夜摩天料理始末 20 |
痛い。
頭を乱打するような、この痛み。
怖い……怖い。
逃げようと、立ち上がろうとした手足が萎える。
力が入らない。
恐怖に竦んだのか。
いや……それだけでは無い。
あの頭への一撃。
あの一撃が、彼から手足の自由を奪った。
その認識は、彼にさらなる絶望を呼んだ。
恐怖なら克服できる……だが、傷はそうはいかない。
あの式に施していたような、傷を再生する術は当然心得ているが、これだけの巨体を治すには相応の時がどうしても必要となる。
何れは癒す事も叶うだろう……だが、その時が与えられていない事を、彼は知っていた。
逃げないと。
あいつらが……式姫が来る。
私を殺しに。
それは、その身の核をなす、陰陽師の力だったのか、それとも別の何かか。
彼は、その身に迫る、恐るべき力の存在を知覚していた。
式姫。
たった一人で、相討ちとはいえ、この巨獣を屠った強大無比な力。
恐ろしい。
深く巨大な怒りを胸にして、その大いなる力が、徐々に迫る。
何とかしないと……何とか。
そう思い、ぐるりを見渡す視界がぼやけ、暗くなっていく。
暗い、暗いよ……明かりを……。
そう呻きながら、真昼の空の下で死んでいった、仲間の足軽たちの姿を思い出す。
何とかしないと。
だが、手足が効かない今、圧倒的な腕力や巨体も、陸に打ち上げられた鯨のそれと大差ない。
交戦も逃げる事も出来ない。
このまま、なぶり殺しを待つのか。
否……否!
“私”は、死にたくない!
本人は気が付いていなかったが、あの圧倒的な肉体の力を一撃で失い、無力感に怯え、竦んだ事が、妖の力に飲まれていた彼に、人だった頃の意識と心を取り戻させていた。
何か。
必死に己の生を掴もうと、鵺の中に封じられた陰陽師の魂は足掻いた。
それは、彼の生そのものだったのかも知れない。
乱の果てに没落した貴族の末裔として、何とか身を立てようと、陰陽の法を学んだ事も。
だが、苦心して修めた術が、立身の役に立たぬと知ったあの時も。
師の命を奪った、あの時も。
昏い野心が芽生えたその時も。
彼は、彼の道を遮ろうとする何かに抗って生きて来た。
自分はもっと、上にあるべき存在なのだ。
ここで終わるなど……あり得ない。
この動かなくなった巨獣の中に閉じ込められた、己の魂を生かす方途を求め。
彼は、その何かを求めた。
何でもいい……何か。
巡らせる視界に映るのは、不気味な真紅の世界。
血が目に入ったのか、そもそも目が正常に働いていないのか。
そんな世界の中、四人の式姫の歪んだ像を映し出す。
何れ彼の返り血に染まる事を暗示するような、真紅に染まった姿で。
血。
嗚呼……あるぞ。
素晴らしい。
途方もない力は、私の中にあるではないか。
陰陽師はその力に、自分に残る意識の力のありったけを向けた。
彼の隷下に入る事に対して抵抗する力を感じる、だが彼はそれにさらなる意識の力を向けた。
ねじ伏せてやる。
私が生きるために……お前の力を寄越せ。
「何をする気やぁ、私のかわいい玩具にィ」
藻は、ぎりりと奥歯を噛んだ。
あの陰陽師……まだ人としての意識を保って居るのかぇ。
魂なき作り物は脆い……まして、殺生石四つの力を束ね、偽りの妖を作り、それを動かすには、何らかの魂をその器に容れる必要が有った。
人が、堅固な何かを作るために、人柱を捧げるように。
あの陰陽師は、藻の作る、玩具の、大事な歯車の一つ。
逆に言えば、それだけの物だった。
人の魂など、圧倒的な殺生石の力に飲まれ、その知識と力だけを残した、破壊と殺戮の衝動の塊に成り下がるだけ。
その筈だったのに。
「人風情がァ……」
あの庭の主も。
あの陰陽師も。
塵芥に等しい人が、何故妾達大妖や、神々に等しい大樹の力をその身に宿しながら、尚、己を保てるというのか。
大人しく妾たちの手先として、玩具のように相争い、壊れて行けばいい物を。
「百に遠く届かぬ命に何をしがみつく」
そう呟く、藻の口先が人のそれではなく、狐のように尖っていた。
彼女の玩具が、奪われた。
「気に入らん……ナァ」
地にうずくまり、今は時折傷の痛みに呻くだけになった巨獣を、四人が遠巻きに囲んだ。
「どうにも気に食わないねぇ」
「……ええ」
紅葉の呟きに、童子切が言葉少なに答える。
何が、とは言えない。
だが、何かおかしい。
そんな、歴戦の戦士がだけが感じる、嫌な空気。
それが、皆を、この巨獣に止めを刺すために殺到させる事を躊躇わせていた。
「とはいえ、時を与えると、傷を再生されかねません」
天羽々斬が、あの領主や狐顔の式との戦いを思い出しながら顔をしかめる。
開いた胸を瞬時に閉ざし、へし折った足を走りながら再生させた、あの恐るべき力が、こいつにも可能な事なのかは、陰陽師ならぬ身には判断の付きかねるところではあるが。
「あの傷が治っちまうってかい?」
あの傷の深さは、いかに妖と言えど、死に至る深手と見ていたが、治癒する可能性があるとなると、放置もしておけない。
「あくまで可能性ですが」
「そいつは旨く無いね」
そうぼやいて、紅葉は羅刹と鵺の交戦の煽りを喰ったと思しき、傍らの倒木に斧を入れた。
「遠間から倒す?」
「あんまり、好きなやり方じゃないけどね」
簡単に枝を払って、先を尖らせる。
あたしの斧は、木こり用じゃ無いんだけどな。
はぁ、とらしくないため息を付く紅葉に、鈴鹿が苦笑気味に笑いかけた。
「安全策を取るのは悪い話じゃないわ」
「先ず、そういう発想自体が嫌なんだよ、あたしゃ」
「あらあら、それじゃなんでかしら?」
からかい気味の鈴鹿の言葉に顔をしかめて、紅葉は尖らせた丸太を担ぎ上げて、鵺に向けた。
「負け戦はもっと嫌だってだけさ」
わっしょいという掛け声一つ。
人の城塞を瞬時に半壊させた恐るべき武器が、鵺に向かって唸りを上げる。
その真っ直ぐに飛来する巨大な矢に向かい、鵺から光が一筋走った。
青白い、本来は天から降り下る光……。
それを知覚する以前に、皆の体が動き、それを回避できたのは、距離を取って、なおかつ予兆を感じていたためか。
光の直撃を受けて、丸太が爆ぜる。
更に、丸太を貫いて、紅葉が最前まで立っていたその場所を光が走り、後ろの林を薙ぎ払った。
空気自体が焦げるような特有の匂いと、光が走った少し後に轟音が続く。
「神鳴り……」
(おお、使える……意のままに術が使えるぞ)
もし彼自身の人の体があったのなら、陰陽師は喜悦と驚嘆を綯い交ぜにした声を発していただろう。
この妖の体を動かす四つの殺生石の力。
一つでも絶大な力を示す、その力を四つ相乗させた妖。
その力を、全て彼の支配下に収める事が出来た。
体は深手の為に動かせないが、術は何とかなる。
何とかなる?
それどころでは無い、先ほど放った神鳴りは、彼が想像も出来なかったほどの力。
これならば……。
(ああ、私の術に、この力さえあれば)
式姫はおろか、自分は神々に挑む事すら叶うだろう。
この血の力を彼に与えた大妖狐自身が、神々の前に敗れ去っている時点で、それは彼の錯覚でしかない。
ないが、そんな錯覚をもたらすのも不思議では無い程の力であったのも、また事実。
もう貴様らの力など要らぬ。
殺してやるぞ、式姫ども。
貴様らも、私を弄んだ藻も殺し。
私が、この世に覇を唱える。
こんな、力だけを恃みとする人面獣心の畜生どもが跋扈する世の中だ……実力だけが大事と言うなら、人の魂宿した妖が君臨したとて、何の悪があろうかよ。
血塗れの顔で鵺は、いや、かつて人だった物はにたりと笑った。
「やはり……」
こいつはまだ、その危険を些かも減じていなかった。
童子切が手を添えた刀の革巻の束が、彼女の苛立ちを代弁するかのように、ぎちりと軋む。
「術まで操りやがるか、嫌な予感だけは、良く当たるねぇ、ったく!」
紅葉達の視線の先で、黒い煙がその巨体を再度包んでいく。
「どういう心算です……動けぬ身で目くらましなど」
訝しげに呟いた天羽々斬の眼前で、鵺の体が煙に包まれていく、それと同時に、その疑問への答えもまた、彼女たちに示された。
体自体が、その煙と変じたかのように、その巨体がふわりと浮き上がる。
「あの図体が飛ぶですって、何の冗談よ」
「冗談じゃ済みませんよ、あいつに空に行かれたら……」
天羽々斬の一言に、一同の顔が僅かに強張る。
自分たちの武器は刀と斧。
あいつの武器は……。
「最悪ね」
静かだが吐き捨てるような一言。
「鈴鹿?」
紅葉が傍らを見た時、既にそこには残り香しか残っていなかった。
戦陣にある身だが、尽くす相手の為に、常に女性の嗜みを忘れない彼女の服に焚き染められた白檀の香。
「ちょっと待て、無茶だ!」
「空に逃がしたら、無茶も出来ないでしょ」
迫る鈴鹿に、恐るべき威力を秘めた雷光が迅る。
「来ると判っていれば」
だが、彼女はそれを、有ろうことか、更に速度を上げ、斜め前に踏み込んで回避した。
回避、いや。
それは、瞬歩と呼ばれる、特殊な歩法。
術の類では無い、踏み込みの緩急や、相手の死角を利用して、一瞬で相手の間合いを侵略する体術。
斧という間合いの狭い武器の破壊力を最大限に生かす、必殺の一手。
あれは自然の雷では無い、彼女を狙う、意思ある者が操る“武器”ならば、その狙いを幻惑する法はある。
次の鈴鹿の一歩が、浮き上がった鵺の直下の死角を取る。
地響きを伴い踏み込んだ、鈴鹿の足が大地にめり込む。
「鬼神力……招」
ひゅっと鳴ったのは、彼女の呼気だったのか、それともその無双の剛力が振るった斧が、空気を両断した音か。
踏み込みと同時に放たれた凄絶な一撃が、鈴鹿の手に、存分に肉に食い込み、骨を断ち割った感触を返す。
斧を振り切った、それに続いてずしりと落ちたは、奴の前脚か。
痛撃は、だが同時に、死角に入った鈴鹿の位置を、鵺に知らせる事となった。
渾身の力を込めて斧を振り切り、直ぐには動きだせない鈴鹿を、三方から雷が襲う。
「鈴鹿!」
紅葉の悲鳴のような叫びの中、血を振りまきながら黒煙が空に舞いあがる。
後に、地に伏して動かなくなった鈴鹿御前を残して。
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一応収束には向かってます……予定より長くなりましたが(毎度の事 承前:http://www.tinami.com/view/892392 1話:http://www.tinami.com/view/894626 2話:http://www.tinami.com/view/895723 3話:http://www.tinami.com/view/895726 4話:http://www.tinami.com/view/896567 5話:http://www.tinami.com/view/896747 6話:http://www.tinami.com/view/897279 7話:http://www.tinami.com/view/899305 8話:http://www.tinami.com/view/899845 9話:http://www.tinami.com/view/900110 10話:http://www.tinami.com/view/901105 11話:http://www.tinami.com/view/902016 12話:http://www.tinami.com/view/903196 13話:http://www.tinami.com/view/903775 14話:http://www.tinami.com/view/905928 15話:http://www.tinami.com/view/906410 16話:http://www.tinami.com/view/915001 17話:http://www.tinami.com/view/915625 18話:http://www.tinami.com/view/921410 19話:http://www.tinami.com/view/927698 |
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