Nursery White 〜 天使に触れる方法 4章 2節 |
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諦めが肝心。
それは、諦めざるを得なかった人の言い訳なのでしょうか?
私はそうは思いません。諦めるという決断ができる人は、とても立派な決断力を持っています。ただ、ネガティヴな方向に舵を切らざるを得なかっただけなのです。
諦めた人は、そこから別なことをすることができます。ひとつのことに囚われるのとは違い、気持ちを切り替えて新たな道を模索できるのです。
そもそも、どうやって私と常葉さんが知り合ったのか?
そのためには、諦めを何度もくり返していた、私自身の話をする必要があります。
別にかつての豪族や豪商でもないものの、やたらと立派な名字の家系に生まれた未来という娘は、高校生に至るまで平々凡々と生きてきました。
極端に成績がよかった訳でも、悪かった訳でもない。
とりあえず不真面目ではないから、そこそこいい成績を付けてもらえる。
極端に性格が暗かった訳でも、明るすぎた訳でもないので、それなりに友達はいました。
でも、普通であり続けることは、そう簡単にはできません。
私は私なりにテストの度に猛勉強をして、クラス替えの度に勇気を出して友達を作り直し、そうしてやっと、普通の女の子であることができました。
つまり、私は最大限に努力してようやく、普通の人であることができる。逆に言えば、どうがんばってもそこから頭一つ飛び抜けた、特別な人にはなれない。
私は中学生の時点でもう、自分の限界を知ることができていました。それは、幸せなことなのか、不幸なことなのか。
少なくとも今の私は、幸せであるように感じています。だからこそ、常葉さんに出会えたのですから。
なぜ、と問われれば、明確な回答は用意できません。ただなんとなく、そこに可能性を感じて、飛び込むことができたのです。
何をやっても普通止まりだった私は、完全に独学でナレーションの練習を始めました。まずは、適当なテレビ番組を録画して、そのナレーターの真似をします。小学校でのひらがなや漢字の練習の時、お手本を鉛筆でなぞったようにして、プロの声を自分の声でなぞる。
当然、最初は全く上手くいきませんが、数を重ねる内に、なんとなく聞ける声に仕上がっていきます。
その次は、自分のものにしたナレーションで、適当な事物を解説してみる。ここで一気にレベルが上がりますが、それでも、それなりのものはできあがります。
後はもう、数をこなすだけ。真似をする人を変え、扱う事物を変え、声音を変え。抑揚を変え。時にはわざと訛らせて。
少しずつ、読み上げることの専門家へと私は近づいていきました。実は声帯模写の技術は、その過程で得た副産物に過ぎません。でも逆に、それが見についていなければ、私はナレーションができていなかったことだと思います。
自分でこう言うのは照れくさいですし、ナルシーだと思いますが、私には確かにこの方面の才能があったのです。
さて、そろそろ常葉さんとのお話に戻りましょうか。
本来なら、一年と三年にそうそう接点は生まれません。部活の先輩と後輩でもない限りは。
なので、私は一方的に生徒会長としての常葉さんを知っていましたが、バスケ部のなんでもない、むしろバスケが下手な部員である私のことを、常葉さんが知る機会なんて存在しません。
しかし、常葉さんは生徒会長なのに、なんというか不真面目な人で、たまに遅刻をするのでした。
子役時代は、かなり朝早くから仕事が入っていることもありましたが、その反動なのか、引退後は朝が弱くなり、寝坊が増えたのです。そして、一時間目の途中に投稿してきて、自分の教室へと駆け上がる途中、とても通りがいい声を聞きます。
国語の時間、教科書を読み上げている女の子の声でした。
そういう朗読の時、やたらといい声で読み上げる子っていますよね。放送部とか演劇部とか、そういう子。自分の技術を披露するのは、悪いことじゃないと思うんですが、やっぱり浮いちゃう訳です。それでクラスメイトからは「あいつ、ちょっと自分が朗読上手いからっていきってやがるぜ」とか思われちゃうものです。
……ええ、私のことなんですけどね。
だ、だって、これはいわば職業病なんですよ!私、事実としてそれでお金稼いでいるプロなので、マジで“職業”でしょう!?
ともかく、常葉さんは私がめっちゃ気合い入れて教科書を読んでいるのを聞いてしまったんです。そして、思わず窓を開けて誰が読んでいるのかを確認して……まあ、顔とかもばっちりバレてしまう訳ですよ。先生含め、誰もが常葉さんの乱入に驚きました。
ですが常葉さんは、恥ずかしがる様子もなく、むしろ胸を張って笑いました。
「いや失礼。風の便りが聞こえたものでね。ささ、先生もどうぞお構いなく」
いつも自然体の常葉さんと接している私としては、思い出すだけで吹き出してしまうのですが、いつも常葉さんは気取った口調で話します。舐められないためと言いますが、むしろ舐められるのでは、と心配してしまいますよ。
そんなこんなで、私は常葉さんにその存在を知られました。そしてすぐに、こう声をかけられた訳です。
「ねぇ、あなた。あたしに声のこと、教えてくれない?」
もうこの時から常葉さんは、彼女本来の調子でした。これはたぶん、彼女なりの真剣さの表れだったのではないかと思います。
つまり、彼女にとって演じることは当たり前です。しかし、私に対しては素の自分を見せる。そうすることで、ある種の敬意を払ってくれていたのではないかと、そう私は考えました。
「声のこと、と言いますと?」
当然、この時の私は、常葉さんが声優を目指していることなんて知りません。
「あなた、すごく上手く教科書の朗読をしてたでしょ?あたし、将来は声を使った仕事に就きたいのよ。だから、コツとかあるなら教えてもらいたくて」
「は、はあ……でも、私は完全に独学なので、参考になることを教えられるかは微妙ですが……」
「それでもいいわ。とりあえず、声優の養成学校に入れさえすればいいから」
さらっとそう言った常葉さんを、私は思わず二度見していました。……声優の養成学校。常葉さんは、そこを目指すんだ……なんとなくそれは、私にとって縁遠い場所だと思いました。私は既にナレーションでお金を得ています。このままその仕事を辞めるつもりはありません。しかし、同時に一般的な仕事もするつもりでした。
まあ、今の時代、どんな仕事が一般的なんだ、という話ではあると思いますけど。ひとつ、手堅い地盤としての仕事もやっておこうとは思っていたのです。ところが、どうやら常葉さんの口ぶりでは、彼女は声優一本で生きていこうとしているようでした。
……一度、子役として成功しているから、そんな風に楽観視できるんだ。
意地悪な考えかもしれませんが、この時の私は確かにそう感じていました。しかし、それから深く関わっていく中で、常葉さんの役者生活が決して楽なものではなかったことを知りました。そうなった今となっては、彼女が相当なリスクを承知で、それでも芸能の世界に再び飛び込もうとしているのだ、ということがわかっています。
そうして、私と常葉さんは時々、会うようになりました。
学校ではいつも生徒会のお仕事があるので、ゆっくりと会えるのは休日ぐらいです。まさか学校で会う訳にはいかないので、自然なこととして私は常葉さんの家に招かれました。
子役として十分過ぎるほどのお金を稼いだ常葉さんのお家。どんな大豪邸なんだろう?と期待しながら常葉さんについていくと、そこには想像よりはこじんまりとした。しかし、十分過ぎるほどに立派なお家が現れました。
「昔から、役者になれと言われて育ってきたの。こんな非現実的な家に住むのも、役者として役に入りきるため。常在戦場なんて言うでしょう?ウチでは、常在レッスン場、みたいなもの」
「それじゃあ、常葉先輩がお芝居を始める前から?」
「父も母も役者よ。父は舞台俳優、母はミュージカル女優。それであたしがテレビドラマの子役。三つのメディアを制覇した、なんて当時は言われたわね」
「そうだったんですか……」
どうしてもテレビで扱われやすいのは、テレビのドラマに出るような役者さんばかりです。舞台やミュージカルも、芸能の世界のひとつではあるのですが、私は全然知りませんでした。
「まあ、芸名を使っているから、時澤姓じゃないわ。仮に知っていても、気づかなかったでしょうね。……そんな訳で、家、誰もいないから。家に防音室があるから、そこでお願い」
「そ、そんなのあるんですか……。私の宅録環境なんて、マイク一本だけですよ。工事とかがうるさい時はお仕事できないですし」
「……弘法筆を選ばず、かしらねぇ。……とにかく、あるものは使った方がいいでしょ」
「は、はい。よろしくお願いします!」
「それはあたしが言う言葉でしょ。……その、なんていうか。あたしのことは先輩とか、生徒会長とか。そういうのは考えなくて扱っていいから。だから、先輩呼びとかはなし」
「は、はあ、わかりました。常葉さん」
「……さんもいらないんだけど」
「それはさすがに……そもそも私、初めからこういう感じの口調なんで。友達もさん付けですし」
「なんかクラスで浮いてそうね」
「……たぶん、常葉さんよりはマシですよ」
「なっ……!?」
「と、とにかく行きましょう!」
気が緩むと毒づいてしまうのは、リアルよりもネット上で話すことの方が多い人の特徴なんじゃないでしょうか。
私は生配信のような形での自分の声の発信は、基本しません。ですが、文章としては毒づくことがたまにあります。まあ、ネット特有のノリっていうやつです。適当にスラングを使って冗談めかして、毒を少しでも中和しようとする、ずるいやり方……言葉を扱う人間として、私が嫌いな手法です。しかし、私自身がそれをやってしまっているのです。
……暗いことを考えるのはやめましょう。
そうして見せてもらった常葉さんの自宅にある防音室は、収録スタジオとして申し分ないものでした。フローリング張りのそこは、ダンスレッスンなんかもできそうです。
「昔はバレエもしてたわ。それからピアノも、英会話も。どれも役立たなかったけど」
「バレエも、ですか?」
「踊る役はなかったわ。親の自己満足でしかなかった。それで今、あたしは初めてあたしがやりたいことをやろうとしてるの」
「……そうですか。でも、私なんかで本当にいいんですか?高校生の内でも、ボイストレーニングとか、受けられるのでは?」
「それは、えっと……ねぇ、笑わない?」
「え、ええ。人のことを笑うような悪趣味な人間のつもりはありませんけど……」
「あたしね、人見知りなの。……笑ってないわね?役者なんてしてて驚くかもしれないけど、あたしがバラエティーでどんな役割だったか、わかるでしょ」
「可愛い可愛いって言われてて、微笑ましい目で見られていた……と思います」
「あたしとまともに会話しようとしてた大人はいた?」
「い、いえ。そんな記憶は……ないです」
「役者観、芝居をしていて何を思っていたか。将来はどうなりたいか。聞こうと思えば聞けることはいくらでもあった。でも、大人は子役のそんなところに興味はなかったわ。たぶん、意地悪や嫉妬じゃない。本当に純粋に興味がない。だって、まだ子どもだから」
「……そんなの、酷いじゃないですか。時の常葉さんは、間違いなくスターでした。子どもだからって、活躍している人を舐めるみたいなこと……」
「舐めるという自覚もないと思うわ。子役はそういうものとして扱われていた。そのお陰で、あたしの人見知りも露呈しなかったけどね。……役を演じている間はいいのよ。あたしは別人になっているから。でも、あたし個人として人と向き合う時、どうすればいいのかわからなくなっていた。多分、昔からそうだったんじゃない。子役としてある程度のキャリアを重ねてから、あたしは人と話すのが苦手になっていた」
「だから、学校ではあんなキャラを演じて?」
「そういうこと」
「でも、私と話している今の常葉さんは、素の常葉さんですよね?」
「……なんでだと思う?」
「意外と今は改善されてた、とか?」
「あなたが年下だから。舐めてるのよ、年下だからって」
「お、おおぅ…………」
出会った当初の常葉さんは、全体的に人当たりがきつかった記憶があります。
人見知りって、色々なタイプがいるのだと思います。
一番わかりやすいのは、まともにしゃべれない人。でも、意外と多いのは……相手のことをロクに考えず、自分の言いたいことだけを言いたいだけ話してしまう人。
常葉さんは正にそれで、聞き手である私を無視して一方的に話すと、後はもう黙ってしまうのでした。
私はあんまり、人にぞんざいに扱われたとしても、腹を立てたりはしません。ああ、そういう人もいるんだなー、とふんわり受け流してしまいます。だから、あんまりイヤとかそういう気持ちはなかったんですけども、常葉さんのこの人見知りは、すごく悲しい理由があるのだとなんとなくわかって、ただただそれだけが辛かったです。
今も常葉さんは、人と付き合う時はキャラクターを演じています。私と、同じ生徒会の月町さんとしか、まともにしゃべれないのでした。
声優という「話すことのプロ」を目指す理由は、その辺りにもあるのかもしれません。
「じゃあ、えっと……早口言葉からする?」
「そんな特別な文章は、今はいいです。それより、当たり前の普通の文章を朗読してみてください。たとえば……この、ネットニュースですとか」
「そんなのでいいの?全然、難しい文章じゃないけど……こほん。××日昼、△△市内で住宅が燃える火事が続いた。午後十一時時ごろ、□□区東坂の住宅で火事が発生。火は一時間後に消し止められたが、約三十平方メートルが全焼。怪我人はなし。近隣住民より、「炎が窓から上がり、恐ろしかった」。警察によると、出火の原因はコンセントであり、積もっていた埃から燃え移って炎上した模様」
「……ありがとうございます」
「こんなので、練習になるの?」
「はい。滑舌が甘いところがたくさんありました。そこを直していく必要がありますね。……常葉さんは全体的に舌足らずなところがあります。甘い声と言えばそれも美点ですが、話している内容がきちんと伝わらないのであれば、それはやはり短所です。――近隣住民、もう一度言ってみてください」
私が常葉さんに下す評価は、この頃から変わっていません。すごく可愛い声なんですけどね。だからこそ、気になってしまいます。
「近隣住民」
「今は滑舌を意識しましたよね。火は一時間後に、からもう一度お願いします」
「――――――近隣住民より――――――」
「長文になると、滑舌が甘くなりましたね。ちゃちゅちょや、じゃじゅじょは、かなり言いづらいところだというところもありますが、逆にここだけは確実に言えるようにしてください。全体を通して聞いた時の気持ちよさが違います」
「で、でも、そんな簡単にはできないわよ。あたし、舌短いし……」
「私もそんなに長い訳じゃないですよ。問題は柔らかさ、どれだけ的確に素早く舌を動かし、正しい発音ができるかです。もちろん、正しい発音というのは人によって違います。常葉さんにとって一番いい声が出せるように、もう一度……」
はっきり言って私の指導は、結構なスパルタだったと思います。
でも、それぐらい常葉さんは教えがいのある生徒だったのも確かです。
矯正するべきところは、残念ながらたくさんある……でも、打てば打つだけ強くなる鉄のように、鍛えがいのある人でした。
「もう一度!次は上手くやるから!!」
それは決して私の独りよがりな評価ではなく、常葉さんはとても負けん気が強くて、打ちのめしても打ちのめしても、必ず立ち上がってきて、襲いかかるようにして私に次のアドバイスを求めてきました。
……まあ、はっきり言って、まだまだ全然、常葉さんは仕上がってはいません。まあ、この指導自体が始まって、まだ二ヶ月かそこらです。これで完璧な声優を養成できるなら、養成校なんて必要ないし、人気声優は今よりもずっと多く溢れています。たまたま私が、朗読と物真似だけ上手かっただけで、厳しい世界なのです。
それでも、常葉さんは前を向いて私を頼ってくれるのでした。
「そうだ…………」
私は自宅でまた音声を収録していて、ふと思いつきました。
私はすぐに、インターネット上の小説投稿サイトで、女性二人の物語を探し出し、その作者さんの連絡用メールアドレスにメールをします。
新しい道を、切り拓くために。
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