出てこない祖母と時の部屋 |
実家の祖母の部屋からはもう何年も祖母は出てこなくなっていて母は母でそんな状態の祖母の部屋のドアを開けて確かめてみようという気持ちには一切ならないらしく、というのも母は嫁に来てからというもの祖母から激しいいじめを受けておりいつかこの野郎ぶっ○してやると長い間思っていたようで、それで祖母が何年も部屋から出てこないというのだったら出てこなくてよいではないか、たとえ部屋から出たくても出られない状態になっていたとしても床に染み込んでしまってもう床の素材なんだか祖母なんだか分からない状態になっていたとしても、それはそれで構わないではないかという態度でいて、僕は普段は優しい母なのに、そして少なくとも僕の見ているところでは母が祖母からそんないじめを受けていたなどという点はみじんも感じられなかったのに人間は怖いなあと思っていて、それで実家に帰るたびに祖母の部屋の前を通るときは鼻をひくひくさせて匂いを嗅いだりしてこれまで嗅いだことのない臭いが漂っていたりはすまいかというようなことを注意して感じるようにしているのだけれども今のところそんな様子はなく、ただ毎日仏壇で熱心に両親が焚いている新興宗教のお線香の匂いだけが家の中に充満してその匂いだけが感じ取れるのだった。
それである日いい加減母にもうあの部屋のドアを開けてみたらいいのではないか、それでもしかしたら祖母は部屋の中で溶けてなくなっているのではなくてもしかしたらいつの間にか部屋から抜け出していてどこかで路頭に迷って死んでしまったのかもしれないという可能性もゼロではないわけだし、そんな家の中に邪悪なスペースが存在しているというような状態でいるよりはむしろ一気呵成にドアを開けてしまって中の様子を確認したほうが精神衛生的にも具合がよいではないかと提案したのだけれども、母はいっかな肯う様子もなく、いいやそんな邪悪なスペースが存在していたところで私の精神状態にはなんら影響を及ぼすことはなく毎日を面白おかしく過ごすことは全然できているのだからそんなことは一向に気にならない、むしろ開けてしまって何か床のシミだとか掃除だとか虫だとかが出てくるような羽目になってしまったらそれこそ精神的な負担であると言い張り、僕の提案には耳を貸そうともしないのだった。
僕が母の立場だったらそんなふうに考えることなどはできないし祖母のいる部屋の中の様子が気になって気になって仕方ないであろうし夜にトイレに行こうとして階段を下りてきたりしたらその部屋からとんでもない姿になった祖母の亡霊が出て来やしないだろうかと心配で毎日お小水をちびってしまいかねないような精神状態で日々を過ごすことになりかねないだろうと思うので、とてもそんなふうに考えることはできないなあと思うのだけれども、人はあることに対して本気で無関心になろうと思えば本気で無関心になれるものなのだなあと思ったり、いやそんな状態でいられるということは精神衛生が健全であるとはとても言えずむしろそんな状態であることこそが明白な精神衛生の欠如なのではあるまいか、むしろ母をさっさとしかるべき救急車に乗せてしかるべき医療機関に搬送すべきであるまいかなどと思ったりして煩悶したりしているのだった。
それでとうとう正月に実家に帰った時、僕は意を決して祖母の部屋のドアを開けてみようと試み、両親が初詣に行って不在にしている時を見計らってこっそりと一階にある祖母の部屋の前に立った。
一応精神的な心構えが必要であろうと考え僕は念には念を入れてドアの隙間に鼻を近づけて臭いを嗅いで腐敗臭のしていないことを確かめ(もっとも祖母が何年も引きこもってしまって出てこないというのが事実だとしたら、実家のある地方の湿度の低い風土ならば死体はもうとっくに乾燥しきってカラカラのミイラになっているであろうから為に腐敗臭もなにもないのかもしれないが)小さい羽虫の類いが隙間から発生していないか確かめドアに耳を当てて中から何らかの異音がしていないかどうか確かめたが何ともなく、僕はドアの前でためらっていた。
秋の弱々しい日が廊下の突き当りの嵌め殺しの天窓から差し込んでおり、廊下には僕の蹴飛ばした埃がうっすらと宙を舞っていた。醤油を垂らしたような静けさの中僕はノブに手を掛けたり止めたり長い間ためらっていたけれども、とうとう意を決してドアノブを握ると、一瞬鍵がかかっていればいいなあと思ったけれどもドアノブは簡単にぐるっと回って何年も開いたことのないドアは外側に開いていった。
中には祖母がいた。祖母は僕が最後に見た時と変わらない様子で椅子に座っていた。
四畳半ぐらいの小さな畳の部屋で窓から差し込む西日を浴びながら祖母は目を細めていて、部屋に入ってきた僕をゆっくりと首を振って振り返って見た。
どうかしたの、と祖母が尋ねるので、僕はううん何でもないと言い、しばらく会ってなかったからどうしたのかなって思ってと言うと、祖母は何にも変わったことはないよと言う。
「何にも変わったことはないし、毎日は同じように過ぎていくし、そうしているうちにいつか時間は止まってしまって、それでずっともう前に行くことができなくなってしまっているんだよ」、と言った。
「ここの部屋の中に居ればお前もそうなれるから、いつか死ぬことが怖くなったらお前もここに来るといいよ」と言って、祖母はよっこらしょと腰を上げて押し入れを開けると、中には布団が敷かれていて死んだはずの祖父が横たわっていた。祖父の胸に手を当てると上下していて、祖父はまだ生きているんだということが分かった。樟脳の匂いの立ち込める押し入れを、祖母は鷹揚な手つきで閉めて、それで僕はその押し入れの中に祖父以外にも誰かがまだいるんじゃないかということを確かめられなかった。
「もうずっとおばあちゃんはそれでもいいの」、と尋ねると、祖母は「そうだねえ」と言って、気の抜けたような声で笑って、
「それでいいかどうかももう分かんなくなっちゃったのよねえ」
と言った。
夕方になって父と母が帰ってきて、僕はお土産の門前町で売ってた草団子をもらった。ご飯の前だったけれども全部食べてしまって、母の入れたお茶を飲みながら、そういえば、部屋の中に入ったよと言うと、母はそう、と言った。
「あんたも入りたい?」、と力のない声で尋ねるので、僕は「まだ分からない」、と答えると、母はうん、それもそうよね、と言って、急須から冷えた出がらしのお茶を自分の湯飲みにじゃぶじゃぶ注いでいた。
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オリジナル小説です あと11/23木祝の文フリではこのような本を出す予定です https://twitter.com/zuizi/status/929369993275248640 |
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