山尾悠子『ラピスラズリ』のオマージュ |
冬の間冬眠するという友人が冬眠のための支度をするというので買い物に付き合うことにした。
冬眠する、というのは文字通りの意味で、彼の一族は厳冬の来る前に食べるものを食べて贅肉と脂をたくさん身に着けてからぶ厚い布団の間に挟まれるように寝て、そうすると三月の頭ぐらいまでは梃でも動かないくらいに眠ってしまって目を覚まさないでいるのだという。初めて聞いた時は、それは単なる引きこもりじゃないの、と聞いてしまったけれども、そうじゃないのだと、生物学的に、本当に、冬眠と呼ぶほかに説明のしようのない状況に陥るんだといって彼は何か大きな運命に流されているような顔をして言った。
そのための買いだめである。スーパーへ行って、腹持ちのしそうなものを買うんだろうとは思ったけれども、実際にその買うものリストは彼の任せるままで、まずたくさんのイチゴ。そんなもの買ってどうするのかと思ったら、それを砂糖と一緒に煮込んでジャムを作ってそれを食べるのだと言う。甘いものがそれほど好きではない僕は気持ち悪いけれども、それが冬眠のためにはぜひとも必要な食事だというので、そのほかには皮付きの煎ったアーモンドを缶ごと買ったりビタミンの錠剤の輸入したらしい毒々しい色の大きな瓶を一瓶買ったりと、おおよそ僕の考えているような食いだめとは違ったものばかり買っていくのだった。
彼がそんなふうに冬眠をしなくてはいけないのは大学のころにはもう分かっていて、十二月も暮れごろになってくると毎年学校へ来なくなるのを不審がって彼の家へ行くと、そうして眠る準備をしている彼と出くわして実はこういう由縁があって自分は眠らなくちゃいけないんだというようなことを別段世間話をするのと変わらないような口調で言い、それは大変だねと僕が口走るとそんなことはないよと言って、あの甘美な死に限りなく近づいていくような眠気による瞼の重たさは生きている人間には味わえないような心地よさがあって、それがために我々は体質を変えることもせずに冬眠を繰り返しているんだと言いながら、暮れ方の部屋で明かりもつけずにイチゴジャムをコトコトと煮立てる音のかすかに聞こえるだけの静かな1LDKの部屋で聞いていた。
それで今年も冬眠の季節が近づいていて彼はその準備で忙しく、実家にいたころはお手伝いさんがたくさんいてその人たちがみんなやってくれてて、実家に戻れば今でもそういう景色が見られるのだろうけれども、いろいろあっておれは実家を放逐されてしまったからねえと言うときの彼の顔はほんの少しだけ寂しそうで、何かがあったのだろうけれども僕はいまだに聞くことができないでいる。
イチゴが砂糖に溶けていくとジャムの煮える甘ったるい匂いが部屋中に立ち込めて、これは壁紙にしみついてしまって敷金は戻っては来ないだろうなあと思うけれども、でも友人はそういう家の出であろうからお金には困っていないらしく、実際彼がアルバイトをしているというような話は聞いたことがない。
まあ冬の間はアルバイトはできないだろうから、やるにしても短期的なアルバイトに限られるんだろうけれども、それにしたって彼が貧窮している様子はないし、学生の分際で独身の小金持ちみたいな部屋に住んでいるし、着ているものだってなんだか見たことのあるようなブランドの服ばかりだ。本当は僕のような庶民は鼻持ちならなくなるような人種であってしかるべきなんだろうけれども、彼は気さくで根暗だったから僕は嫌いではなかった。
スーパーから帰って冷蔵庫にイチゴを入れて、それで後の食材は冬眠までに食べきってしまわないといけないのだけれども彼はズボラでもともと計画的に食材を買うなんてことは向いていないので、冷蔵庫の奥の方には半分だけ食べたサバの缶詰だとか海苔の佃煮の瓶詰だとか鮭のほぐし身だとかがバラバラに詰まっていて、どうせあと一週間かそこらで三か月近く眠ってしまうような人間には食べきれるはずもないのは分かっているのだ。
彼はなんでも好きなものを持って行っていいよと僕をていよく残飯処理係に任ずるのだけれども、僕の方でもそれでよっぽど怪しいのは食べないけれども、でもこの季節になったら彼の買うちょっと高級な食材とかデパートの地方の物産展とかで売っていそうなあんまり見ない缶詰とかの残り物をもらうのはある種の行事になっていて、紙袋を持って彼の家に足しげく通うのは実はそういう狙いがあるからなのだ。
それで今日も食べきれない缶詰だとか封を半分開けちゃってるお菓子だとか飲みさしのワインだとかを紙袋に詰めていると、彼がふとぽつんと呟くことには、おれは年々思うのだけれども、もしかしたら今度冬眠したら起きれなくなってるんじゃないかって思うんだよねえと言い、彼がそんなことを言うのはいつものことなので、というのも冬眠とその甘美な睡眠にも似た仮死状態はそれこそ死にどこまでも近づいていく行為だから、そして目覚めた時の衰弱した身体は腕も上がらないくらいでウィダーインゼリーの蓋を開けるのも半死半生で行っているぐらいらしいからそういう気分になるのはいつものことなのだ。
だから僕は聞き流していたけれども彼は今度ばかりは本当だよと言って僕の缶詰を漁る手を握って、おれが目覚めなかったら実家の叔父に連絡をしてくれといって、住所と電話番号を書いた紙を渡された。叔父だけはおれのことを心配してくれて、今でもたまに見に来てくれるんだよと言った。
それからよく煮えたイチゴのジャムを瓶の中に詰めていくための清潔なスプーンを作るために別の鍋を火にかけて煮沸消毒の準備をする彼の横顔を見ていると、僕は彼の言うことも案外本当なのかもしれないと思って、どうしたの急にと尋ねると、彼は自分の死の予感に敏感になることが畢竟人間のこの世を生きていくための最大の勘所じゃないのかなと分かったようなことを言う。
僕にはぜんぜん分からない。
それで彼の家を辞する時間になって僕は両手に抱えきれないくらいの彼の家の余剰物をもらってありがとうと言って帰ろうとし、彼は実家の方ではこうはしないのだけれどもと言って僕に合鍵をくれて、三月の半ばになっても連絡がなかったらよろしく頼むよと言い出して、なぜ実家の方ではこうはしないのと聞くと、お手伝いさんが反乱を起こして主人と入れ替わってしまうことを恐れているんだよと言って不思議な顔をした。
その年の行く年くる年を見ながらそんなことを思い出して、彼はそういえば行く年くる年を一度も見たことがないのだろうなあと思うと変な感じがし、ゴーンと言う鐘の音がテレビの中からとあと窓の外から聞こえてくるのを聞きながら、あと三か月後、僕はこの合鍵を使う羽目になるのかどうか考えて、缶詰やらなにやらの代償として死体の第一発見者になるのはいやだなあと思ったけれども、でも仕方ないか。
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