蟹淵の安長姫 |
杉の木々に囲まれた幽玄の山林。薄青い霧と暗緑色の木々が立ち並ぶ沢の縁。道なき道を頭に龍の骨を被った、蜂蜜色の長い髪を靡かせた少女が木の枝を振り回しながら歩いている。
「ふんふふふーん」
側頭部には黄色いリボンを着けた角があり、赤いケープの下には白いワンピースを着ている。腰に剣を下げ臙脂色のタイツを履いた少女の姿は、およそ山登りには似つかわしくないように見える。
しかしファラはそのようなことを気にもとめず、彼女にとっての冒険を満喫していた。
冒険とは主であるとこよから命じられた修行と呼ばれる鍛錬のことだ。遠方の地へ向かい、あやかしを倒すことで経験の糧を得る。陰陽師に従う式姫の代表的な活動の一つであり、ファラもまた修行を終えた帰りだった。
しかし、まだ幼く遊びたい盛りであるファラは修行の帰りに寄り道をすることを楽しみにしていた。
「きょうはこの川の先を見にいくぞー!」
手にした枝で道を指し示す。静かに清流が流れる沢の行き着く先。それが今回の寄り道の目的地だ。ファラはにこにこと笑いながら沢の奥へと向かっていった。
「おー!」
沢を上った先には、大きな滝となみなみと水がたたえられた広い淵が広がっていた。轟々と水飛沫をあげながら滝壺へ流れ落ちた水が溜まり形作られた淵。底の見えない淵は、さながら大地を穿つ大穴のようにも見える。
「すげー!でっかいなあ」
初めて見る滝と淵の威容に心を躍らせていたファラであったが、ふと目線を下ろした先の淵がごぽごぽと泡を立てているのに気がついた。
「なんだ、あれー?」
あの淵には何がいるんだろう。好奇心をそそられたファラは斜面を駆け下り淵へ向かおうとした。淵へ近づくにつれて、泡の下に黒黒とした大きな何かが潜んでいるのが見えてくる。淵に潜む何かに目を奪われたファラは、足元に伸びる木の根に気づかなかった。
「うわあっ!?」
躓いて転んだ拍子に腰へ下げた剣が鞘からすっぽ抜け、くるくると円を描きながら淵へ向かっていく。抜き身の剣は勢いのまま淵へ飛び込み、波紋を残して沈んでいく。黒い何かもまた、剣が沈むとともに一際大きな泡を吹いて淵の中へと沈んでしまった。
「いたたた……あー!」
起き上がり、服についた土埃を払ったファラは剣を落としたことに気づき、がっくりと肩を落とす。
「ファラの大事な剣、落としちゃった……」
式姫として召喚されてから肌身離さず持ち歩いていた宝物の剣。数多のあやかしを切り伏せた相棒とも言える武器である。
いざとなれば淵へ潜って探しに行こうか。そんなことを考えながらファラは淵の縁まで辿り着いた。
「……あれ?」
するとそこには、ファラの身長をゆうに超える、水草に覆われ苔生した大きな蟹の鋏が流れ着いていた。
「おー! でっかい! かっこいー!」
きらきらと目を輝かせるファラ。蟹はファラの好物であり、鋏はファラにとって「かっこいい」物であった。ファラは鋏の元へ駆け寄り、身長ほどはあろうかというそれを軽々と持ち上げた。
「シャキーン!」
手にした鋏をぶんぶんと振り回して遊んでいると、ファラの耳に美しく澄んだ少女の声が届いた。
「……もし。そこの貴方。どうか私の話をお聞きくださいませ」
「んー? 誰かいるのかー?」
ファラがきょろきょろと辺りを見回すと、剣を抱きかかえた美しい少女が岩陰からそっと顔を覗かせた。
「あっ、ファラの剣だ! 拾ってきてくれたのかー?」
「はい」
薄萌葱色の長髪に瑠璃色の瞳。袖のない白い着物に黄色の帯を締め、水で出来た天色の羽織を羽織った少女はファラの前に降り立つと、剣をファラに差し出し、話し始めた。
「私はこの淵に住む安長姫と申します。昔からこの地に住まいを構え暮らしていたのですが、いつの頃からか大蟹が現れ、棲みついてしまったのです」
安長姫は一旦言葉を切り、ファラの持っていた鋏を見つめた後、話を続ける。
「住みやすく整えた淵を荒らされて困っていた所、ファラ様が剣を淵へ投げ入れてくださったおかげで大蟹は片方の鋏を失い、弱っています。しかし、もう片方の腕はまだ残っていて、このままでは安はとても安心して暮らすことができません。そこでどうか今一度、大蟹を倒すお力添えをしてくださいませ、ファラ様……」
話し終えた安長姫はファラに向かって深々とお辞儀をする。頭を下げた安長姫を見つめ、ファラは間髪を入れず答えた。
「うん、いいよー!」
ファラはにっこりと笑顔を浮かべ胸を張る。安長姫ははっとしたように目を見開いた。
「こまった誰かを助けるのが式姫のやくめ。 とこよから教わったぞー! カニなんてファラがやっつけてやる!」
屈託のない無邪気で純粋なファラの笑みは、安長姫の頬をほころばせた。
「……はい、ありがとうございます、ファラ様!」
「じゃあ、ともだちのあくしゅだ! よろしくなーやすながひめ!」
「よろしくお願いします、ファラ様!」
ファラは片手を差し出し、安長姫はその手を両手で包むように握る。ここに小さな化け蟹退治同盟が結成された。
ファラは淵に生えている杉の木々の中でも一等背の高い巨木によじ登り、大蟹が出るのを待ち構えていた。高い場所へ登ったのは、ファラの友だちであるレヴィアの言っていた「ヒーローごっこ」をファラもやってみたくなった為である。
『高いところからどーんってやるんだ! つよくてかっこいーぞ!』
『はい。それでは準備ができましたら手を振って合図してくださいませ、ファラ様。安の力で蟹をおびき寄せます』
前もって行われた打ち合わせ通り枝の上まで登り終えたファラは、安長姫に向かって大きく手を振った。それを見て安長姫は手を淵へ向かってかざし、その力を行使する。
安長姫の力により淵の水が渦を巻き、その中心から徐々に大蟹が姿を現す。黒黒と光る甲羅は水草と苔に覆われ岩のような質感を放ち、鋏は人一人を容易に両断出来そうなほど禍々しいものに変貌していた。大蟹はまさに怒り心頭と言った様相で、鋏を振り回し水面へ叩きつけ、大きな水柱を上げている。
そんな大蟹の姿を見たファラであるが、彼女は臆することなく口元に手を当て、叫んだ。
「おーい! お前の鋏を斬ったファラはここだぞー! くやしかったらここまで登ってこーいっ!」
枝の上で剣を片手に挑発するファラの姿を目に止めると、大蟹は淵から上がり、脇目も振らずファラの元へと突き進んだ。歩を進める度地響きが鳴る。巨木の下へ辿り着いた大蟹はファラを見上げ唸り声をあげた。
「よし!」
後は飛び降りてあいつを叩き斬るだけだ。ファラは枝に手をつき剣を構えた。刀身から火の粉が舞い散る。しかし、大蟹もただ見上げているだけではない。
ギギィィィ!
荒れ狂う大蟹が鋏で巨木を打ち据え、ファラの立つ枝が大きく揺れた。あまりの揺れにファラは思わず体勢を崩してしまう。
「うわぁ!」
危うく落ちそうになったが、ファラは枝に剣を突き刺し難を逃れた。
「あ、危なかったぁ」
額に流れた冷や汗を拭い一息つくファラであったが、宙吊りになったままでは埒が明かない。
辺りを見回すと、大蟹が引き起こす振動で斜面を転がる大小の石と、ぐらぐらと揺れる岩が目に入った。
「あれだ! やすながひめー!」
「は、はい!」
「あの岩だ! あれを転がしてカニにぶつけられるかー!?」
ファラの指差す方向に岩があるのを見定めると、安長姫は頷いた。
「やってみます! 少しだけ辛抱してくださいませ、ファラ様!」
大蟹は手を緩めることなく幹を叩き続けている。軋みをあげながら揺れる枝から振り落とされまいと懸命にこらえるファラであったが、このままでは枝が折れるのも時間の問題だろう。安長姫は滑るように淵を駆けた。
(あれですね……!)
岩の前にたどり着いた安長姫は素早く呪言を紡いだ。掌に出来たつむじ風を口元に寄せ、そっと息を吹きかける。するとつむじ風はたちまち氷を纏う旋風となって岩を打ち据えた。
「氷血旋風!」
氷の風を受けた岩は斜面を勢い良く転がり、大蟹に衝突した。不意に受けた強い衝撃が大蟹の動きを鈍らせ、巨木の揺れが収まる。
「今だ! ありがとーやすながひめ!」
ファラは剣をばねにしてくるりと枝に飛び乗り、炎剣を天に掲げた。その刀身から獄炎が巻き上がり、凝縮され光刃を形作る。
枝を蹴り飛び降りたファラは落下する勢いを加えつつ光刃を振り下ろした。
「五龍咬!」
燃え盛る炎閃は五体の龍に分かれ、大蟹に喰らいつく。巻きついた炎龍は大蟹を締め付け、甲羅を砕き全身を瞬く間に焼き尽くした。ぐらりと揺らいだ巨体は轟音を立てゆっくりと倒れ臥す。
着地したファラは剣を振るい鞘へ収めた後、腰に手を当て満面の笑顔でVサインを作った。
淵のほとりへ戻ったファラを見ると安長姫はファラの元へ駆け寄り、飛びついた。
「ああ、ファラ様! よくぞ大蟹を倒してくださいました!」
ファラは安長姫を抱きとめるとくるりと一回転し、安長姫を下ろした。
「おー! やすながひめも手伝ってくれてありがとーな!」
「ファラ様のお陰で淵を荒らしていた大蟹を退治することができました。何かお礼をさせて頂きたいのですが……」
安長姫は目を伏せ、申し訳なさそうに続ける。
「安の取り柄といえば雨を降らせることと部屋を住みやすく改築することくらいで……そんな安でも、ファラ様のお役に立つことができるでしょうか……?」
「やすながひめは雨をよべるのか! ファラは雨もすきだぞー。 水たまりで遊ぶとたのしいし、雨があがったらきれーなにじがかかるんだ!」
ファラは期待を込めた目で安長姫を見つめ、手を差し出す。
「部屋の「かいちく」もとこよに頼めばきっと好きなだけできるぞ! いっしょにいこー、やすながひめ! ともだちと見るにじはひとりで見るよりずっときれーだぞ!」
安長姫は差し出された手をおずおずと握り返し、答えた。
「……はい!どこまでもお供いたします、ファラ様!」
以来、とこよの屋敷に新たな式姫が一人増えた。
安長姫はとこよから部屋を借り受け、余り物の素材を継ぎ合わせて家具を作ると、あっという間に閻魔も入り浸る快適な空間へと変えてしまった。
部屋には親友になったファラが訪れ、引っ込み思案な彼女をあちこちへ引っ張り回している。
また、時折その部屋の奥から「じゃんじゃか降れー!!!!」という掛け声がするとともに雨が降るようになったそうな。
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式姫Projectの二次創作小説です。 ファラくんと安長姫の出会いを書いてみました。 |
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