おさきとの絆語り |
「オガミ様、おはようございます」
「ういー」
居間へと向かう途中、廊下でおさきと遭遇した。
「ところで、私に何か――」
「あー、その先は言わなくていいよ」
目の前でぷらぷら手を振って言葉を遮り、そのまま彼女に背を向けて通り過ぎる。
「あら、失礼しました」
おさきを迎え入れて数週間、口を開けば大体二言目にはお馴染みの台詞が飛び出してくる。
最初の頃はありがたく聞こえたものの、数日経つと辟易し、そして今となってはうざったくさえ感じる事がある。
いい加減、耳にタコができる程聞き飽きた。なれば、対応がぞんさいになっても仕方あるまい。
おさきが嫌いなわけではない。彼女が信念とする自己犠牲の精神は、素直に尊敬する。
ただ、理解ができない。俺には逆立ちしたって生涯その領域へは到達できないだろう。
後ろを付いてくる金色の狐にチラリと目をやる。
全体的に淡黄色で統一された髪や衣服。
静かに自己主張をしているそれらは、落ち着いた振る舞いと合わさってやや高貴な印象を与える。
表情は一見涼しげに見えるが、その薄皮一枚下では滅私奉公の信条が燃えたぎっているに違いない。
綺麗に整えられた四本の尻尾は、思わず手を出したくなる魔性とも呼べる程の艶を放っている。陽光を受ければさらに輝きを増しそうだ。
とまぁ、容姿に関しては申し分ない。立っているだけでも十分絵になる。
だからこそ、おさきにあれこれさせるのが却って苦痛だった。それは俺のみならず、他の式姫達も同じ事を考えている。
癖のある式姫は例を挙げると枚挙に暇がないが、おさきはその中でも最上位に位置付けられている。
異常――とまでは言わないが、常人とかけ離れた精神性の彼女には正直どう接していいのか分からない。
討伐においてはそれなりに役立ってくれているのだが……。
「オガミ様、どうかしましたか?」
「いや、なんでもないよ」
どうかしてるのはあんただよ、なんて言わないがね。
……分からん。この先、どうやって接していけばいいんだ。
それから数日経ったある日の夕方。
遠征から帰った後、俺はおさきを自室へ呼び寄せた。
「失礼致します」
ぺこりと一礼しながら、淀みない所作で敷居を跨いでくる。
「うむ、苦しゅうない。近う寄れ」
割り箸でちょいちょいっと指し示した先には、座布団が敷いてある。
その間には、皿に盛られたたこ焼きが湯気を立てながら見る者の食欲を誘っていた。
「たこ焼き、ですか。いい匂いですね」
「遠征の帰りに、腹が減ってしまってな。遠慮せずに食ってくれ」
「ですが、私が食べてしまっては皆さんの分が――」
「いいから食えって、熱いうちが美味いんだ。それとも、類い稀なる主の好意を無下にするのかね?」
型苦しいのは苦手なんだよ。俺の念が通じたようで、おさきは勧められるまま席に着くと割り箸を手に取った。
「……では、ありがたく頂戴します。ふー、ふー」
「はふはふ」
「美味いか?」
「ふぁい、おいひいれふ」
口元を手で覆いながら、熱々のたこ焼きを咀嚼するおさき。
なかなか見られない光景なだけに、俺もニヤリと笑った。
「ところで、オガミ様」
「もぐもぐ……なんだ?」
「私を部屋に呼んだのは、この為でしょうか?」
「そうだが」
「そうですか……」
ふっ、甘いなおさき。たかがたこ焼きを馳走するだけで終わりと思うなよ。
お互い口数が少ないまま、せっせと箸を動かす。腹が減っているのは俺だけではなかったようだ。
「最後の一個はお前に譲ろう」
「いえ、私はもう結構ですので」
「最初に俺が遠慮するなと言ったのが聞こえなかったか?」
「ですが、これでは数が合いません」
そりゃそうだ。数が合わなくなるように買ってきたのは俺なんだから。
「割り切れない時もあるさ。遠慮すんな」
「…………」
おさきは動かない。
「やれやれ、謙虚に見えて強欲な奴だな。全く」
薬指と小指で割り箸を挟みながら、湯呑みを傾ける。
「カルネアデスの板、って話を知ってるか?」
「いえ」
「外国で生まれた話なんだが……じゃあ蜘蛛の糸って言えば分かるか」
「うーん、聞いた事はありませんね」
ありゃ、あの作品が書かれたのっていつだっけ。もっと後の時代だったかな。
「どういったお話なのでしょう?」
「んーと……」
湯呑みと割り箸を置いて、腕組みしながら考える。もっと身近な例の方がいいか。
俺は逡巡の末に、全く別の物語を説明する事にした。
「あくまで例え話なんだが」
俺とおさきは、どしゃ降りの山道を下りていた。見知らぬ土地、時刻は夕闇迫る黄昏時。
最悪の条件がこれでもかと揃っている中、二人の表情が曇るのも当然。
降りつける雨に灯りは役に立たず、帰路に急ぐ気持ちが足を早める。
「う――わっ!」
足元の感覚が、急に消えた。焦燥感は視界をより狭める。
おさきの手を引いていた俺は、二人もろとも落とし穴に滑り落ちてしまった。
「つっ……おさき、大丈夫か?」
体勢を立て直しながら、自身の体を点検する。打ち所が良かったのか、幸い尻が少し痛む程度で済んだようだ。
俺と同じく汚泥の中にひっくり返ったおさきに手を貸して体を起こしてやる。
「えぇ、私は――くっ!」
立ち上がりかけたおさきが片膝をつく。
「すみません、挫いてしまったようで」
「立てるか?」
「なんとか……」
足をさすっているおさきから、穴の出口へと視線を上げる。穴自体は深くなく、概算で俺の身長と同程度。
手は届くが、掴めそうなものが何もない。無理によじ登ろうとすると、雨でぬかるんだ縁ごと滑り落ちてしまうだろう。
脱出の助けになりそうな道具はなく、他に式姫の型紙も持っていない。
これは、相当マズイ状況なのではないか。冷たいモノが背筋を走った。
泥に塗れた体は一秒毎に体力を奪われ、雨水を吸った衣服は重さを増していく。
足を動かす度に、ぐちゅぐちゅと地面が嫌な音を立てた。
奥歯を噛みしめて必死に知恵を絞るが、脱出できるような名案が易々と浮かんでくる筈もなく――。
「オガミ様」
「ん?」
おさきが土壁に手をつき、尻を突き出している。
「私を踏み台にして下さい」
「踏み台ってお前、足が」
「他に方法はありません、さぁ早く」
「…………」
足を痛めたおさきに乗るのは心が痛んだが、今は他に足掛かりになるものはない。無事に帰ったら油揚げを腹が破れるまで食わせてやるか。
「すまん、乗るぞ。少しの間堪えてくれ」
雨で滑る体に四苦八苦しながらも、なんとか穴の外に転がり出る事が出来た。
次はおさきを引っ張り上げなくては。しかし、縄のような物は持っていない。
辺りを見渡しても、民家や倉庫のような建物はどこにもない。
麓まではまだまだ距離がある。そこまで往復している余裕はない。
道を外れて探しに行くか?いや、夕闇が迫っている今は却って危険だ。
むやみに歩き回っても、体力を浪費するだけ。
「おさき、大丈夫かー?」
雨音に負けないよう声を張り上げる。
主の呼び声に、おさきが顔を上げるのを見て、俺はぎょっとした。
首から下が無い。
いや違う、錯覚だ。泥と暗闇でよく見えないだけだ。
外から覗き見る穴の底は、無間地獄を思わせるような底無しの暗闇。
こんな状況だというのに、おさきはいつものように静かに笑っている。
「すまん、もう少しだけ――何?」
「……下さい」
「何だってー?」
二人の会話を遮らんとするように、雨足が強さを増していく。
「行って下さい」
今のは、空耳か。
「私に構わず、行って下さい」
今度ははっきりと聴こえた。
「馬鹿言うな、お前を置いていけるか!」
「私は、大丈夫ですから」
「ならさっさと上がって来い!」
「…………」
おさきが力なくうつむいた。
「すみません、私はもう……」
やめてくれ。俺を絶望に突き落とすようなそんな言葉は。
膝をついて拳を力任せに叩きつけたが、跳ねた泥水が顔にかかっただけだった。
おさき。おさき。
こんなところで、こんなにもあっけなくお前を諦めろというのか。
「うっ……ううっ……」
肩を震わせながら、嗚咽を漏らす。
ずぶ濡れになった全身は、岩のように動かない。
心は次第に絶望に染まり始め、頭は考える事を放棄していく。
おさきを助けるにしろ、山を下りるにしろ、膝をついて頭を垂れる事に何の意味もないというのに。
「行きなさいご主人様!」
おさきの声に、はっと顔を上げる。
雨と涙で視界がぼやけているのに、何故だろう。穴の中のおさきが怒っているように見えるのは。
どんな事があっても一度として声を荒げる事がなかった、そのおさきが俺を叱咤している。
「振り返らずに、進みなさい!」
「…………」
嫌だとは言えない。拒否できない。
魂の抜けた人形のような俺の脳髄に、おさきの言霊が反響する。
寒さで感覚が痺れ始めた体に、もう一度、骨の髄から活を入れる。この涙も、嗚咽の声も、諦める為ではなく立ち上がる為に。
息をしろ。拳を作れ。五臓六腑に精を込めろ。この身は雨にはくれてやれど、妖怪悪霊にはくれてやらぬ。
ふらふらと立ち上がる。
こんなに雨は激しいのに。
こんなに道は暗いのに。
こんなに体は疲れているのに。
こんなに心は冷たいのに。
おさきの言葉が灯火となり、見失った目的地を浮かび上がらせてくれた。
「というワケだ」
「なるほど……」
おさきは顎に手をやって納得したように頷いている。
「二人のうち、どちらか一人しか生き残れないような時は――」
「私が踏み台になればよろしいのですね?」
「あのなぁ……」
おさきを責めようとして、喉元まで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。
俺の例え方がまずかったか。
「まぁ、そりゃ、俺だって助かりたいけどさ……」
口の中でボソボソと呟く。俺は臆病で、卑怯で、どうしようもなく意地汚いから。
万が一そうなった時、おさきを踏み台にする事に何の躊躇もしないかもしれない。
それでも――。
「おさき、最初から踏み台になろうとすんな」
「?」
「それは単なる思考放棄だ。自分だけ生きる事をさっさと辞めて、俺に押し付けるんじゃあない」
俺の言葉に、おさきは何も言わずうつむいた。
自己犠牲とは、本来は脳を持たないロボットにのみ許される特権。
例え俺が絶望に思考を埋め尽くされても、お前までも考える事を放棄してしまってどうする。
そんなおさきは要らない。そんなおさきでいて欲しくない。
お前が俺を想うのならば、二人が助かる可能性を模索し続けてくれ。
例えそれが、地に埋まった一個の宝石を見つけ出すより難しくとも。
「小さい時から、父親によく言われたんだ。お前の頭は付いてるだけか、ってね」
刻限があろうとなかろうと、考える事を放棄した者の前に新しい扉は表れない。
扉を見つけだせるかどうか。その向こうに一歩踏み出せるかどうか。
その一歩こそ、境界線を越える為の力。時としてそれは、運命をも覆す。
「確かに、おさきに助けてもらいたい事は山ほどある。だけど、時々でいいから自分で考えて欲しいんだ」
本当にご主人様の為になる事は何だろう。私にしか出来ない事は何だろう。
何をすれば、あの人は喜んでくれるのだろう。
俯いていたおさきが、顔を上げる。
「……承知しました」
「別に自己犠牲の精神を捨てろと言ってるんじゃあないぞ。散々悩んだ挙句の行動なら、俺も納得するさ」
「では、早速ですがオガミ様」
「何だ」
「このすっかり冷めてしまったたこ焼きは、いかが致しましょう?」
「…………」
「…………」
話が弾んでしまっていて、すっかり忘れてたよ。
「じゃんけん――」
「ぽん!」
「くっ、俺の負けか」
石では紙に勝てぬ。それは決して覆す事の出来ない運命。
「お前らしいな、パーを出すとは」
「?」
「いやほら、パーって何かを掴もうとする時の手の形だろ?」
「ふふ、違いますよ。私はオガミ様がグーを出すと確信していました」
「何だって?」
おいおい、白峯さんみたいな事言うなよ。
「ほら、さっきの話ですよ」
『息をしろ。拳を作れ。五臓六腑に精を込めろ』
……あぁ、そういえばそんな事を言った気がする。
無意識のうちに、俺は自分でグーを出す準備をしていたという事か。
早速知恵を働かせてくるとは。全く、恐ろしい程素直な奴よ。
俺は苦笑しながら、おさきがたこ焼きを頬張る姿を眺めていた。
「ご馳走さまでした。お皿は私が片付けておきますね」
「おう、すまんな」
「――オガミ様、ご存知ですか?」
部屋を出ようとしたおさきが、こちらを振り返らずに問いかける。
「何だ?」
「ハスは、泥の中にあっても綺麗な花を咲かせるのだそうです」
あぁ、勿論知っているとも。
ハスは泥より出でて泥に染まらず。
だが、汚れやすいなりをしているくせに簡単には染まってくれないおさきをどうにかするのもまた一興。
俺色に染める、というといかにも下衆な印象があるが。まぁ俺の許へ喚ばれた時点で運が悪かったと思ってくれ。
ハスと言えば、あれだ。一蓮托生という言葉もある。
その意味は、運命を共にしましょうという固い決意。
また、死んだ後も二人して同じ蓮の花の上に生まれ変わりたいという願いでもある。
「そうだな、二人仲良く泥に呑まれてお陀仏なんてのは御免だが……」
そこまでの強い絆は、俺にはまだ結べない。例え相手が、縛られる事を好む式姫であっても。
「たこ焼きを一緒に食べる程度なら、これからも付き合ってやるよ」
「ふふっ、ありがとうございます」
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