梅雨明けの空に |
水無月の頃、地面に跳ねる雨音が響く梅雨時の朝。紋入りの紅葉傘を差した少女が通りを歩いている。
傘を指した少女、土御門澄姫は友人であるとこよの家を訪ねていた。
とこよの家は逢魔時退魔学園の外れにある。元は彼女の母親の土地であったが、その広い敷地を学園として用いている。
学園には行商人や学生が多く賑わいを成しているが、外れに近づくにつれて次第に喧騒の声は遠のいていく。
営みの音が聞こえなくなった頃、澄姫は足を止め、古ぼけた門をくぐった。
門の先には庭が広がり、赤い実のなったとまと畑やすいか畑、煉瓦で囲われた花壇が澄姫を迎える。
花壇はかやのひめと紫の君がとこよに頼んで作られたもので、淡桃や紫、更に赤青と鮮やかに彩られた紫陽花の花弁が雨露を滴らせていた。
花壇の中央にこんもりと盛られた土に植えられた一輪の薔薇は、花の世話をしていたかやのひめに薔薇姫が贈ったものだ。式姫の力を込められた薔薇は季節を問わず桃色の大輪を咲かせている。
式姫たちが作り出した庭を横目で眺めつつ、玄関の前に辿り着いた澄姫は、戸を叩き声を上げた。
「ごめんください」
しばらく佇んでいると、少しお待ち下さいという声の後、ぱたぱたと駆ける足音が近づいてくる。
「あら、澄姫様。おはようございます」
戸を開けたのは狗賓だった。深緑色の着物に、白い前掛けをしている。先がくるりと丸まったロングポニーテールと白くふわふわとした翼が可愛らしい世話焼き好きな天狗だ。
仄かに香る焼き鮭の匂いが、朝餉の支度の途中であったことを伺わせる。
「おはよう狗賓。料理の最中にごめんなさいね。とこよは起きているかしら?」
「いえ、気になさらないでください。とこよ様は恐らくまだ寝ておられるかと」
文様が起こしに向かったのですが、と狗賓は続け、澄姫はこめかみに手を当てた。
「ああ……多分駄目ね。あの子、てこでも起きないわよ」
土御門の別荘へ遊びに来たが、長雨が続き彼女を泊めることになった夜。雷鳴が轟き驚いて飛び起きた横ですやすやと幸せそうに眠っていた友人の顔が目に浮かんでくる。
あの日の事は雷に怯え怖いにゃあ怖いにゃあと泣きつく獅子女をなだめていたから良く覚えていた。
「新しい術が出来たから稽古しようと誘ってきたのに本人は夢の中とは、まったくもう」
「昨夜は稽古に使う符の選定で遅くまで起きていたそうですよ。何でも、澄姫様の護法霧散から新たな着想が得られたとか」
護法霧散はとある場で澄姫が用いた術である。符に呪を宿し、放つことであやかしの纏う加護を払う。
陰陽師の間でも秘された禁術と呼ばれる類の一つだが、符術士の修練の中でこの術を活用する術を見出したそうだ。
「文もまだ戻って来ないようだし、私もとこよの部屋へ向かうわ。狗賓は料理の支度を続けていてね」
承知致しました、と一礼し狗賓は厨房へと戻っていった。
「さて、気を取り直してあの子を起こしに行きましょうか」
とこよの住む屋敷は広い。彼女の母が式姫と共に暮らすために造られた建物で、外見より内は非常に広くなっている。中には50人が悠々と入れる大広間などもあるほどだ。
建築に長けた大工でも不可能な、言わば人ならざる者が空間を新たに造り出したかのような屋敷。屋敷の中では式姫達が思い思いに時を過ごしている。
部屋を駆け回り障子を破っておゆきに叱られる狛犬やコロボックルと将棋に明け暮れる鞍馬。熊野が薬研を転がして作った薬をおさきが試飲して掌ほどに縮んでしまったこともある。
鳳凰と髭切はアスモデウスや??からおしゃれ講座を受け、堕天使は修行一筋の蜥蜴丸に振り回される。数えればきりがない程多くの出来事がこの屋敷には詰まっていた。
外敵を排除する命を授けた式が機械的に徘徊する土御門家とは異なる、温かみを感じる場所。
澄姫はこの屋敷の醸し出す空気を好ましく思っていた。
「――こよさん、――てください!」
耳を澄ますと、文の声が聞こえてくる。とこよを起こすため四苦八苦しているようだ。
「開けるわよ、とこよ、文」
声のする部屋の前につき襖を開けると――
文を抱き締め眠っているとこよの姿があった。
「ちょ、ちょっと、なにしてるのよあなた達!」
「あ、おはようございます澄姫さ、ゴフッ!」
「きゃー!?」
挨拶と同時に吐血する文。赤い飛沫が空を舞い、畳へと落ちる。
病から来るものではないそうだが、中々慣れる光景ではない。
彼女の吐血を龍の力を借りて止めたこともあったが、どうやら力を分け与えた龍の方が吐血するようになってしまい、已む無く力を返したらしい。
「……とりあえず吐血は置いておきましょう。おはよう文。これはどういう状況かしら?」
「え、ええと、澄姫さんが来ると聞いていたのでとこよさんを起こしに来たのですが……」
「あと四半刻……ぐぅ」
「この通りです……」
布団の中にはすやすやと布団に包まったとこよの姿。
文が彼女を起こすため肩を揺するが、一向に起きる気配はない。
仕方ないので布団を引き剥がそうとしたが、あと一歩の所で文自身が布団の中へ引き込まれたようだ。
「全く、この子は……とにかく起こさないと始まらないわ」
放っておけば気の済むまで眠り続けるであろうとこよ。そんな彼女を起こす特効薬を澄姫は知っている。
無防備な彼女の寝顔を眺めていたい欲求もあるが、いつまでも文を抱き枕にさせておくわけにもいかない。
眠るとこよの耳元へ顔を近づけて、声をかける。
「とこよ、起きなさい!早く起きないと狗賓が朝餉を全部食べてしまうわよ!」
「……えっ!?」
たまらずとこよは飛び起きた。大抵のことは気にしない彼女でも、御飯抜きは堪えられないのか直ぐに反応を示す。
細い身体に似合わず大食いの狗賓は山盛りに積まれた狗賓餅でもぺろりと平らげてしまう。空になった皿が並ぶ食卓の光景は、とこよを起こすには十分過ぎる衝撃だったようだ。
「ようやくお目覚めね。おはよう、とこよ」
さらりと髪をかき上げて挨拶をする澄姫をしばらく眺め、自らの寝坊に気づいたとこよはばつが悪そうに頬をかきながら答えた。
「あー……おはよう澄姫。それと文ちゃんもおはよう」
「おはようございます、とこよさん。澄姫さんが稽古に参りましたよ」
「うん。ごめんね澄姫。稽古に使う符を作ってたらつい遅くなっちゃって」
「まあ、そういう事なら仕方ないけれど。それと狗賓が朝餉を作って待ってるのは本当よ。早く支度して食べてきなさい」
「布団は私が片付けておきますね。とこよさんは朝ご飯を食べてきてください!」
「ありがとう文ちゃん。それじゃあ行ってくるね! 食べ終わったら稽古しようね、澄姫!」
手を振ってぱたぱたと駆け出すとこよ。足音は徐々に遠ざかり、寝室には文と澄姫だけが残された。
手際よく布団を片付ける文の姿を眺めつつ、澄姫は姿の見えなかった鬼の所在を文へ尋ねた。
「……悪路王はどうしたのかしら?」
「悪路王さんですか? 校長先生の所へ向かうと伺っていますが……」
日々の酒代を稼ぐため学園で教鞭を執ることになった悪路王は、時折とこよの屋敷を留守にするようになった。
生徒からは無愛想ながら面倒見の良い教師として人気を博していると聞く。親交のためにと甘味処へ誘われることもあったが、本人はにべもなく断り、ゼッピンと旨い酒の肴を探求する議論に忙しいようだ。
「そう。後で稽古をつけてもらおうと思っていたけれど、居ないんじゃ仕方ないわね」
「最近はとこよさんも構ってもらえないと膨れていましたよ」
「ずっと瞳に取り憑いて酒を飲んでるよりはいいわよ、きっと」
「ふふっ、そうかもしれませんね。……よし、これでおしまいです」
布団を片付け終えた文は立ち上がり、澄姫の方へ向き直る。
「とこよさんの元へ向かいましょうか。澄姫さんはもうお食事は済まされましたか?」
「ええ、屋敷を出る前に頂いてきたわ。行きましょうか」
寝室を出て、縁側をゆっくりと歩く。ふと、澄姫は前を歩く文の後ろ姿に目を取られた。藤色のきめ細やかな髪に、大きなリボンがふわふわと揺れる。そして何よりも――
――小さい背中。
方位師とは陰陽師と死線を共にし、心を預ける相棒である。
文は優れた方位師だ。現し世を超えた幽世の世界ですらとこよを常に捕捉し、適切な指示を出すこともできる。その実力は、澄姫の方位師である紫乃にも比肩するものだ。
しかし、平時は戦闘の補佐を行い、絶体絶命の窮地には陰陽師を救う命綱となる彼女の背中が、その重責を背負うにはあまりにもか細く見えてしまった。
一瞬の気の迷い。時を経ればすぐ霧散するはずの不安は、文への問いかけとなって澄姫の口を衝いて出た。
「……文。あなたはとこよの方位師になって後悔したことはある?」
「え? 後悔……ですか?」
「あの子はとてもひたむきで、真っ直ぐで、無鉄砲だけどとても優しい。だから、自分が傷つくことも厭わない」
「……はい。よく、分かります」
「とこよは私のかけがえのない親友よ。でも、あの子が記憶に残っている式姫に逢うには、大門へ近づくことになる。それで自分が消えてしまうかもしれないと知っても、きっと止まることはなかったわ。だから止めようとした。命を懸けて」
澄姫は静かに目を閉じる。瞼の裏には銀青に煌めく十九池の畔でとこよと向かい合う姿。今でも時折夢に見る光景だ。決して忘れられない、あの子を泣かせてしまった後悔の記憶。
「私は陰陽師で、貴方は方位師。できることは違うけれど、貴方はとこよが傷ついた時、側にいて支えてあげられる?」
「――私は」
文は微かに俯いた後、澄姫を見つめ返す。決意を含んだ迷いのない瞳は揺れることなく澄姫を見据えた。
「私は後悔なんてしていません。私が方位師になれたのはとこよさんのおかげです。瘴気に堪えられない私のために、本来は陰陽師が持つべき陰陽のお守りをくれた時、私はこの人の力になりたいと思いました」
「……そう」
「一緒に過ごすうちに、とこよさんは大切なひとを守るためなら、どこまでも強くなれる優しさを持っているんだとわかりました。式姫の皆さんや三善先生……そして、私や澄姫さんのことも」
「ええ、そうね。あの子は誰かが困っていたら、手を差し伸べずにいられないみたいだから」
「ただ、とこよさんは何でも一人で背負い込もうとしてしまいます」
「あの子の悪い癖ね。最近は、昔に比べて人を頼るようになってくれたけれど」
「だから、私はとこよさんの道を照らす灯籠になりたいんです。とこよさんが進む道に迷った時、戻ってくる道標になるために」
「灯籠、か……。ふふっ。文らしい、方位師らしい答えね」
「澄姫さん。私はとこよさんの側で、大門を閉じた後も一緒に居られる方法を探していきたいです。そのために澄姫さんの力が必要になることもあると思います。その時はどうか、力を貸していただけませんか?」
「私はとこよの友達よ。そんなこと、聞かれるまでもないわ」
文の返答を受け、澄姫の迷いが晴れていく。残るのは、親友を守るという二人の確かな絆。
「うん。杞憂だったみたいね。安心したわ」
「何か気になることでも?」
「何でもないわ。長話になっちゃったわね。改めてとこよの所へ向かいましょうか」
「はい!」
「あ、澄姫! こっちは準備できたよー! 文ちゃんも布団の片付けありがとう!」
居間では、稽古の準備を整えたとこよが手を振って二人を出迎えた。
「いえいえ。それではお二人とも、転移先はいつものように十九池でよろしいですか?」
「ええ。お願いするわ、文」
「今日のために作った特製霊符、負けないからね、澄姫!」
二人の陰陽師は目をつぶる。文が呪文を紡ぐと、体が浮くような感覚とともに意識が暗転した。
瞼を開けると、そこは武蔵から遠く離れた地、十九池だった。先ほどまで降っていた雨は霧雨に変わり、空には雲の合間に冴え渡る蒼が浮かぶ。差し込む陽光が池に反射し、きらびやかな光沢を放つさまは、清澄な雰囲気をより際立たせる。
「狐の嫁入りだねー。まあ、うちには嫁に出す娘はいませんが!」
「飯綱は主の元を離れても泣いて戻ってきそうね。まあ、そういうところが可愛いのだけど」
かつての因縁の地は、儀式の場となった。幕府に対して土地に憑いた魔を払うという方便を流し、とこよと澄姫が試合をできる場所を作ったのは吉備泉である。
以来、二人は時折この場所で迷いを払い、切磋琢磨するために試合を奉納するようになった。
「……さあ、始めましょうか、とこよ!」
「うん。行くよ、澄姫!」
『式姫よ、在れ!』
掛け声とともに清廉な剣戟の音が中天にこだました。
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澄姫がとこよの屋敷へ訪れる話です。 | ||
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