夜摩天料理始末 27 |
金色の獣が空に踊る。
鵺の力強さとは違う、速く滑らかなそれが、長く鋭い一筋の光となって、縦横に動き、屋敷に向かい炎や瘴気を吹きかける。
結界に守られた庭とはいえ、これほどの大妖怪の攻撃に対して無傷ではいられない。
白く美しい練塀が、瘴気を浴びてぐずりと崩れ、堀に蓄えられた清らかな水が濁る。
周囲に植えられた松の木が燃え上がる所に、誰が操ったか水流が迸り、それを消し止める。
結界の力もあり、屋敷への侵入までは許していないが、明らかに戦力に劣る式姫達が押されていた。
「そちらから仕掛けて置いて、その程度かやァ、式姫ども!」
陰々と響く、嘲りを込めた藻の声に、鞍馬はしらっとした顔で肩を竦めた。
「心外だな、今回の開戦は、最良を選べないから、マシな方を取ったというだけさ」
「ふむ……なし崩しという奴だね」
「身も蓋も無い言い方だな、旧友よ」
「そう言いたくもなるよ、奴の嫌味に反論できまい」
鞍馬の傍らで熊野が気づかわしげに、周囲を見る。
「私の知る化け狐より強いな……大丈夫か、鞍馬?」
「奴も五百年以上は暗躍してたんだ、多少の力は付けているだろうさ」
「そんな呑気な」
更に何か言い募ろうとした熊野に、鞍馬は静かな顔を向けた。
「時は平等に流れる物さ」
そう言って、顔を藻に向ける。
「それは、私たちも……ね」
空気が唸った。
青い狐火を宿した鏑矢が打ちあがる。
「あれは」
「かやのひめさ」
鞍馬がそれを見送って動き出した。
「奴の動きは存分に見せて貰ったという事だよ……では反撃開始だ」
邸内を守るかやのひめが手にした弓から、鏑矢に続き、たおやかな彼女が放ったとは思えない程の鋭さで、立て続けに藻に矢が射込まれる。
かやのひめは植物の生育を司る神。
彼女が手にした梓の弓は、その強い体を幾重にもより合わせ、彼女に仕える生きた弓。
自ら強く撓り、そしてあり得ない程に強い矢を正確に放つ。
藻は、それを更に速度を上げて躱す、だが体を掠めたその威力は、彼女にも無視できる物では無かった。
当面の危機と認識し、かやのひめを狙おうと向きを変える、その死角となる場所から、いきなり矢が射かけられた。
鋭い幾筋かは彼女の体を抉り、些細ではあるが痛みをもたらし、次の動きを阻害する。
矢の飛来した方角を狙おうと思う時には、既に彼女たちは居ない。
白兎や飯綱、コロボックル。
普段の遊びや散歩で、この辺りの地形や植生を知悉している三人の、素早く的確な連携に、的を絞り切れない。
そちらに意識を向けようとしても、次は邸内に構えるかやのひめの強弓から放たれる矢が、更に藻の体を抉る。
「おのれ、小煩い連中め」
「それはこっちの台詞よ、妖狐の面汚し」
常に、どこか機嫌の悪そうなかやのひめの顔が、今日は一際キツイ表情を浮かべて藻を睨み返す。
「だまりゃ!人などという塵芥に従う式姫如きが、妾のような、大妖にィ!」
「人が塵芥……ね」
ふっとかやのひめが笑う。
「貴女、花は【花】、としか見えないの?」
人は人としか、獣は獣としか。
「どうでも良いわ、花は花で人は人、妾から見れば全て無価値な物に過ぎぬのやァ」
「違うわね、花が同じ種類でも一株一株、季節や年月に応じて全て異なるように、神や大妖の中にも塵芥は居るし、人の中にも、偶にはそれなりのが居るのよ」
蔑むような視線を矢と共に向ける。
「そんな事も知らないの?大妖怪様?」
「そんな物はナァ、地べたを這いずる弱い存在が、くよくよ考えておれば良い事なのやァ」
「らしい言い種ね」
矢の奥のかやのひめの目が鋭さを増す。
「それこそが、貴女みたいな間抜けの足を掬って来た考えなのよ」
静かな言葉と共に、矢を放つ。
「妾にそんな物がァ!」
屋敷の周囲を飛び回りながら、口から猛火が放たれる。
「当たるのよ」
炎を躱しながら、立て続けに放たれる、二の矢、三の矢。
藻の動く先、避ける先を読んだ様に、その矢が今度は体を捉え、深く撃ち込まれた。
鮮血を振りまき、その優美な体が苦痛に空でくねった。
「貴様ァ!」
何故だ。
何故私の速さに、動きに、着いてこられる?
「速いだけ、強いだけ、鋭いだけ……そしてそれ故に単純なのよ、貴女の動きって」
剛良く柔を断つは、一つの生き方なれど。
花の持つ繊細さと強靭さと強かさを併せ持つ美と生に比して、何とこの生き物は……。
嘲笑うでも蔑むでも無い、自然界の女神らしい冷徹な観察眼から導いた、単なる事実として。
かやのひめは、藻に目を向けて呟いた。
「粗雑ね、貴女って」
「お見事」
天羽々斬が見上げた空から、半分に斬られた鵺の体が炎を曳きながら二つ落ちて来る。
鵺を隠れ場所から引きずり出すべく動いていた彼女だが、童子切達が同じ目的で動いているのを見て、自分の役割を変更した。
殺生石の始末。
死と破壊を現世にもたらす、神々に封じられた大妖、玉藻の前がこの世界に残した、呪詛そのもの。
あれのせいで……何人の子供たちが泣いた事か。
ははさま、ととさま、そう叫びながら夜に目を覚ます子供たちの涙。
鞘を失い、抜き身で手にしている、自身の分身たる剣の革巻の束が、込められた力にぎちりと鳴る。
あんな物は、この世界にあってはならない。
奴の体から探し出し、それを砕く。
走る彼女の足下から、地響きが伝わってくる。
奴が落ちた。
脚を速める。
殺生石は邪悪だが、絶大なる力の塊でもある。
故に、それを求める存在も多い。
鵺が滅びた今、殺生石がこの辺りに居る物の怪の手にでも落ちたら、厄介極まりない。
森の一隅が明るく燃えている。
木々をなぎ倒し横たわるそれは、だが、いまだ不気味に蠢いていた。
炎で焼かれた筋肉が見せる収縮のような、自然な動きでは無い。
体を二つに裂かれ、おつのの炎に、その穢れた血や肉を焼かれながら、尚その体は半身を求めて手足を動かしていた。
ずるりずるりと這い動く、その身を起こそうと手足を踏ん張る。
このような姿に成り果て……尚、死ぬことすら出来ないのか。
「何という……」
……何と、惨(むご)い事か。
天羽々斬には、この時、殺生石の本質が見えた気がした。
あれは強力な生命力を与える物では無い。
生とは本来、死を内包している物。
だが、これは違う。
死ぬことすら許さないのだ。
筋肉の一筋が、骨の一かけらが残っていれば、そこに力を注ぎ込み、命のふりをして動き続ける。
そんな……生命を冒涜する、あの妖狐の昏い悦楽の為の道具に変える。
人も妖も、全てをあの妖狐の玩具にするための物。
玩具ゆえに、壊れて動かなくなるか、飽きて捨てられるまで、あの妖狐の戯れに、その生命を弄ばれ続ける。
「外道がっ!」
やるせない、どうしても内心に留めておけなかった。
天羽々斬の口から、低い、慟哭にも似た叫びが零れた。
立ち上がろうとした、鵺の手足がへし折れた。
地響きを立ててその体が倒れ、既に炭化していた肉と骨が砕けた。
うずたかく積み上げた薪に火が回った時のように、崩れた体から、灰と炭と火の粉が濛々と舞う。
その中で、最後まで残っていた、頑強な金色の毛皮が炎に吹き上げられ、夜空に踊った。
彼が、その野心と共に掲げたかっただろう旌旗のように、その金色の毛皮を月明かりの中に一瞬だけはためかせ。
「……南無」
彼の野心の終焉と共に、その旗もまた、炎の中に燃え尽きた。
瞑目していた目を開き、天羽々斬は、熾火を宿す灰の山を、聊かげんなりした顔で見渡した。
この中から、あの小さな石を探し出さねばならないとは。
奴の妖気を辿れば、不可能ではないが、これは……流石にちょっと骨だ。
「ふふ、貴女もそんな顔をするのね」
気配の無かった所からいきなり声を掛けられ、天羽々斬は刀を構え振り向いた。
全身に厚く外套を纏うほっそりした姿。
手には、杖のようにも見える何かを手にして。
「何者」
「あら怖い、私の声を忘れてしまいましたか?」
夜闇の中で仄白く光る細い手が、頭巾を少し上に持ち上げ、僅かにその顔を夜気に晒した。
「……貴女様は」
珍しく天羽々斬が慌てて刀を逆手に持ち変え、敵意が無い事を示すように、刃を後ろに向けた。
「御無礼を」
「気にしないで、久しぶりですもの……最後に会ったのは確か」
「左様ですね、私が式姫となり、貴女様が京(みやこ)に降臨されて以来でしょうか」
「かれこれ六百年ですか」
それは、声なんて忘れちゃいますよね。
変わらず穏やかにほほ笑んで、彼女は天羽々斬の隣に並んだ。
「……しかし、貴女様が降臨されるとは、何事が?」
彼女程の神は、この世界に直接の関わりは極力しない。
それが動くという事は、余程の事態か。
だが、緊張する天羽々斬に、彼女は静かに首を振った。
「用事のついでに地上を見て回っているだけなので、降臨という程では無いんですよ」
ほれこの通りというように、そのたおやかな美しさを隠す外套を指さす。
「成程」
いわゆる、お忍び、という奴か。
という事は、逆に言えばあまり派手には動けない筈だが。
「……宜しいのですか、その、私たちに接触して?」
「私はあの妖狐の力の破片の様子を見に来ただけですから」
偶然という奴ですよ。
そう呟く彼女に、天羽々斬は僅かに苦笑した。
成程、理屈と膏薬はどうとでも付くものだ。
「確かに、あの石は、神々の戦の残り物みたいな物ですからね」
「そういう事です、あの戦の後始末という事でしたら、私たちが動くのは、ごく自然な事です」
天羽々斬に頷きかけて、彼女は緩く湾曲する、その杖を体の前にかざした。
「ここに来る前に、私も一つは始末しました……貴女も一つ始末してくれてますよね?」
「……ええ」
流石に良くご存知で。
「では、いまこの地に在る殺生石は、残り二つ」
外套の奥で、眼鏡が月明かりを受けて、僅かに煌めく。
何かを頭巾の奥で呟くと杖の両端の間に、細い光が走った。
その光に手を掛け、彼女は弓弦のように、それを引き絞った。
「片付けて行きます」
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