葛の葉との絆語り -甘- |
「ねぇオガミ、私と一緒に甘味処に行かない?」
朝食を終えて自室で一服していた所に葛の葉がやってきたのを見て、俺は自分の目と耳を疑った。
まず、目は大丈夫か確認する。目の前にいるのは紛れもなく葛の葉。おさきでも飯綱でもない、うん。
滅多に触らせてもらえない九本の白い尻尾は、いつにも増して輝きを放っているように見える。
まるで出かける事を先読みして、丹念に手入れしてきたかのよう。
呆気にとられて口をぽかんと開けている俺の間抜け面とは対照的に、その表情は落ち着いていた。
怒っているわけでも嬉しそうなわけでもない。
では耳がイカれているのか。既に若者とは言い難い年を迎えている俺だが、かといって難聴を患う程のジジイでもない。
今日の天気の話でもするかのようなごく自然な口調と声色だったと脳は判断している。
「あー、何だって?」
猜疑心を露わにして、葛の葉に再度供述を促す。
「わ・た・し・と・一緒に甘味処に行きましょ」
ワタシト イッショニ アマミドコロニ イキマショ。
ようし、今度はちゃんと聞き取れたぞう。やはり耳は正常らしい。つまり狂っているのは、この狐の方。
「…………」
「…………」
「あー……あー……」
「何よ、嫌なの?」
「あー……」
「あらあら、壊れたのかしら?」
「あー!……はぁ。全く、いきなり人の部屋に入ってきて変な事を言うんじゃあない」
葛の葉が部屋を訪ねてくるというだけでもまずあり得ない事なのに、さらにとんでもない事をさらりと言い出すんだから。
青天の霹靂とはまさにこの事か。雨が降らないか心配だ。
いや、今心配すべきなのは雨ではなく雷。目の前の式姫が雷を落とさないか、十二分に警戒すべき。
至極真っ当な俺の反論に対し、葛の葉はわずかに眉をひそめた。
よしよし大丈夫、まだ雷が落ちるような雲行きではない。
む。今、行きましょと言わなかったか。
どういうことなの、半分どころか八割は決定事項なの?こっちの返事はどうでもいいってか。
つまり、この問いかけはもはや完全に余興。俺が断るはずがないという、ただそれだけの一点読み。
あえて断ってみるのもまた一興ではあるが……俺はため息を一つつき、大げさな身振りを交えて答えた。
「では僭越ながら、お相手務めさせて頂きましょう。葛の葉殿」
「ふふっ、ありがとう。じゃあ、部屋の外で待ってるわね」
全く意図の読めない彼女の提案。ある意味、狂気の沙汰と言ってもおかしくない。
どこぞの小説家気取りが、面白半分で書き殴った理解不能の脚本のよう。
しかし、恐らくこんな機会は二度とあるまい。なればこそ、今は流れに沿うべし。
手早く支度を済ませて、葛の葉と共に玄関へ向かう。
「あら、お出かけですか?」
廊下で狗賓と遭遇した。
「あぁ、えっと――」
「ちょっとご主人様借りていくわね」
「え?えぇ……お気を付けて」
どう説明しようか迷っている間に、さも当然のように借りていく宣言。
俺は武器でも道具でもペットでもないというのに……。立ち尽くす狗賓に軽く頭を下げ、一人先を行く葛の葉の後を小走りに追った。
玄関を出た所で、今度は古椿に見つかってしまった。
「おやおや?二人してお出かけでありますかー」
「お、おう」
「葛の葉殿、やけに嬉しそうでありますな」
「そうかしら?私は普段通りよ」
澄まし顔で答えているが、声色に嬉しさが滲んでいるのを隠しきれていない。
俺も少しだけワクワクしているのだが、古椿に悟られまいと必死に無表情を装っていた。
「オガミ殿、古椿も連れていって欲しいでありますー」
「え?いや、それは……」
『海嘯』
ざっばーん!
「ぎゃー!冷たいでありまーす!」
返答に窮していると、古椿は突如噴き出した濁流に飲み込まれ向こう側へと押し流されていった。
「全く、水差すんじゃないわよ。さ、ご主人様、行きましょうか」
「うん……」
すまんな、古椿よ。
葛の葉と二人、並んで歩く。
一見ごく普通の文章のようだが、二人を良く知る者からすればかなり奇妙な光景であろう。
武器の修繕や、ちょっとした装飾品などの小物を買いに行く時など、共に出歩く事は何度かあったが
基本的に俺は後ろを付いていくだけである。特に何か言われたわけではないが、ごく自然に俺はそうしていた。
「〜♪〜♪」
すぐ傍で、葛の葉の鼻歌が聞こえる。
流石にここまで来れば、式姫と出会う事はまずない。それ故か、もはや嬉しさを隠そうともしていない。
変なモノでも食べたのか、それとも陽の高いうちから酔っているのか。
しかし普段から彼女の素行を観察している俺は、そのどちらでもない事を確信していた。
「…………」
ここで問い質すのも無粋か。せっかくの彼女の上機嫌を損ねるのは惜しい。
古椿がお手本を見せてくれたので、水を差さず黙って葛の葉に歩幅を合わせる事に専念した。
晴れ渡った午前の晴天とは対照的に、俺の内心は穏やかでなかった。すれ違う人々の視線が全て突きささってくるような錯覚を覚える。
「あのー、葛の葉さん」
「何?」
「腕、やっぱ離してもらえません……?」
「離してと言われて、私がはいそうですかって言うと思う?」
「ですよねー……あはは……」
「心配しなくても、もぎ取ったりしないわよ♪」
相変わらずの口ぶりだが、そこには普段の威圧は微塵も含まれていない。
楽しくて仕方ないようだ。それも、加虐とは正反対の意味で。
いやまぁこちらも嬉しい事は嬉しいのだが、こんなに人目がある所で恋人のように腕にしがみつかれたまま往来を闊歩する度胸はない。
まだ幼い式姫が相手なら、保護者面を保てるんだけどな。
くわえて、葛の葉から漂ってくる良い香りに思わずドキドキしてしまっている。恥ずかしいやら嬉しいやら。
これをデートと言わずに何という。相手が葛の葉だろうと、好意的に接してくれて悪い気はしない。
頭上の太陽ですら、祝福してくれているようだ。どうか最後まで崩れないでくれよ。
心中のモヤモヤが晴れないまま、甘味処へと到着する。店内は混んでいたが、さほど待つ事もなく席へ案内された。
ここまでトントン拍子に進むと、却って後が怖いような気がするが……。
「久しぶりねぇ、このお店も」
「そうですね」
そう、この前は俺と飯綱の二人で来た所に偶然葛の葉と出くわして……割と気まずい雰囲気だった。
お互いにあまり楽しくない思い出だったので、それ以上何も言わずにさっさと席に座る。
「あのー、葛の葉さん」
「何?」
「何で俺の隣に座るんですか。そっち空いて――」
葛の葉が、目で訴えている。私がはいそうですかと言うと思う?
あーハイハイ、分かりましたよ。そんなに俺とイチャイチャしたいなら、もう何も言いません。
疑念はとりあえず放り出して、今は楽しもう。切り替えも大事だ、うん。
お品書きに目を通したが、興味を惹くような新メニューは増えていない。
特に言葉を交わす事もなく、オーダーを伺いにきた女中さんにみたらし団子とパフェを頼んだ。
「この前と同じっすね」
「そうね。でも、今日は二人っきりよ」
二人っきり、という言葉に心臓が少し高鳴る。
「そ、そうですね――わっ!」
もふもふの尻尾が数本、シュルシュルと体に巻き付いてくる。ぐい、とそのまま葛の葉に引っ張られた。
「もっと近付きましょ」
「!?」
「うふふ♪気持ちいいでしょう?」
抵抗しようとすると、今度は俺の腕が尻尾に絡め取られる。まるで甘えてくるかのようにすりすり、すりすりと。
ぐっ、これは振り解けない。いや違う、振り解きたくない。
極上のもふもふ尻尾の感触に、俺の反抗心はあっさり白旗を掲げる。
「ちょっ、こんな所でマズイですって」
小声でわずかばかりに残った抵抗の意思を示したが、勿論そんな虚勢が彼女に通じるハズもなく。
「そんな気持ちよさそうな顔で言われても、説得力ないわよ。ほらほら、存分に味わいなさい」
すりすり、すりすり。さわさわ、さわさわ。
なんてこった、これではせっかく甘味処に来たのに食べる前からお腹一杯になってしまうではないか。
注文の品が運ばれてくるまで、俺は数多の尻尾が織りなす甘い快楽にすっかり蕩けてしまっていた。
「はい、ご主人様、あーん」
「あ、あーん……」
で、こうなってしまうと。
「美味しい?」
「はい」
「私が手ずから食べさせてあげてるんだもの、当然よね♪」
ええい、こうなったら開き直ろう。店内のあちこちから向けられる視線に対抗するにはそれしかない。
「じゃあ、俺の団子もどうぞ。あーん……」
「あー……んっ。ふふっ、美味しー♪」
「あはは、口元にタレ付いてますよ」
「あら?」
「拭いてあげますから、じっとしてて下さい」
おしぼりを手に、目を閉じて顔を少し突き出している葛の葉の口元へ。
「…………」
ドクンドクンと心臓が暴れ出す。う、いかんいかん、つい妙な気を起こしそうになる。
だけど、こんな日々が続くのならいつかはその唇に触れる事も――叶うのだろうか。
ごしごし。
「はい、取れました」
「ありがとう、私の優しいご主人様」
「嫌だなー、やめて下さいよー」
私の優しいご主人様、私の優しいご主人様、私の優しいご主人様――。
やば、今のは結構心臓にグサッと来た。他の式姫ならともかく、葛の葉にこんな事を言われたら勝手に頬が緩んでしまう。
「はい、もう一口どうぞ。あーん」
「あーん……」
結局、俺達は甘味が皿の上から消えるまで延々とイチャイチャし続けたのであった。
甘味処を後にし、帰路に付く。
勿論行きと同じく、葛の葉は俺の腕に手を絡めてきている。
ここまでは、上手く事を運ぶ事ができた。後は帰るだけなのだが、その前に厄介事が一つ残っている。
帰り道、どこかで問いたださなければならない。彼女の真意を。
場合によっては十分すぎる程楽しかった今までの思い出が木っ端微塵に吹き飛ぶかもしれない。
それを思うと、少し心が痛んだ。隣を歩く葛の葉は、恋に浮かれる乙女のような顔をしていたから。
幸い、今はこの二人に水を差してくるような無粋な奴は周りにいない。
屋敷が近付く前に、切りださなければ。
うーむ、どう言えばいいのかな。
何でこんな事をした?いやあまりにもぶっきらぼうすぎる。
一体何を企んでいる?ダメだ、確実に雰囲気ぶち壊しだ。
何が狙いだ?それはね、ご主人様の命よ、ブスリ。ンギャアアァ!おのれ葛の葉ァ!
……いい文句が浮かんでこない。何か、何かきっかけがあれば。
が、そうそううまくきっかけが掴めるわけでもなく。
頭の中で切りだせ切りだせと連呼している癖に、優柔不断の四文字が喉元と心を締め付けていた。
「ご主人様、ちょっとストップ」
「あ、あぁ」
街から離れ、少し往来の人通りが減った橋の上で向こうから切りだしてきた。
するりと腕を解いた葛の葉と向かい合う。
「オガミ」
「何だ、改まって」
「屋敷に着く前に、どうしても言わなければならない事があるの」
「あぁちょうど良かった。実は俺も聞きたい事があるんだ」
「…………」
「…………」
「お先にどうぞ?」
「あ、あぁ。――――コホン、葛の葉さん」
さっきまでのこんがらがった思考は、全て捨て去る。
口から零れてくるのは、今一番葛の葉に聞きたいコト。
「いや、葛の葉。お前は」
ドクン。
「俺の、事が」
ドクンドクン。
「好き、なの、か?」
「…………」
葛の葉は目を見開いてキョトンとしたが、そのままゆっくりと微笑んだ。
「私は――――」
ぽつり。
「あ……」
ぽつり、ぽつり。青空から、無粋な雨が降ってきた。
狐の嫁入りか。まさか天から水を差されるとは……。
「うわ、結構降ってきたな。屋敷まで走ろうか」
「そうね、急ぎましょ」
屋敷に着くまで雨に振られても、何故かそんなに寒い感じはしなかった。
次の日の朝。
朝食を終えた俺は、その足で葛の葉の部屋へと訪れた。
「葛の葉、いるかー?」
返事を待たずに襖を開くと、部屋の中央で毛繕いをしていた葛の葉が顔を上げる。
「何?」
昨日とはうってかわって、あからさまに不機嫌な様相。俺は一瞬たじろいだが、笑顔を取り繕って部屋に一歩入った。
「いやー、昨日は楽しかったなぁ」
「は?」
葛の葉が眉をひそめて怪訝な表情でこちらを見ている。
む、部屋を訪れる時期を誤ったか。しかし今更すみませんなんて出て行くわけにもいかない。
「いや、昨日は、だから、その……ほら、橋の上でさ。返事、まだ聞いてなかったから」
しどろもどろに説明している間に、その表情は険しさを増して行く。
「さっきから何言ってるのよ」
バッサリと切り捨てられた。あるぇー?
そこにいるのは恋に浮かれる葛の葉ではなく、凶悪な顔をした白い狐の式姫。
「いや……だから……」
「大方、狐にでも化かされたんじゃないの?」
「えっ…………あっ、あー!……あああぁぁ……」
そうか、そういう事か。昨日、俺がデートしていた相手は葛の葉ではなく――かぶきりひめ。
俺の引きつった笑顔は一瞬で悲愴の表情に変わり、その場にがっくりと膝から崩れ落ちた。なんて酷い現実……。
昨日の九死に一生――じゃなかった、千載一遇、値千金の素晴らしい思い出にピシリと亀裂が走る。
四つん這いで項垂れていると、葛の葉は櫛を置いて立ち上がり、部屋の隅に置かれていた槍を手に。
「あと五秒で出て行ってくれないなら、その尻の穴を二つにするわよ」
「えっ、ちょ待っ」
「いーち、にーい」
「す、すいませんでしたああああ!」
それ以上の会話も落ち込む事も許されず、俺は慌てて葛の葉の部屋を飛びだした。
「……はぁ、全く。かぶきりひめと私の区別も付かないのかしら」
まだまだ甘いわね、嘘を見抜けないようでは。部屋に残った私は、櫛を手に一人毛繕いを再開する。
それにしても、さっきのご主人様の顔ったら。ふふっ。
『大方、狐にでも化かされたんじゃないの?』
『えっ…………あー!……あああぁぁ……』
言葉は必要ない。あの瞬間の情けない顔が、私に抱いている気持ちを雄弁に語ってくれた。
まだあんな顔を見せてくれるのなら、私もそれに応えてあげないとね。
もちろん、私も大好きよ。
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