遥かなる海辺より(人魚の歌にまつわる小さなお話)第3章:エピローグ |
ホワイトクリフ卿が手記を読み終えると、大広間にはなんともいえぬ沈痛な空気が流れた。その場の誰もが知っていた。人魚のその後の運命を、ルヴァーンの願いが叶わなかったことを。
彼らにその顛末を告げたのは一人の尼僧だった。ラルダという名のその尼僧は人魚を救おうとしたが間にあわず、恐るべき破滅の唯一の生き証人となってしまったのだ。
人魚の噂はしだいに内陸にも伝わっていった。そして漁らぬ民の間では豊漁をもたらす海辺の神としてではなく、不老不死の神秘的な生き物として語られるようになり、やがて狩猟の民を祖とする人々の間では、その血肉に長寿の秘密があると見なされるに至った。そして樹海のほとりに位置するヴァルトハール公国に伝えられたとき、噂は人魚の心臓から流れる血こそが不死の霊薬にほかならないというものにまで変貌を遂げていたのだ。
それが簒奪者グロスベルクの耳に入った。たぐいまれな知謀の才持つ青年は、しかし病弱な体の持ち主でもあった。大陸全土に張り巡らせた策謀が効を奏し始めた矢先、彼の体は急速に衰えを見せ始めていた。
焦った主の命を受け、間者たちはルードの村を急襲した。夜影に紛れて小さな入り江に大量の痺れ薬を流し、動けなくなった人魚を空き樽の一つに押し込めると、異変に気付いて集まってきた村人たちを容赦なく斬り捨て、逃げ惑う人々を蹴散らして主の待つ白亜の居城へひた走ったのだ。
グロスベルクは薬による眠りから目覚めつつある人魚の心臓に刃を突き立てた。瞬間、妖魔の断末魔の苦悶がその力に乗って爆発し、小とはいえ国一つを丸ごと呑み込んだ。突然襲いかかった致死の苦悶におよそ痛覚を持つ生き物は何一つ抗し得ず、真昼のヴァルトハールは瞬時に壊滅したのだ。致死の幻覚に耐えられたのは神の加護に守られた上に人魚を殺せば何が起こるかを知っていた、かの黒髪の尼僧ただ一人だった。
わずか三年前のことだった。だが海辺の小さな楽園は、すでに失われてしまっていたのだ。多くの人々を巻き添えに。だれ一人言葉を発する者もなく、沈黙の重さはいや増すばかりだった。
やがてセシリアが涙をぬぐい、そっと笛を吹き始めた。メアリの竪琴もためらうように加わり、先ほどの演奏よりゆっくりと、そしてさらに繊細に。
ただそれだけの違いが、だが同じ曲を一変させていた。全体は陽炎のようにゆらめき、舞の動きは夢見るごとく、挽歌の痛切さは彼岸の響きに溶け込んでいた。そして慰謝の調べはあまりにも儚く、一同は遠い彼方に去った者の思いのこだまを耳にする心地さえしたのだった。もはや現世の音楽とは思えなかった。そしてそれは、自らも悲しみの心から生み出されたものでありながら、非現実的なまでの美しさゆえ決して人々の心を苛まず、心の澱を包み込むように癒しさえしてゆくのだった。
曲が終わったとき、沈黙からは押さえつけるような重苦しさが消えていた。誰かがほうっとため息をついた。
するとホワイトクリフ卿がセシリアの前に進み出て、車椅子の少女に深々と頭を下げ、口篭りながら詫びようとした。
「もしや私は短慮ゆえにあなたを悲しませ、めでたき祝いの席を台無しにしたのでは……」
「決してそんなことは! この曲は一生の宝です」
セシリアはあわてて遮った。
「どれほど感謝しても足りないくらいです。そんなふうに頭などお下げにならないで」
「なんだか僕、夢でも見てるみたいだ」
薬師の少年が感じ入った様子でいった。
「同じ曲を同じ人が演奏してるのに、それでもこんなに違うなんて……」
「演奏ってそういうものなのよ、ロビン。心を込めれば込めるほど、その時の気持ちや場の雰囲気が反映するの」
セシリアの言葉に、メアリも無言でうなづいた。
「つまり、この違いは曲の由縁を知る前と後との気持ちの違いを映していることになるわけか……」
「ということは、曲の由来を知らなければ、最初の演奏のようになるだろうってことでありますか?」
感慨深げなアーサーに、アンソニーが問いかけた。
「おっしゃるとおりだと思います。それに今の演奏は由来だけではなく、その後のことまで知っていたからああいうものになったのだとも」
セシリアは答えたあと、つぶやくように言い添えた。
「あるいは私は、この曲の意味あいを変えてしまっていたのかもしれません。この場だからこそ通用する、許される演奏だったといえるのかも」
「だがこの場では、少なくとも俺たちには、今の演奏はかけがえのないものだった。そうは思わないか?」
「同感だ。まるで癒しの魔法にかかったみたいだった」
エリックの言葉に大きくうなづくリチャードを、メアリが横目でじろりと見た。
「魔法はこりごりだとかいっていたのは誰でしたかしら?」
「狼の尻尾といっしょにできるか。こんな魔法なら大歓迎だ」
そのやりとりに一同の顔にも笑みが戻り、雰囲気が目に見えてほぐれた。そのときノースグリーン卿が思い出したように青年騎士に問いかけた。
「貴君の曽祖父どのはこの曲を世に出されなかったのだろうか。これほどの曲が世に出ていれば、今の我々が知らずにいることはありえないとしか思えぬが」
「経緯は今わからぬにせよ、おそらく感じるところがあったものと。若かりしといえど我が先祖。見せ物師のまねなどできなかったのでしょう」
誇らしげに胸を張るホワイトクリフ卿に、ノースグリーン卿は思い惑う風情でいった。
「だが、これほどのものを娘が秘蔵するのは正しいのだろうか。ルヴァーンも世に出すだけの価値はあるといっていたことだし。セシリア、どう思う?」
「この曲はとても尊いもので、私一人が持っていていいものではないと思います。悲しいことですが、人魚もこの世にいない今、あえて隠しておく必要はありません。せめて彼女が遺したこの曲だけでも、なんとか伝えられてほしいと願います」
迷いなく答えた車椅子の少女に、メアリが疑問を呈した。
「竪琴はともかく笛のパートは難しすぎませんこと? これでは吹ける人などめったに出てきませんわよ」
するとエリックが頭をかきながらいった。
「さっきの素人考えだが、いっそ笛のパートを二人に書き直したらどうだろう? もとの楽譜はお嬢さんがもらうということで。それで丸く収まらないかな?」
エリックの案は一同に支持された。最後にノースグリーン卿がいった。
「この曲はかのヴァルトハールとも因縁あるものゆえ、ご領主に報告がてらご相談してみよう。なにかいい形で計らって下さるやもしれぬ。御前演奏も求められようから二人で時々さらっておいてくれ」
半月後、曲は領主スノーフィールド伯に披露された。いたく心を動かした伯はエリックの発案どおり笛のパートを二人で吹ける形に編み直させた上で、この曲を課題曲とするコンクールを開催した。国内外を問わず多くの名人たちが集まり、得意とする曲に加えてこの曲を演奏した。二人用に編曲されたことで見かけ上の難易度は下がっていたものの、その美しさと内容の深さが多くの名人たちを、そしてその演奏を聴いた人々を魅了した。曲の由来は何一つ明かされなかったが、楽譜を自由に持ち帰ることが許されたため曲の素性を探ろうとする機運が盛り上がることはなく、それまで極北の辺境都市と見なされていたスノーフィールドは、高い文化水準を誇る伯爵領としての名声を大いに高めた。
こうして名人たちが各地に持ちかえったことで、この曲は広く知られるに至った。その美しさを多くの人々が愛で、哀しみと慰謝の交錯に慰められ力づけられた人々の心の宝となった。
それらの名人たちの中に、最も曲の本質に迫った者がいた。彼は曲の由来を何一つ知らぬまま、それでも曲中に世代を超えて継がれてゆくものの存在を感じ取った。彼は二つの笛のパートの分担を変えた。冒頭にしか登場しないパートを弟子が受け持ち高い表現力を要する主たるパートを名人が吹くのが通例だったこの曲を、彼はあえて弟子に主たるパートを受け持たせることでその表現力を高めるために用い、一人立ちする者に楽譜の写しを与えるようになった。弟子たちが師匠にならったことで、この曲は受け継がれる技と伝えられる心の象徴としても重んじられるに至ったのだった。
その御前演奏から半年後、一同はかつてヴァルトハール公国があった土地にいた。諸国での暗躍中に突然祖国が滅亡したことで家族もなにもかも失い投降したかつての間者たちは、恭順の誓いを守りつつ困難を克服して小さな村を再建していた。一行はその視察の任務を終え、明朝この地を旅立つことになっていた。その日の夕刻、彼らは人魚に別れを告げる最後の墓参をした。
ルードの村から引き離され死んだ人魚の墓は、小川のほとりの最も見晴らしのよい場所に築かれていた。彼女の死の生き証人となった黒髪の尼僧は、流れのゆく先を最も遠く見晴らせる所を選び骸を憩わせ、かつての間者たちも祖国の滅亡と村の起こりを告げる特別な場所として、その地を整備していた。簡素な台の上に横長の白い墓石が、遥か彼方の海に向けて置かれていた。
斜めに傾ぐ陽光はまだ赤く染まり始めておらず、草原に映えて金色のさざ波のように散乱していた。低い土台は影に沈み墓石の白さを際立たせていた。ルヴァーンの手記に接した一同の目に、それはありし日の人魚の影のように感じられるのだった。
メアリが竪琴を爪弾き、セシリアの笛が和した。その場の人々のすべての思いを乗せ、遥かなる海辺より生み出された人魚の歌はいま、この場でしかありえぬ哀惜に満ちた調べとして、かつてそれを歌った人魚の霊に手向けられるのだった。落日が空と草原を真紅に染め、やがて銀の砂を散らしたような星空に変じる中、立ち去り難い人々の心を映す調べは何度も何度もくり返されるのだった。
終
説明 | ||
ルヴァーンの手紙を読んだ一同は、その楽譜の由来をいっさい伏せたまま世に出すことにした。剣と魔法の世界の片隅で眠っていた異類の歌にまつわるささやかな物語。 幼少期より続く人間ならざるものへの愛着に音楽へのオマージュを絡めた、おそらく拙作中では最も好ましい形にまとまってくれた一編です。元々は別の長編の背景をなすエピソードとして書いた章に音楽という要素を持ち込み語りなおしたものですので、末尾に長編での形を付章として添えさせていただきました。 |
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