葛の葉との絆語り -裏-
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ひっそりと静まり返った夜の廊下に聴き慣れた足音が響くのを、私の耳が敏感に捉えた。

首をやると、やつれたご主人様の顔が薄闇にぼんやりと浮かんでいる。

明らかに顔色が悪い。まるで、式姫全部が死に絶えたような顔をしている。

寝巻きの所々に染みができている。大方、嫌な夢でも見たのだろう。

 

「あら、こんばんは」

私は普通に挨拶したが、彼は一瞬足を止めただけだった。表情が嫌悪感を示している。

そのまま視線を交わす事なく私の後ろを通りすぎようとしたが、そうは問屋が卸さない。

「ちょっと待ちなさい」

私の言葉通り、すんなりと足音が止まる。どうやら中々に参っているようね。

普通の式姫なら二言目には主の体調を気遣うだろうが、生憎と私は違う。

「座りなさい」

露骨に嫌な顔をしながらも、ご主人様は私の隣に腰掛けた。

彼にとっては厭だろうが、このまま布団へ返すというのも面白くない。

 

ま、運が悪かったと思って諦めなさい。

 

 

 

ご主人様の顔色が悪いのは、恐らく私もその一因だろう。

 

討伐戦において、私はいつも命令以上の働きぶりを見せてきた。

それは彼の事を信頼しているからでも、自分の強さを誇示する為でもない。

 

彼は私の強さに惚れこみ、次第に無茶な命令を下すようになった。

強いからといって式姫一人を酷使するようでは、陰陽師としての器も知れるというもの。

 

けれど、私は文句の一つも言わずに黙々と従った。

未だに式姫への理解が浅いご主人様に対して何度も叱責したい衝動に駆られたが、私はその都度我慢した。

威圧し、彼の心をへし折る事もできた。それでは駄目だと懇切丁寧に説明してやる事もできた。

しかし、私はいずれの方法も選ばなかった。そんなやり方では、考えを改めさせる事はできない。

 

故に私は、瘴気に侵され体を壊すまで忠実に彼の傲慢さに付き合う事にした。

自分が間違っていたと骨身に染み込ませる為に。

 

己の身を犠牲にするやり方など褒められたものではないし、正直私の好む所ではない。

まぁ済んだ事なので今更後悔しても遅いのだが。

とにもかくにも私の思惑通り、ご主人様の態度は以前と変わりつつあった。

最も、今の彼を見るに却って悪い方向へと傾きつつあるようだが。

 

薬が効きすぎたかしら。

 

体調を崩した私に対して過剰に責任を感じているご主人様は、なんとか私の機嫌を直そうと東奔西走してくれた。

私はうっとうしいこともあってその悉くを断ったが、どうやらそれが裏目に出たようで今度は完全に嫌われたと勘違いしているらしい。

 

はっきり言って、面倒なご主人様だ。

とはいえそれを口に出すと、さらに落ち込んでしまいそうだから言わないけれどね。

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「ひどい顔ね。怖い夢でも見たのかしら?」

ご主人様は地蔵のように固まったまま、自分の膝へ視線を落としている。

笠も被らぬその頭に雪が積もっても、恐らくこの人は動くまい。

「体の――具合はどうですか」

「ふん。今は自分の身の心配でもしてなさい」

そっけなく答えると、再び彼は沈黙した。本当に具合が悪いなら、私とてこんな夜更けに月見などに興じたりはしない。

体調は万全とは言えないが、八割程には回復している。それよりも、こんな顔のご主人様を連れて討伐に行く方が疲れるわ。

 

 

 

「オガミ。貴方のいた時代の月はどう?」

今度はご主人様の方を向いて質問を投げかけてみる。

 

幸いな事に、今夜は満月が出ている。落ち込んでいる時、人は輝くモノを見るだけで元気が出るものだ。

案の定、ちらりと顔色を窺うと、私と会った時に比べて幾分マシな顔つきになっている。

もし輝くモノを見て元気をなくすようなら、その頬を引っぱたいて目を覚まさせるしかないわね。

 

「どう、って言われても……変わりませんよ、昔からずっと」

 

心は月と同じだ。欠けたり丸くなったり、時には見えたり見えなくなったりする。

けれど、触れる事は決して叶わない。

 

「ちなみに、月って裏側は見えないんですよ」

「ふうん」

 

そして――裏を見る事も、だ。

 

今夜のような綺麗な満月を、一体どれ位の人が見ているのだろう。

もしも月に意思があるのなら、一体どれ位の人を見ているのだろう。

 

まるで貴方にそっくりね。

多くの式姫達を見る立場にありながら、自分の裏側は決して見せようとしないんだもの。

 

それは本人が不器用というのもあるが、裏を見せるのに信ずる式姫がいないからにすぎない。

適度に仲の良い関係を築いていると、人は裏を見せようとしなくなる。

打ち解ける事に対する恐怖。お互いの関係がねじれてしまうのを恐れるからだ。

 

「そんなに地面ばかり見つめていても、何も見えないわよ」

満月は、例え今見逃した所で二度と見えなくなるものではない。日が経てば、いずれまた顔を覗かせてくれる。

だからといって煌々と輝く満月を見逃すのは少々もったいないというもの。

ま、今のご主人様にそんな風流を愉しむ余裕はなさそうね。

 

「はぁ。全く、面倒なご主人様ねぇ……」

私はため息をついて、袖の中から櫛を取りだした。屋敷にいる際は、常に肌身離さず持っている。

それを、お地蔵さんの頬にぺちっと当てた。

「…………?」

ぺちん。呆けたように櫛を見つめている地蔵の頬を、もう一度叩いた。

「察しが悪いわね。毛繕い、してくれるかしら?」

「……はい」

 

私の尻尾に触れる機会など、そうそうない。普段なら、えっいいんですか!?と狂喜乱舞しただろうに。

結局それ以上はお互い何も言わず、毛繕いが始められた。

 

ご主人様にとってはさっさと布団に帰りたい所だろうが、それは私が許さない。

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実のところ、毛繕いを頼んだのはただの口実である。ご主人様が来る前に、それは終わっていたのだから。

注視するまでもなく、私の尻尾にほつれや汚れがない事くらい見れば分かる事。

それでも、彼は疑問を口にせず黙々と櫛を動かしている。

 

 

それから、何分が過ぎただろうか。

五本目の尻尾の毛繕いの最中で、不意にご主人様の手が止まった。振り返ると、ウトウトと船を漕いでいる。

「…………」

もふっ。声をかける代わりに、別の尻尾で顔を叩く。

「――!っと、すみません」

 

まもなく再開された毛繕いは、しかし、少し経つとまた手が止まる。

もふっ。

「……すみません」

 

うとうと。もふっ。

「――!…………」

うとうと。もふっ。

「…………」

 

流石に限界かしら。

見切りをつけた私は、ご主人様の腰に尻尾を巻きつけ、そっと尻尾枕に横倒しにしてやった。

カタン、と櫛が廊下に落ちる。私はそれを拾って、袖の内にしまった。

 

ほどなく、スースーと可愛い寝息が私の耳に聞こえてきた。

 

「廊下で寝るなんて、いい度胸してるわね」

熟睡しているらしく、私の愚痴にも全く反応しない。

別の尻尾を、掛け布団のようにふわりと重ねてやる。風邪でも引かれては後味が悪い。

 

裏を見せてくれぬ月なら、捕らえて落としてひっくり返すまでの事。

例え嫌われることになっても、誰かがしなくてはならないのだ。もう一度、ご主人様に立ち上がってもらう為に。

落ちる時は、いっそどん底まで落ちた方がいい。立ち上がるまでの距離が長い程、人は強くなれるのだから。

 

沈んでいるご主人様を心配する事は、どんな式姫にも出来る。だったら猶更、そんな役割は私には似合わない。

本当の所、私もこういう役回りは好きではないのだけれど――

「こんな情けない寝顔を独り占めできるのなら、悪くないわね」

 

今はゆっくり休みなさい、オガミ。

説明
ご主人様に毛繕いしてもらうだけの話よ。
……何?表から先に読んできなさい。

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