころか、ドミネーターにだってなれないんだ。俺達……いや、お前が規格外なだけだ」
「あれ? でも……」とクールが首を傾げる。
「ルークさん、力押しでって話、さっきしてましたよね。そういうことをしたヒトが居るんですか?」
う、とルークが言葉を詰まらせた。
思わず滑らせた言葉を聞き逃さないとは……こいつめ、痛いところを突くな。
「いる」
「どんなヒトだったんですか?」
無邪気な琥珀色の双眸が、ルークのそれを捕らえる。クールは悪意も揶揄も期待も抱いていない、単に話の流れでそう問うただけのようだ。
「……例えばだな、今お前の目の前にいるヤツとか。まぁそんなところだ」
「――ルークさん、ですか?」
「ああ。正確には俺じゃなくて、むかーしむかし、俺が組んでいた男のことだけどな」
「……その人、どうなったんですか?」
「力に物言わせて元老院を支配しようとしてな、返り討ちにあって今はどこぞの大地に封印されているという話だ」
「ルークさんは大丈夫だったんですか!?」
「俺? ここにこうして存在するぐらいにはな。俺は単なる取り巻きだったようなモノだったし、元老院にとって大した脅威ではなかったから、お咎めなし。むしろ、何で俺が彼奴と組めていたかが今思うと不思議なくらいなんだぜ」
何かまだ物言いたげなクールがこれ以上やっかいな事を言い出さないように、ルークは畳みかける。
「おっと、話が脱線してしまったが、それはともかく。お前自身はこれから何をしたい?」
「何って……」
「例えば、お前の先生を捜すとか、そういう事だ」
「そうですね……ヴァルム先生がどうなったのかは知りたいです」
「それから?」
「それだけ、ですけど」
そうか、と一言漏らして口を噤む。
ああ、そうか。気がついていないのか、クールの中に何か別の精神体が入り込んでいることに。だからルークとの会話が噛み合わなかったり、突然意識が飛んだりしているのに、そのことについて考えていないんだ。
そして、本来ゼーレライセンが契約を結ぶべきだった相手は、ヴァルムという人間だ。その契約が失敗し、ゼーレライセンの残滓だけがクールの体に残っていたとしても、クールがライセンと契約を結んだわけではない。だからクール自身はいつまで経ってもふにゃふにゃだし、ライセンの知識を欠片も得ていないのか。クールに得た知識をフル活用出来るようにしろ、と要求しても彼自身ではどうしようもないのだ。
では俺は何をすべきか。
クールがライセンの残滓に支配されないようにしつつ、彼自身の知識を増やしてライセンの残滓との契約を改めて行う環境を作ることか。次にライセンの残滓が浮かんできた時に、思念の強さを確認しておくべきだな。
「解った。とりあえずは差配の仕事をこなしながら、ヴァルム先生とやらの足跡を追うことにしよう」
「僕は何をすればいいですか?」
クールの表情が和らいだ。おいおい、俺が協力するってのがそんなの嬉しいのか。ああ、ヴァルムという人間のこと、好きなのか……
「足跡を追うためには、物の残存思念が読めた方がいい。だからお前は当面、術式全般のお勉強だな。ああ、あと古代語も自力で解読できるようになってくれ。辞書は何とか入手してやるから。……そんな顔するんじゃねー」
うげー、とげんなりした顔を作ったクールの後頭部を叩く。
やめてくださいよー、とルークの手を払った白い右腕に刻まれた紋様は、ほとんど見えなくなっていた。
説明 | ||
ヒトと闇の眷属が対立する異世界ファンタジー小説「クロノーツ」の外伝です。 本編に登場する、闇の眷属の束であるクールとその右腕であるルークが如何に出会ったかを、のんびりと綴っています。 特に本編をご存じなくても読める内容になっていますので、よろしければご覧下さい。 |
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