Angel's Whispers 〜天使のささやき〜
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「こら、真紅(しんく)、どこを・・・見てるのっ?!」

 ある遊園地の一角、売店などがそろっていて、園内の客が休憩に使っているコーナーで、首筋が見て取れる程度に短く切りそろえたボーイッシュな髪の女の子が、右隣に座っている、どことなく頼りなさそうな、一見すると女の子とも取れそうな男の子に声をかけた。

 同時に、その彼女は、彼の左耳を引っ張って、自分の方に無理矢理向かせている。

「いてててて・・・な、なにするんですか、先輩」

 彼はそう言って、抗議の目を彼女に向ける。彼女はむくれたように、頬を膨らませてむすっとした表情を浮かべ、口を尖らせて、彼の抗議の目を見つめ返した。

「…なにするんですかぁ?ねぇ、それって場違いな質問だと思わない?真紅」

「だって、何を言っても水樹(みき)先輩ってば、無視するんだもん」

 彼のその抗議の目と言葉に、彼女はさらに不機嫌そうな顔をして、彼を睨み付ける。彼はその彼女の表情と、自分が口走った抗議が、彼女に対しての「禁句」であったと気付き、口を慌てて両手でふさいだが、すでに手遅れで、彼女の不機嫌そうな顔は直る気配が無い。

「ほほ〜う。翠浦 真紅(みどりうら しんく)くん、君はいつから水樹先輩にそんな言葉を堂々と言えるようになったのかな?」

 翠浦 真紅は、慌ててごまかすように、水樹と呼ぶ彼女に乾いた笑いを見せて言う。

「や・・・やだなぁ、天野(あまの)先輩、もちろん冗談に決まってるじゃないですかぁ」

 天野 水樹(あまの みき)は、そう答えた真紅に「今まで私のほうに視線さえ向けてなかったじゃないか」と言いたそうな、訴えかける目で真紅を見つめていた。

 

 真紅は、ある私立高校の二年生、水樹は真紅と同じ高校の三年生。

 学校内では、真紅の子供っぽさと無邪気さが、どことなく「守ってあげたい」と母性本能をくすぐるのか、学校の女子生徒に人気だった。

 一方の水樹は、少し男勝りのところがあり、体つきこそ、良いように言えばスレンダーではあるが、あまり大きくない胸とお尻ながら、顔つきはキリッと引き締まり、いわゆる宝塚の男役とも見間違えそうな美貌を持ち、男子・女子ともに人気の生徒だった。

 そんな注目度の高い二人が付き合っているという話は、学校内でも有名で、そんな二人を見て、羨ましがる者や逆に引き裂かんとする者、真紅を、水樹を、狙ってくる別の生徒たちが居たりはしていたが、二人はそんな手から逃れて、どこか自然と全校レベルでは受け入れられていた。

 学校ではあまり二人でいることは少ないが、それでも放課後などは二人で話しているところや、一緒に下校するところを目撃されたりしていた。そして、こうして時々二人で遊びに出たりもしていた。

 

 尚も訴えかけるような目で真紅を見つめている水樹。そんな水樹の威圧的な瞳に、真紅は結局自分が謝ることになる。

「・・・ごめんなさい、水樹先輩。僕が悪かったです」

 水樹は何かを言いたそうに、いまだ真紅から瞳をそらそうとはしていなかったが、真紅は水樹に手を合わせてぺこりと頭を下げ、許しを請う。そんな真紅の態度に、水樹はなんとなく満足したのか、いままでの威圧的な瞳をちょっと伏せて、「しょうがないな」とでも言いたそうな顔をして、軽くため息をついてみせた。

「許して…いただけます?」

 ちょっとだけ頭をあげて、真紅は水樹を覗き込む。水樹はちょっと笑みをこぼして、そんな真紅を見つめて言う。

「ま、大目に見てあげるよ。大好きな真紅の頼みだもの」

 普段の水樹からは想像できないような、無邪気な子供っぽい笑顔を見せて、真紅に呟く。真紅もそんな水樹の笑顔にホッとした様子で、つられて笑顔を見せた。

 普段、二人でいることは少なくなく、だが多いとも言えない状況だったが、それには一つ理由があった。

各学年の女子から注目を集めている真紅は、確かにその取り巻きとも言うべき数は多いほうだったが、それでも天野 水樹と言う人物が真紅の近くに来ると、自然とその取り巻きは消えることが多かった。

 一方の水樹は、確かに各学年男女に人気もあり、取り巻きも少なからず居たりしていたが、それ以外に水樹にはしつこく付きまとう、一人の男が居た。水樹はその男のことを名前で呼ぶのさえ嫌悪して「疫病神」と呼んでいた。

「…そう言えば、久しぶりだよね、真紅。キミと一緒にデートと称して歩くのも」

「そうですね。僕の方は水樹先輩が居てくれれば、自然と近寄ってこなくはなりますけど、水樹先輩には「疫病神」が居ますからね」

 いつからか、水樹の言う「疫病神」のことを、真紅もそう呼ぶようになっていた。水樹はその真紅の言葉を聞き、フゥッと大きくため息をついた。

 水樹に付きまとう疫病神と言うのは、以前、水樹が真紅と付き合い始める前に、水樹と良い雰囲気のところまで行った男だった。だが、水樹としては、どこか受け入れがたいところがあったりして、付き合うまでには至らなかった。そうしているうちに、真紅と親密になり、水樹はこの男のことが邪魔になり、きっちりと「あなたとは付き合えない」と言って別れたつもりで居た。だが、何を勘違いしたのか、その男は断られてもなお、水樹にしつこく付きまとい、水樹が鬱陶しくて邪険にしている態度でさえ、意に介さずと言った感じだった。水樹いわく「まだ、私がヤツのことを好きだと思っているみたい」とのことだった。

「まぁ、ね。…真紅がもっとはっきり自己主張してくれれば・・・」

 水樹が少し、恨めしそうに真紅に言って見せると、その水樹の言葉を遮って真紅は言う。

「僕が全然、自己主張していないって訳でもないんですよ、実際。まぁ、そりゃ、以前の僕は何も言えませんでしたけどね、今は水樹先輩のおかげで、一通りの自己主張や文句のひとつは言ったりしているんですよ」

 真紅がなんとなく、おっかないと言った雰囲気で水樹に言うと、水樹は半信半疑と言った瞳で真紅を見つめる。しばし沈黙が流れたが、「ふむ」と軽く相槌を打つような声を発して、水樹は言葉を続けた。

「なんて言ったの?あの疫病神に。それに、そんな態度を取るんなら、証人と呼べる人が居たりするんだろうね?」

 水樹のそうした言葉に、真紅は少したじろいで見せたが、鼻の頭を右の人差し指で軽くかきながら、水樹の質問に答える。

「水樹先輩は嫌がっているってことと、僕としても鬱陶しいってことを伝えましたよ。ちなみに、証人は紗美(しゃみ)さんですよ」

 真紅の疫病神に対する言葉には納得した水樹だったが、その証人として名を挙げた時、水樹は少し眉をひそめた。

「へぇ・・・如月 紗美(きさらぎ しゃみ)の前で、そんなことが言えたんだ」

 名前を挙げることに少しの嫌悪感をもった水樹だったが、今は真紅をちょっとからかっているのが楽しいのか、つい意地悪く突っかかるような言葉を発していた。

「でも、さ。強くなったじゃないの、真紅もさ。『あの頃』から比べれば…さ・・・

 

 件の如月 紗美と言うのは、一年から今までの真紅のクラスメイト。まだ二人が一年生だった頃、紗美は真紅に一途な想いを寄せていた。真紅は今とあまり変わらず、学校の女子生徒に人気があったが、特定の誰かと付き合っていると言うことはなかった。

 そして、紗美には真紅とはまた別の、とても大切な存在もあった。それは他ならぬ水樹だった。紗美は水樹に真紅のことを相談したりして、水樹もそんな紗美の背中を押せたらと自分なりにアドバイスを送っていた。

 そして、紗美は真紅に告白して、二人は付き合うようになった。

 ところが、紗美と真紅が付き合い始めた数ヵ月後、紗美は真紅に一途な想いを抱きそれを伝えながらも、真紅に隠れ別の男を作っていた。真紅とて、遊びで付き合っているわけでもなく、紗美のそうした行動に対しては、抗議の声を上げていたが、紗美はそれを聞き入れることもなかった。当時紗美に、真紅の何が不満かと言うことを水樹は訊ねていたが、紗美からは、はっきりした答えは返ってこなかった。ただ、紗美自身が火遊びを楽しんでいるのではないか、と言うことだけは当時の水樹には感じ取れていた。

 紗美はその男に従順な部分もあり、いつの間にか、紗美と真紅との間には、深い溝が出来ていた。そして、最終的には、男の指示で紗美は真紅と別れるに至っていた。真紅はそれでも紗美を諦められず、何度となく復縁を申し込んでいたが、紗美は「真紅のことは好き、だけど一緒には居られない」と言って、距離を置くようになっていた。

 そんな時に、紗美の不振な行動が気になり、だが自分勝手になっていた紗美を見て、水樹は紗美にではなく、真紅の方にアプローチしていた。

 真紅と話をしている水樹は、真紅のどこか頼りない部分と、どうにも女々しく感じられる部分が、紗美にとっては気に入らなかったのではないかと感じてはいたが、ただ熱心に真紅のことを相談してきていた紗美から聞いていた範囲では、特別、紗美が嫌うような部分も感じられなかったし、何よりこうして水樹自身が接していて、マイナス要素と感じられる部分が、真紅にはそうそうなかったのが事実だった。

 この頃の水樹は、周りのみんながそうしているように、制服をすこしだらしなく着こなし、制服のネクタイもゆるく結んでいた。スカートの丈も極端に短いものを穿いていた。そして、言ってしまえば今風と言えるような、少しガラの悪いような男と付き合っていた。校則違反とわかっていながらも、両耳にはピアスもしていたし、時には指輪などもして、登校することもあった。そんな水樹だったが、実際はそうやって外見だけを繕っているだけで、身体の関係はおろか、キスさえしたことの無いような、実は純粋な娘でもあった。

 そんな水樹は、いまこうして相談相手をしている真紅が気になり、放って置けないのも事実だったが、それと同じくらい、紗美のことを心配していた。水樹の友人たちから聞いた話では、紗美の男と言うのが女をとっかえひっかえ変えているようなやつであること、そしてすぐに身体を求めるような男だということを聞いていたからだ。

 だが、真紅のフォローをしながらも、紗美の情報を集めていると、どうやら男のほうから紗美に近づいたわけではなく、紗美がアタックしていたようだということ、そして、紗美自身から身体を許していたらしいことがわかった。水樹はその事実を信じられず、また紗美に限ってそんなことをするような娘では無いと、ここまで紗美と付き合ってきた中で思っていた。何かの間違い、そして、紗美が許したのではなく、男が強引に紗美の身体を奪ったと信じて疑わなかった。

 しかし、現実には、紗美が積極的にその男との付き合いをしていた。そして、紗美が男の手を引き、ホテルに入っていくところまで目撃してしまったのだった。

 この時から、水樹は今のように紗美をフルネームで呼び捨てにするようになった。

 また、そんな紗美に想いを寄せた真紅のケアもしながら、真紅が立ち直るまでの間、出来るだけ相談相手になり、紗美のことは諦めるよう諭していくようになっていた。

 

・・・あの頃の真紅ってさ、男子生徒って言うんじゃなくて、なんか「妹」って感じがしてなんなかったんだよね〜。…それまで、如月 紗美が妹だったんだけど、あれ以来、その場所には真紅が居るようになっちゃったんだよ」

 にぎやかな遊園地内を二人並び歩きながら、水樹はそんな昔話を思い出したりしていた。真紅と水樹が付き合い始めて、半年が経とうとしていた。

 

 

「ふーん・・・翠浦クンて、結構他人想いなんだね。あ、でもそれは自分が許せる相手、ってこと限定なのかな?…以前は、如月 紗美もそんな可愛くて、一途な想いを心に抱いたまま、なかなか動けないなんて、純情な頃もあったんだけどねぇ」

 紗美の一件から、頻繁に相談と称して、真紅と話をするようになっていた水樹。紗美が真紅と距離を置き始めた時から、間もなく三ヶ月が経とうとしていた。

「うぅ〜ん、如月 紗美のことを言う前に、自分のことだよなぁ。私は・・・あんまり清楚って感じでも潔癖って訳でもないから、こんなその辺の誰でもしている格好でいるし、それこそ男って存在がほしいって、それだけで付き合ってるところは認めるんだけど…それでも、本当の目的って、感じられないんだよね。翠浦クンと如月 紗美がこじれた頃に、私もちょっと喧嘩別れしてね。今はまた違う男とそれっぽい関係になってるけど…正直、なにが面白いのかわかんなくなってるかも」

 真紅自身がなんとなく、紗美離れでき出来てきたと水樹自身も思えるようになったある日のこと。真紅の一途過ぎる部分について少し話して、水樹は自分のことをこんな風に卑下するような言い方で話していた。

 少しの沈黙。そして、おもむろに真紅が口を開く。

「・・・ご心配、おかけしました。天野先輩」

「ん?ああ、気にしないでぇ、翠浦クン。キミと話するの、楽しいし、なんかこう…新鮮って言うか、ただ他愛も無い話をしているだけでも、なんか違うんだよね。その雰囲気が好きだからさ。別にコレでおしまいって訳じゃないし、些細なことでも、いつでも相談においで」

 とりあえず、水樹と真紅は「如月 紗美を介した、先輩と後輩」と言う関係の範囲内で、それ以上の付き合いはこの時はまだなかった。

 だが、水樹の方が真紅に惹かれるようになるのは、それから間もなくのことだった。

 

 ある休日の午後。真紅と話すようになって知ったことだが、水樹と真紅は偶然にも普段利用している駅が同じで、駅出口の方向は違うものの、ともすれば、頻繁にすれ違っていた可能性が高いということを水樹は知る。

 そして、真紅が普段使うという出口の方で、水樹はまだ付き合いの浅い男と待ち合わせをしていた。少し待ち合わせの時間より早く来た水樹は、所在なさげにきょろきょろと周囲を見回して、行き交う人々の姿を追っていた。

 休日だけあり人出は多く、人と人がぶつからないのが不思議、と言う感じでさえあった。そんな中で、しかし案の定と言うか、小学校に入って間もないと思われる子と、誰かがぶつかり、その子は転んでしまっていた。

「あれ・・・?翠浦…クン?」

 転んだ子に手を差し伸べ、申し訳なさそうに謝っている姿を水樹は見つめる。それは真紅だった。人の往来で立ち止まるのは少し無謀とも思える行為だが、しかし真紅は少し泣きべそをかいているその子を立たせると、真紅もその子と同じ位置に視線を持っていくように、その場にしゃがみこみ、その子に怪我など無いか心配していた。ただぶつかっただけでは、こんな態度を取る人も少なく、その子自身も真紅の態度に驚いた表情だったが、とりあえず怪我などもないことがわかると、真紅はその子に向けて、学校でも見たことの無いような無邪気な子供っぽい笑顔で、その子の頭を撫でていた。

(へぇ…良い笑顔するんだなぁ、彼。学校じゃ如月 紗美とか、他の取り巻きのおかげであまりああいった屈託の無い笑顔なんて見せられないんだろうけど…)

 水樹は、何気なく見つめていた真紅にこんなことを思っていた。そして、その瞬間になにか今まで感じることのなかった、虚しさのような、どこか不安定な感触を自分の中に覚えていた。このとき、水樹は特別真紅に声をかけたりせずに居たが、それが逆に水樹の中にある虚しさ・不安定な感覚を大きくしていた。

 待ち合わせをしていた男と合流して、特に目的もなくただブラブラと歩いていたが、ふと考えにふけると水樹は、真紅のことを考えるようになっていた。そして、先ほど見かけた笑顔が忘れられなくなっていた。

 目的のない状態でなにがあるのか。そんなことを考えると、今していることがなんだか酷く虚しく感じられ、今自分が感じているその虚しさの要因の一つではないかと思うようになった。そして、真紅といろいろなことを話し、もっと実のあることをしたいと願うようになっていた。

 男のほうは、水樹があれこれと考えていて、普段よりも表情も冴えなく、口数も少ない  のだが、そんな様子に気付く気配もなく、ただ水樹と歩いているだけだった。

「・・・ふぅ」

 なんとなく水樹はため息をつく。だが、そんな様子も気にすることはなく、男はただ街の中を宛てなく歩く。

「ねぇ、ただ歩くだけなの?」

 水樹はなんとなく立ち止まり、男に言うが、男は水樹が何を言っているのかいまいち理解してないようだった。

「・・・あんたと居ても面白くないや。今まではそれでも良いのかなって思ったりもしてたけど。ただ「男と一緒」って言うだけなのも、満足できない。特に、あんたみたいなどこにでも転がっていそうな、誰かの真似ばかりするような男は…つまんない」

 水樹は呟くように言うが、男は水樹が何を言っているのか、そもそも自分のことを言われているのだと言う意識さえ、持っていなかった。

「別に流行とか、誰もがそうするから、って理由で同じことをしなくても良いし、あえて違う自分で居たほうが、そしてそれを導いてくれる人がいるなら、そっちの人のほうが私はいい。みんなと一緒だから安心なんて、逃げてるだけだよね」

 水樹はこの時、この男から初めてのデートでもらった指輪を右中指にしていたし、ほかにもピンキーリングなどをしていたが、それらを全て外し、男に手渡す。ピアスまでは取りはしなかったが、それでも、耳まで手は伸びていた。

「…返す、その指輪。ピンキーもあげるよ。…他の女にでもあげてよ。学校じゃそこそこ容姿とかで噂されてる、天野 水樹を自分の女にすることで優越感に浸ってたんだろうけどさ。もう終わり。男と女「ごっこ」はもう、おしまい。じゃあね、さよなら」

 未練などこれっぽっちもないと言いたげに、水樹は男にそう言うと、なにが起こっているかわかっていない男に対して背を向け、人ごみの中に姿を消した。

(・・・自分、見失ってるよなぁ。偽ってるよなぁ。表面だけ、見た目だけこんな着飾ってても、虚しいだけだし、きっと…翠浦クンが子供に見せたような笑顔なんて、絶対できないんだろうな…)

 人ごみを足早に歩く水樹は、自分でもこんなことを考えていることに驚いた。だが、真紅を見たときに感じた虚しさや不安定さの「何か」を感じられた、とも思っていた。水樹は誰かの真似をして、みんなと一緒のことをする、そのことに違和感を感じ、どこか飽きてもいたのかも知れないと感じた。

 一方の真紅も、今まで水樹と色々と話しをしてきて、ただ紗美という女性に未練だけを残していても仕方ないんだと気付き始めていた。そして、紗美が居ることで「彼女の居る自分」に満足していた自分にも気付いた感じだった。

(今回は天野先輩が近くに居てくれたから良いけど…これから誰かが近くに居てくれる保障はない。もう少し、強い志を持たないとだな・・・)

 とは思うものの、それでも自分はどこか弱い、女々しい部分を持ってしまっていると感じていた。だが、学校にいる、ただ自分と言う存在だけを求めるような女性相手では、たぶん飲み込まれる。誰かと付き合うのではなく、だけど誰かに支えられながら、少しずつ自分の想いを持って行きたいと感じていた。

 

「あ、翠浦クン。…あのさ、ちょっと話があるんだけど、いいかな?」

 ある日の放課後。今まで紗美のことで相談に乗っていた水樹は、ちょくちょく真紅の学年、真紅のクラスまで来ていた。だが、ここ一週間ほどは、真紅が立ち直りつつあると水樹も感じ、足を運ばなかった。

今まで感じていた違和感、それを解消したい、水樹はそう思って、真紅としっかり話をしようと思い、今日は久々に真紅のクラスに足を運んでいた。

「あ、はい。かまいませんけど・・・天野先輩、その…制服、どうしたんですか?」

 真紅は水樹のちょっとした変化に気付いた。

 今までの水樹は、短いスカートに緩く結ばれたネクタイ、シャツも裾を外に出しているような格好だったが、今日の水樹は、しっかりとアイロンのかかったぱりっとしたブラウスに、きっちり締められたネクタイ、そして、ひざ上5cm程度でいわゆる「標準」と言われる長さの丈のスカートを着用していた。

 それと、幾分派手さを出していた、指輪やピアスがまったくつけられていなかった。

「ん・・・こう言う変化のことも含めて、話しがしたいんだ」

 ボーイッシュな感じが、いつになく発揮され、そして屈託のない笑顔を見せて、水樹は真紅にそう告げる。水樹の言葉に少し疑問を抱きながら、真紅は水樹の後について場所を移動する。校舎の屋上、開放されていたが、放課後にはあまり人の来ない場所。

「…今まで、如月 紗美のことで色々と話してきたじゃない。で、なんとなく感じたことなんだけどさ。…あ、気付いたのはつい最近なんだけどね、昨日までの私って、どこか自分を見失っていた、そんな感じがするんだよね。みんなと同じでいい、みんなから離れたくない、みんなの中で埋もれたままでいい。そんなことを思って、本当の自分って言うのを偽っていた、そんな感じがするの」

 水樹はフェンス越しに見える街を見下ろして、そんな中に埋もれている自分を想像しながら呟く。そして、フェンスを背にするようにクルリと振り返り、真紅の不思議そうにしている顔を見て、笑顔で続ける。

「あのさ、突然なんだけど…真紅クンにお願いがあるんだ」

 水樹の言う言葉に、真紅はなにが起こっているのか状況がつかめないで居る感じだった。ただ、水樹の変化がこの話に関係している、それだけは真紅にも理解できていた。

「…今、私に必要なものって、今まではなにも変化のないこと、それと適当に付き合える男、そうしていわゆる流行の女子高生で居たいって感じていた気持ち・・・じゃ、ないんだと思うの。…真紅クンにさ、私だけが感じられる、真紅クンにだけある「何か」を感じたんだよね。具体的にそれがどんなことだとかって言えるわけじゃないんだけど…ただ、そばに居て、少しずつ感じて居たいんだ、真紅クンの中にある「何か」ってものを。こんなヤツに言われても真紅クンは困るかも知れないけど…翠浦 真紅クン、私と付き合ってください、お願いします」

 水樹はそう言って、真紅に深々と頭を下げた。

 真紅は水樹のその態度に気が動転しそうな感覚を覚えていた。

「ぼ、僕と、ですか?ちょ、ちょっと待ってください、天野先輩。そんな僕みたいになよなよした、女みたいな男と付き合っても、楽しいことなんてないですよ。それに…天野先輩はそんな風に言ってくれましたけど、僕は・・・・・・」

「ストップ。それ以上言っちゃダメ。良いんだよ、真紅クンが自分をどう評価してようとも、周りがどんな目で見ていようとも。私にとっては、いま目の前に居る真紅クンと一緒に居たいんだ。それが、それだけが、正直な気持ち…なの」

 真紅が慌てて弁解しようとして、オロオロと話し始めたのを少し聞いた水樹だったが、その言葉は正直聞きたくなかった。真紅自身がそう思っていることなのかも知れないが、しかし、同時に実際は多くの男女が真紅に抱いている感情でもあった。水樹は真紅がそう思っていたとしても、そのことにこだわってしまうのが我慢できず、真紅の言葉をさえぎった。

「別に、私が真紅クンに合わせる、とか、真紅クンが私に合わせる、とかってことはしなくて良いんだよ。真紅クンは真紅クンの自然体で、私は私の…いままで見えていなかった自然体で、お互い居られればいいし、そういう状態でお互いに接したいと思ってる。そうやって一緒に居るうちに、自分の中に、相手の中に、「何か」を探し出せれば良いんだと思うよ。そう思うし、それで良いと思うの。自分が女々しいと感じるならば、いっぱい女々しい真紅クンを私にみせて?私は…どんなのが自然体かわかんないけど…でも、気張らず私は真紅クンの前で、みんなの前で、今までとは違う自分になりたいと思ってるから」

 水樹はそう言うと、ちょっと照れながらうつむいた。

 真紅は絶句していた。学校内でも比較的噂の絶えない、そして、上下を問わず、男子生徒から人気の水樹から、突然交際を申し込まれたのだから、当然といえば当然だった。

「…肩の力抜いてさ、素の自分で付き合いたいんだ。…ダメ、かな?」

 

 

「・・・あの時、正直信じられませんでしたよ。水樹先輩から「付き合って」なんて告白されるなんて…。まして僕みたいな・・・」

「だから、そのことについては全面的にストップだって、あの時から言ってるでしょう?私は自分を卑下するだけ、適当なことしてきたから良いけど、真紅は全うに自分を貫いて来たんだから、そんなに卑下しないの」

 遊園地からの帰り道。

 遊園地で一休みして、昔話を始めた二人はその話が尽きることはなかった。

 水樹は自分のことを卑下して言うことが多く、またあまり良くない見本としてはそれなりのことをしていた自覚があるだけに、例えは痛々しいものが多かった。だが、真紅が自分の欠点だと思って、そのことを言おうとするとき、水樹は絶対にそれを阻止していた。水樹にとって、真紅のその欠点でさえ、自分が目標として、そして何より自分が居ることでフォローができることであるならば、こんなに喜ばしいことはないと思っていたからだ。

「でも・・・あんな雰囲気だったら、次にどんな展開が来るかは、なんとなく予想できたんじゃない?」

 水樹が真紅に告白したときのことを思い出しながら、水樹は言う。普段着の水樹は比較的、女の子然とした服のほか、シャツにジーンズといった簡素なものなども色々と着こなしていた。そのどれもが、さして派手でもなく、落ち着いていながら、自分という個は主張するものだった。そして、学校では、それこそ校則に則ったきっちりとした格好で制服を身に着けていた。

「まぁ…いや、でも、制服とかアクセサリーの類の変化だけでもびっくりしましたからね。それにきっかけが自分だなんて、思うはずがありませんて」

「そう?まぁ確かに、あの時駅前で、真紅を見てなかったら今の私は居ないかも…ね。だけど…そうだなぁ、真紅には告白はしたかもしれないとは思うよ。だって、如月 紗美のこと相談してるときから、真紅のこと大好きだし、今だってその気持ちは変わらない。それに今までも…これからも、真紅のことを信じてるから」

 頬を少し赤らめながら、水樹は真紅の横顔をじっと見つめたまま、真剣な声で言う。

 一方の真紅は、水樹のそんな真剣な声と、少し笑みのこぼれた顔を見て、満足そうに笑って見せた。

「・・・?どうかしたの?真紅」

「水樹先輩の自然な笑顔って、滅多に見られないけど、その笑顔を見られるとすごく幸せな感じがするんですよ。それと一緒に、あの時、ちゃんと自分はこんなだけど、それでも水樹先輩が良いなら、って言って返事できてよかったって思います」

 ニコニコと笑って見せている真紅を見て、その言葉を聞いて、水樹はなんだか聞いただけなのに自分が恥ずかしくなるような思いをしていた。顔から火が出そうな感覚を得て、水樹は少し俯いたが、恥ずかしいついでに、今のうちに普段自分が口にしないようなことを言ってしまおうとも思っていた。

「ね・・・ねぇ、真紅クン。私さ、「あの時」から少しは変わった…かな?」

 水樹にしては珍しい仕草…上目遣いで真紅を見てそう訊く。

 真紅は一瞬、キョトンとした顔をしたが、クスッと笑った。

「こ、こら、真紅。笑うことないじゃない、それに笑う場面でもない」

 笑われて心外だと言いたそうに口を尖らせて、水樹は抗議の言葉を上げる。

 真紅は少し考え込むような態度を見せ、話し始める。

「僕の中で「天野 水樹」って先輩に変化はないです。けど、水樹先輩にとっては、きっと水樹先輩の中の「何か」が変わってきているんだと思いますよ」

 真紅はちょっと照れ隠しに、人差し指で鼻の頭を掻きながら、水樹を直視しないで言った。

「・・・フーン。じゃあさ、真紅クンにとって、私ってなに?」

 水樹も赤くなっているであろう顔を隠すため、両手を組み口の前に持ってきて、ポツリと呟く。

「んー、単純に言っちゃうと…こうして付き合うのさえ意外な彼女、なんでしょうけど…反面の自分、って感じでしょうかね?」

「反面の自分…か。まぁ、確かにそんなところは私にもあるかな。真紅みたいになりたいと思うことはあるけど、なれないからね」

 真紅は少し考え込みながら、水樹に言う。水樹もその意見には納得と言った感じで、真紅の言葉にうなずいた。

「私って存在は・・・存在意義は、それだけ?」

 水樹は真紅の真剣な言葉に納得したものの、まだ足りないとばかりに真紅に訊ねる。

「私は…言ったよ?私にとっての真紅って彼の存在意義」

 釈然としない、とばかりに少しうなっていた真紅に、水樹は追い討ちをかけるように言って見せる。フフンと鼻で笑うような態度で、水樹は真紅の言葉を待った。

「…もう、自分がさらっと言ったことを僕にまで求めようとするんだから…」

「なによ、言いたくないっての?!」

 真紅が呆れた風なことを言うと、水樹は逆に食って掛かってくる。

「…天野 水樹は大好きな俺の彼女。それに、色々と助けてもらったりしたから、微力ながら、水樹先輩の変化に手助けできるようにしていきたいって思ってるよ」

 普段のオロオロした様子から一変して、真紅が珍しく真剣な口調で水樹にそう言って見せる。水樹はその言葉を聞き、少しむず痒いような感覚だったが、でも納得したように真紅の腕を取ると、その腕を抱きしめた。

「・・・よし、合格。私は絶対、真紅から離れない。誰より大切な彼だし、もう一人の自分だしね。それに、真紅はちゃんと私を守ってくれてるから…」

 最後はなんとなく、消え入りそうな声で、水樹は満足そうに真紅の腕をぎゅうっと抱きしめる。そして、「あっ」と小さな声を上げる。

「ん?どうかしましたか?水樹先輩」

「…あのさ、真紅。もう「先輩」って呼ばないで。それと敬語で話さなくて良い。水樹って呼んでよ。対等に話、しようよ」

 水樹は真紅の声を聞いて、やっぱり、と言った感じでうなずき、その次の言葉を言う。真紅は少し面食らったような顔をしたが、特別何も言わず、ただうなずいただけだった。

 

 

 それから数日後。

「あれ?真紅君、なにしてるの?」

 特に珍しいことではなかったが、すでにクラスメイトは部活に出たり、帰宅してしまったりしていて、すでに教室には真紅以外は誰もいなかった。一人残っている真紅に声をかけたのは、真紅の元恋人の紗美だった。

「…ん?あぁ、紗美さん。三年生が補習授業終わるの、待ってるんだ」

 運動部がグラウンドで動き回っている様子を見つめ、真紅は紗美のほうを向くでもなくそう言った。

 最近、学校では、女子生徒に人気の翠浦 真紅が誰かと付き合い始めたと言う噂が流れ始めていた。そして、確定とはされていなかったが、その相手が天野 水樹であると言うことも一部ではささやかれていた。また、その天野 水樹が今までは誰もがそうしているように、多少の校則違反をしていても気にしていなかった風な様子が一変、模範生のようになったと言う変化についても色々と噂が噂を呼んでいた。

 紗美も真紅に対する噂は耳にしていた。そして、そんな情報を聞いた自分は、寂しかったと言うことに気付いていた。一年のとき、紗美が真紅を勝手に振り、くっついた男とは、そう長続きもせず、男が遊び飽きたとでも言いたい様子で、紗美は捨てられていた。そんなことからも、できれば真紅と復縁なんて都合のいいことを時々考えたりしていた。

「…ね、ねぇ真紅君。突然こんなこと訊いてゴメン。…あの時のこと、怒ってる?」

 珍しく、紗美は過去のことを真紅に訊いて来ていた。普段は過去のことなど気にせずに紗美も真紅も話していた。元恋人と言うことはあるが、それ以前にクラスメイトとして当然とも言える態度だった。

 真紅はそんな紗美を不思議そうに振り返って見つめるが、納得しているように微笑むと、また視線をグラウンドのほうに向けた。

「全然。だって、僕がなにか言っても、いまさらじゃない。…どうかしたの?紗美さん」

「・・・真紅君、あ、あのね、実は私、まだ・・・・・・」

 紗美は真紅が不思議そうな声を上げて訊いて来たのに対して、意を決したかのように話し始めた。だが、その紗美の言葉は、真紅の次の言葉にかき消された。

「僕は紗美さんのこと、今でも好きだよ。…うん、あのときの気持ちのまま、愛してもいる、かな。嫌いになんかならない…なれないよ。・・・だけどもう、あの頃には戻れない」

 真紅にしては珍しく、甘えても良いと言うような態度を取らず、断言する。その言葉を聞いて、紗美は言葉を失う。グラウンドを眺めている真紅の後姿を見つめて、紗美は複雑な気持ちを抱いていた。

「・・・俺はさ、紗美さんと同じくらい、水樹が好きだし、愛してる。…今の紗美さんと水樹の違いは、俺がまだ助けを必要としているか、って点かな。紗美さんがもう少し早く、助けてくれれば、戻れたのかも知れないけど…」

 紗美は真紅の言葉遣いが少し変わったことに気付いていた。その言葉遣いがどんな意味を示しているか、なんとなくわかってしまい、我慢していたわけでも泣きたかったわけでもないのに、その瞳からは涙の筋が頬を伝った。

「真紅っ!!おまたせっ!!」

 涙を流しながら、落ち込む紗美。その紗美の背後から元気な声がする。真紅は紗美の肩越しにその声の主を確認すると、おもむろに立ち上がった。

「お疲れ様でした。…帰ろうか」

「・・・ね、真紅。如月 紗美となに話してたの?」

 うなだれて元気のないその背中が紗美のものだと気付き、真紅の言葉に反応せず、思ったままの言葉を水樹は口にした。不快感をあらわにしながら。

 紗美はその水樹の言葉を聞き、いや、自分のことを嫌悪の対象のように言った水樹に対して、より落ち込み、肩を落とす。床にいくつかの涙のしみができていた。

 真紅は紗美の横を通るとき、軽く紗美を元気付けるように肩をたたいた。

「・・・ま、色々とね。それに、紗美さんが来たのはついさっき。言葉を二言三言交わしただけだよ」

 真紅はそう言って、水樹に「それ以上は言うな」と言う視線で水樹に呟く。水樹は真紅の言いたいことを理解していたが、それでも「紗美が真紅を裏切ったこと」はいつになっても許せそうにないと、水樹自身は感じていた。

 ふぅっと軽いため息を水樹はついて、真紅が近寄ってくるのを待つ。だが、真紅の足は、水樹の少し手前で止まった。水樹は不思議そうに真紅を見る。真紅は水樹を通り過ぎ、この教室の入り口あたりを見ていた。水樹もつられて振り返ると、そこには、水樹の言う疫病神…水樹が指輪などを返したあの時の男が立っていた。

 この男は水樹のクラスメイトで、相変わらず水樹を追いかけていた。そして、今も水樹がどこに行くかを確認した上で、こうして追いかけてきていたのだった。

「…水樹がどんな男に現を抜かしてるのかと思えば、こんな優男かよ。なぁ、痛い目に合いたくなかったら素直に引き下がれよ。水樹は俺のモンなんだからさ」

「・・・あのねぇ、いい加減にしてよっ!!」

 男が言うと、虫唾が走ったかのような嫌悪感を水樹は感じる。そして、その男に言い返していた。ひっぱたいてやろうかとも思い、水樹がその男に近づこうとした時、それを真紅が止めた。

「ちょっ・・・と?・・・真紅?」

 止められた水樹が不意に真紅を見ると、いつになく真剣な顔をして、真紅はその男を見ていた。水樹はそんな真紅の表情に、そして一緒に居た紗美もその真剣さに驚いていた。

「水樹は俺の彼女だよ。あなたが思っているような、軽い女じゃないんです。それに…水樹はちょっと無理していたようですからね」

 真紅はそう言って、水樹の肩を抱き寄せる。

「その手をどけろよ」

 男は水樹に気安く触る真紅が気に入らない様子だった。だが、真紅も別に気圧されることもなく、そのまま水樹を抱きすくめる。

「ねぇ、水樹。野暮なこと訊くけど・・・・・・」

 水樹の耳元で、真紅は小さな声で何かを呟く。水樹は一瞬驚いた表情を見せた。だが、水樹は真紅を、真紅は水樹を、お互いじっとまっすぐに見つめると、水樹は目を瞑って、納得したようにうなずいた。

 そして、水樹はスッと真紅の首の後ろに両手を回して、そこで手を組む。真紅は水樹の後頭部に優しく手を添えた。ゆっくりお互いに顔を近づけて、二人はゆっくり口付けを交わした。場を共有する、他の二人にしっかりと見えるように。

(・・・真紅君のあんなに真剣な顔を見るのは…私、二回目、なんだ。一回目は…私が彼に距離を置きたいって言ったとき…だ)

 紗美は真紅の真剣な表情の意味を掴み取った気がした。そして、自分のしたことがどこまで自分勝手で、真紅自身を傷つけてしまっていたかも、ようやく…自分が同じような立場に追い込まれて・・・前回は紗美が真紅を無理やり追い込み、今回は紗美が自分からその立場に飛び込んだ格好だが、その時になって初めて気付くことが出来た。

「・・・知ってました?水樹は今まで、身体の関係以前に、まだキスもしたことなかったって。そして、今したことがどういう意味を持ってるか、わからないなんてことはないですよね?」

 真紅は挑発にも似たような口調でその男に言ってみせる。その男は奥歯をぎりっとかんでいた。

「あんたが私にどう思おうと勝手だけどさ、私の気持ちも考えたことある?…ううん、ないよね。じゃあ、教えてあげるよ」

 水樹はそう男を哀れむような声で言い、真紅に抱きついた。

その様子を見て、男はやり場のない怒りを覚えているようだった。

 同時に、そんな行動に出た水樹を、紗美はびっくりした表情で見つめていた。以前の水樹ならばこんなことはよくしていたかもしれないが、模範生と言われるようになって、人前でいちゃいちゃしたりはすることはなかった。そして何より、今この場でしたキスがファーストキスだったと言うことに驚いていた。正直、紗美は水樹を同類と、男遊びをしているような女だと思っていた節があった。だが、ここでも初めて今度は水樹のことを知ることになった。

「私は、真紅が好き。大好き。他の誰よりも、今までの誰よりも。そんな男だから、真紅にファーストキスをあげた。そんな男だから、人前で真紅とキスをした」

 水樹はそこまで言うと、真紅の首元に顔を寄せるようにして甘える猫のような仕草をする。真紅はそんな水樹の頭を軽く撫でていた。

「・・・こんな私だから、色々な男を見てきたけどさ、あんたほど最低なヤツ、思い込みの激しいヤツ、ストーカーじみたヤツ、見たことはないよ」

 水樹は真紅から離れて、男を睨み付けると気持ち悪いとでも言いたそうに言う。

 その言葉を聞いて、どんどん惨めになっていく男だったが、何も出来ない、何か出来るはずもなかった。

「紗美さんにも、この意味わかってもらえますよね?気持ちは変わらないけど、それ以上の気持ちが出てきてるんです」

 真紅は紗美に向き直って、少し申し訳なさそうに言った。

「・・・ゴメン、ごめんね。本当に真紅君には悪いことをした…」

 紗美は今まで涙を悟られないようにしていたが、今はそれさえしようとせず、涙声で、真紅に詫びた。

「・・・真紅クン「には」?あんたねぇ、自分がどれだけ・・・・・・」

 水樹が紗美の言った言葉に反論しようとした。紗美の過去にしたことが、たったこれだけの言葉で謝りきれることではなかったし、今となっては、紗美が傷つけたのは誰より自分が愛している真紅なのだ、水樹がそう簡単に許すはずもない。

 だが、そんな水樹の口に手を当てて、真紅が黙らせてしまった。

 水樹はそんな真紅の手をどかそうとするが、真紅はそれに応じない。

「・・・もう、良いですよ、紗美さん。他の誰かには、あの時の俺みたいなこと、しないように気をつけてくださいね。それと・・・」

 真紅は紗美を見ながらそう言った。そして、言葉を続けるように言いながら、水樹を見つめる。水樹には、それが何を意味しているか判った気がした。

「もう一人、謝らないといけないでしょ?」

 真紅のこの言葉に背中を押された気が、紗美にはしていた。

 真紅の言葉を聞き、水樹は真紅の手を振りほどくと、慌ててその場を立ち去ろうとした。

「・・・水樹、聞くだけはしてあげて」

 水樹は真紅に手を握られ、動くことも出来ずに立ち尽くした。だが、紗美には背中を向けたまま、振り返ろうとはしない。

「ごめんなさい、水樹先輩!!恩を仇で返すようなことをして・・・!!」

 涙声のまま、紗美は水樹に言い、水樹の背中に頭を下げた。振り返ってくれないだろう、なにも言ってくれないだろう。紗美にはそれがわかっていたが、頭を下げずには居られなかった。

 真紅が握っている水樹の手が、真紅を自分のほうに引き寄せる。

「・・・真紅、帰ろう」

 水樹は静かにそう言う。真紅は水樹の手を握ったまま、紗美のほうを見た。

「また、明日ね、紗美さん」

 いつものように、いつもの態度で、だが今では違う真紅は紗美に笑顔でそう言った。そして、水樹の手を逆に引くようにして真紅は歩き出す。だが、水樹はその場から動かなかった。数十秒の間を置き、水樹は紗美の方に振り返る。

「・・・紗美。私はおまえを許さない。絶対に許さないんだからね、だけど」

 静かに、だけどどれだけの怒りが込められているかわかるような声で、水樹は言う。

「だけど、真紅に逢わせてくれたことだけは、礼を言っとく」

 水樹の言葉の最後のほうは、いつものどこか自信のあるしっかりとした口調で、だけどその声は小さく、うつむいたままで言った。

「せ、せん・・・ぱい・・・」

 紗美は呟くが、決して頭を上げようとはしなかった。水樹に対して、頭を上げられるはずもなく、この状況では、自分自身が頭を上げることを許せなかった。

 だが、水樹は真紅の手を離すと、紗美に歩み寄る。そして、頭を下げている紗美の頭を両手で包むように優しくつかむと、紗美の下げている頭を上げさせた。

 紗美はもちろんだが、紗美が見た水樹も涙でいっぱいだった。

「・・・バカ。ホントにバカなんだから。あんなにいい男を捨てるなんて」

 水樹は切なそうに言葉を紡ぐ。そして、少しにこやかに表情を緩める。

「・・・だから、おまえは大嫌いだよ」

 静かに、しっかり聞き取れる声で、水樹は紗美に言う。そして、二人見つめあうと、水樹は瞬間的に、紗美の頬をはたいていた。

「・・・・・っ!!」

 頬に痛みは感じなかった。だが、その分、紗美の心は痛かった。悲しそうな紗美の顔を見て、水樹は少し俯く。そして、紗美を睨み付ける。

「紗美なんて大っ嫌い!!・・・帰ろう、真紅!!」

 水樹はそう吐き捨てると、真紅のほうに向き直る。

 その、向き直る瞬間、水樹は紗美に少しだけ笑顔を向けた。紗美は錯覚かと思ったが、間違いなく、水樹は笑顔を向けていた。そして、声こそ発しなかったが、その唇は「ありがとう」と言っていた。そのありがとうが、誰でもない真紅のことに対してだと、紗美は感じた。恩を仇で返したが、一つだけ、真紅と水樹が一緒になれたことだけは、紗美にとってなんとか、水樹に対して自分がすることの出来た、自傷行為に近い、恩返しだったかも知れないと紗美は思えた。

 教室の入り口には、相変わらず微動だにしない、疫病神が立っていたが、真紅も水樹も、まったく無視して、教室を出て行く。男はなおも呆然と立ち尽くしていた。

「・・・あんないい男を捨てただけじゃなくて、大切な人まで失って。私ってホントにバカなんだな」

 紗美は涙を流しながら、情けない自分を笑うしか出来なかった。涙はさっきよりも多く流れていた。

 

 翌朝。

 校門の近くで、紗美は見慣れた二人の姿を確認していた。水樹と真紅の姿だった。紗美は小走りに二人に駆け寄る。

 水樹はその足音を聞いて振り返ったが、それが紗美だとわかった途端、顔を背けると、真紅の手を引いてさっさと校門をくぐろうとした。だが、水樹の握ったてを真紅はぎゅっと握り返し、だが水樹の引っ張る力には従わず、自分ペースで歩いていた。

「おはよう、真紅君」

「おはよう、紗美さん」

 紗美のほうから真紅に声をかけた。真紅はいつものように、何の変化もないように挨拶を交わしてくれた。

「おはようございます、水樹先輩」

 紗美は続けて、たぶん返答などはないとわかっていながら、だけどそうしたい気分で、水樹に挨拶をする。水樹は相変わらず、紗美のほうを向こうともせず、真紅の手を握って、ぐいぐいと前進を促すように引っ張っていた。

 そんな様子に、真紅は紗美に対して、苦笑いをして見せた。

 そんな真紅の態度に救われた気が、紗美はしていた。そして、以前は嫌悪の対象として、忌み嫌うように名前を読んでいた水樹が、今日はただ無視をしているだけで、だけど忌み嫌うような言葉を発していないことに、どこか満足の行ったような表情を浮かべていた。

 この日、真紅のクラスでは、男子が真紅に対して恨めしそうな敵対心丸出しの表情で誰もが睨むような視線を送り、女子も真紅に対して、あんな女と一緒なの?と言いたそうな感じで真紅を見つめていた。

 また、水樹のクラスでは、女子の誰もが、水樹に寄り真紅の心をつかんだ水樹に喜んだり、そんな水樹に嫉妬の念を抱いたりしていた。男子はあわよくば真紅から水樹を奪おうとせんとした表情で、水樹に話しかけたりしていたが、水樹は一向に男子の話には付き合わず、自分は真紅一筋だと代弁するような態度を取っていた。

 そんなあわただしい一日が過ぎ、水樹は真紅のクラスに行く。

 真紅のクラスでは、案の定と言う感じで、男子生徒が好機の目で水樹を見てきたが、その全ての視線を水樹は無視していた。女子からは強い嫉妬に似た視線を水樹に送られていたが、やはりそれも全て無視して、意中の相手、真紅のそばに駆け寄る。

「真紅。帰ろう」

 水樹はそれだけ言い、うなずく真紅の手を取って、二人にとって少し居づらいその教室を後にした。

 

「・・・今日はすごかったよ、視線が痛いのなんのって」

「あはは、水樹もかぁ。俺もだよ。…俺の場合は男からの視線が痛かったけど…ま、それだけ水樹が魅力的ってことなんだろうね」

「それは私も一緒。まぁ、好意的な友達も居るから、そんな子たちからは良かったねって言われたけど、真紅に思いを寄せる子たちからは、睨まれまくった」

「しばらく、続きそうだね。この状況」

「ま、あきらめるしかないか、だって、こんないい男を独り占めしてるんだから」

「…何気に恥ずかしいよ、水樹」

「そう?いーじゃない、別に減るわけじゃないんだから、さ」

 二人はそんなことを言い合いながら、帰宅の徒についた。

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