狸とでっかい箱
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『ぷぅーん』

 

草の影から見るそのでっかい箱は、いつもいつも奇妙な音を立てて動いていた。

ずっと前にお母さんの前で『人に化けられるようになったらあれに乗る!』と叫んでみたら、お母さんは何も言わずにそのまま笑っていた。

 

 

僕の名前は「進」と書いて「シン」、人間の里に詳しいお母さんが付けてくれた。

生まれは海に囲まれた何処か、島の中の山の中。

よくお母さんが『狸はね、とことん気を付けないといけないよ?化けられないうちはもっとね』と口癖のように言っていた。

昔はよくわからなかったけど、今ならわかるような気がする。

 

段々と少しずつ化けられるようになって、一人で山から出る事も多くなった。

人里に降りて1番びっくりしたのは、人は便利だったり面白いモノをいっぱい持っていることだった。

特に小さい頃から見ていた、奇妙な音を立てて走る箱は……

毎日同じ時間に来て同じ人が出たり入ったりしていて、何をしているんだろうと不思議に思うばかりだった。

 

ただ、その時の僕が化けられる時間はまだまだとっても短くて人里に出入りする時に使っているぐらいだった。

それでも最近は、川にある変わった石から岩まで、葉っぱが四回か五回くらい流れる分は時間が伸びてきた。

あのでっかい箱が動いて止まるまでは、多分十回くらい。

(もう少し、頑張ろう)と思いながら、人里に降りる度に草の影からでっかい箱を見ていた。

 

 

あれから少し経って、今は大分長いこと化けられるようになった。

格好は未だに小学生ぐらいだけど、耳と尻尾を出さない自信はある。

 

『ぷしゅーっ』

 

そのでっかい箱がいつものように、目の前でやれやれと疲れたように止まった。

今日はいつもの草の影じゃなくて、少し古びた標識のそばにある小さな屋根付きの停留所の中、ぽつんと置かれた色褪せたベンチに僕は座っている。

格好はもちろん、人里でよく見る小学生と同じような服装。

秋も終わりに近いからちょっとダボダボの赤いトレーナーに紺色の長ズボン、白い靴下に同じ白のスニーカー。

何処からどう見ても怪しまれないように注意して、箱に入る時のための少しばかりのお金も用意してきた。

 

残念なのはここにお母さんがいないこと。

本当は乗るところを見せたかったけれど、今年も『島内全狸化けくらべ大会』があるので、その練習の仕上げをするために遠くへ出かけたのだ。

僕の化ける時間が伸びたのも、お母さんが化ける時の練習の相手を今年から僕もするようになったからだった。

 

ぱたんっと音がして顔を上げると、ちょうどドアというのが開いて人が出たところだった。

飛び跳ねるようにしてベンチを降りると、開いたままのドアに駆け寄った。

 

「僕、一人かい?」

 

箱の中から声がしてよく見ると、化けているお母さんよりも年を取ったような風貌の、白髪混じりのおじさんが顔を覗かせていた。

カッチリした服に身を包んでいて、輪っかのようなものに手をかけている。

 

「う……うん」

 

久しぶりに喋った人の言葉は何処かおぼつかなくて、人間を見て覚えた頷くという動作も一緒にしてみた。

 

「そっかー、えらいね」

 

そう言うと優しそうに笑ったおじさんはそのまま僕に話しかける。

 

「どこまで行くかわかるかい?」

 

行き先を聞かれてから、僕は初めて気が付いた。

何処かに行くことは知っていても、それが何処なのかを言い表せなかったのだ。

 

「う……」

 

僕が言葉に困っているとおじさんが何か思い付いたらしく、顎に手を当ててさすりながらもう一度僕に訊ねてきた。

 

「一つ先かい?二つ先かい?」

 

その時、僕は……(人間というのがとってもすごいのだ)と感心してしまった。

人と話すことも久しぶりだったけれど、話を助けてくれた人は初めてだった。

 

「ひっひとつさきです!」

 

あわあわと、その時を逃すまいと。

頭から爪先まで伸ばして背筋をピンとして、目の前で待つおじさんに僕は答えた。

不自然ではなかっただろうかと一瞬考えたけれど、それは必要無かったらしい。

 

「ふふ、一つ先だね?お金は百円、降りる時に入れるんだよ」

 

僕がおずおずと箱に入るのを見て、おじさんは笑ってお金の使い方を教えてくれた。

肝心の座る場所は少し迷ったけど、おじさんの後ろが空いていたのでそこにした。

一人より二人、優しいおじさんの後ろだとお母さんと一緒の時みたいな気がした。

 

「では、出発」

 

おじさんが僕にだけ聞こえるような小さな声で喋り、ドアというのがぱたんっと閉じた。

 

『ぷぅーん』

 

聞き慣れた、いつもの奇妙な音がしてでっかい箱は動き出した。

 

 

 

その間、僕の目は箱の中の窓から見える、流れていく景色を見ていた。

僕が走るよりも早く、目の前の木々は流れた。

なのに、向こうの海はいつまで経っても遅く流れて、僕はそれがとてもとても不思議だった。

きらきら、きらきらと海は輝いているばかりで、いつもよりも眩しく思えた。

人里に降りてから見慣れていた町並みも森林も、全然違うものに見える。

 

「すごいなあ……」

 

思わずぽつりと、思っていたことを呟いてしまった。

はっとしておじさんの方を見ると、聞こえているのかいないのかはわからないけれど、身動きしないでずっと前を見ていた。

外からぽかぽかとあたたかな陽射しが降り注ぐ中で、改めて僕は窓の方を向いて、箱の中からの景色を心ゆくまで眺めたのだった。

 

 

 

「……く……ぼく、起きたかい?一つ先に着いたよ。降りる場所だよ」

 

声が聞こえて目を覚ますと、でっかい箱はいつの間にか止まっていた。

声の主のおじさんはこっちに少し振り返って様子を見て、すやすやと寝ている僕に声をかけてくれたみたいだった。

慌てて僕は耳と尻尾が出てやしないかと、わたわたと手を動かして確かめてみたけどどうやら大丈夫みたいだった。

 

「ありがとう、おじさん」

 

まだ寝ぼけているけど席から立って、ちょっとだけふらふらしながら開いているドアに向かった。

 

「僕、百円百円」

 

うっかり通り過ぎようとしてしまった僕に、再度お金の事を言ってくれるおじさんは、またとんと優しい笑顔なのだった。

ふと、『お金が無いと人間の世界では困るんだよ。忘れないでね』と言っていたお母さんの顔を思い出す。

僕は狸でお母さんも狸だけど、この人間のおじさんはなんだかとても優しいなあと思った。

 

「あ、ありがとうございましたっ」

 

そうぎこちなく言って、ポケットから出したとっておきの百円を料金箱に静かに入れた。

チャリンと音がして、それは寂しいような嬉しいような、初めてでっかい箱に乗った時の思い出になった。

 

箱の外に出て振り返ると、あの優しそうなおじさんは僕を見てにっこり笑い、ひらひらと手を振ってくれた。

そのままぱたんっとドアが閉じる。

箱の中のおじさんはもう一度とびきりの笑顔をくれた後、またまっすぐ前を向いて、動き出したでっかい箱と一緒に行ってしまった。

 

「さよなら、おじさん……」

 

でっかい箱は遠く離れて、もう聞こえないのはわかってるけど、僕はその気持ちを陽が少しだけ傾いた空に呟いたのだった。

説明
とある化け狸のお話です。
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