思兼との絆語り |
たん!
小気味いい音が、弓道場に響く。縁台に腰かけ、ぼんやりとその様を眺めている俺。
今の一射で手持ちの矢が切れたので、射手がすたすたとこちらに歩いてきた。
「ふう、中々難しいものですね」
「お疲れ様です」
俺は少し体勢をずらし、隣に思兼が座る。
厳しい顔つきで射に臨んでいた神様の表情は、既に普段の柔和なものに変わっていた。
壁に設置された霞的には、既に十五もの矢がびっしりと突きささっている。
にもかかわらず、思兼の呼吸には些かも乱れたところがない。
弓道に詳しくない俺でも、相当の集中力が要される事くらいは分かる。
難しいと言いつつ汗の一つもかかずにやってのける彼女は、別格だと言わざるを得ない。
本来なら惜しみない拍手でも送りたい所だが、弓道場でのそれはマナー違反と思い
代わりにお茶を注いだ湯呑みを思兼に渡した。
「ありがとうございます」
基本的に式姫の修行に付き合う事などない俺だが、朝から一人鍛錬に励む彼女を放っておくのも……。
というわけで、今日はお茶を用意して後ろから見守っていたというワケだ。
「毎日、こんな事を?」
「毎日ではありませんが、日々の鍛錬は心がけています。継続は力なり、と言いますし」
涼しい顔で思兼がさらりと答える。
ふむ、少し意外だな。眼鏡をかけ知的な雰囲気を漂わせる彼女が、体を動かす事に励むとは。
神様故に努力などしないものと思いこんでいたが……。
「ふふ、意外ですか?」
「えっ?あっ、えー……」
そうそう、忘れていた。彼女は心を読む事が出来るのだ。
「オガミさんも、もっと汗をかいてもいいと思いますが」
「だはは……汗はたまにかく位がちょうどいいんですよ。なんせ、努力が嫌いなモンでして」
「そうですか。弓なら、いつでも私が教えてあげますよ」
情けない主の発言に対して、怒る事も呆れる事もない。
心を読まれるのは気まずいが、この寛大な神様は嫌いではなかった。
しかし、あの的は……。
「痛々しいですか?」
「えぇ、まぁ。あれが妖ならともかく、なんか気の毒というか」
滅多に見ない光景ですし。
けれど、これからも思兼が鍛錬に励む日々を送るのならいずれ慣れるだろう。
「ところで、オガミさん。一つお願いがあるのですが」
「何でしょうか?」
「使われなくなった古い衝立はありませんか?」
ついたて?衝立というと、確か室内で飾る折り目のついたギザギザ横長の――。
「それは屏風です」
「えっ、あー……すみません、どんなヤツでしたっけ?」
咄嗟に出てこない。
「ほら、ずっしりと重くて一枚絵の描かれたアレですよ」
「あぁーハイハイハイハイ!アレですね」
思兼の説明で要領を得た俺は、ぽんと手を叩いた。確か、倉庫の奥にしまってあったような。
「んーと確か、虎の絵が描かれていたヤツがあったと思います」
「それで構いませんよ」
「衝立から追い出して、縄で縛りあげるんですか?」
「違いますよ。ですが、殿様よろしく付き合っていただけると嬉しいです」
ふーむ。
はてさて、どんなとんちを披露してくれるのか。
「それじゃ、今から――」
「あぁ別に急ぐものではないですよ。明日の朝までに、そこに立てかけておいてくれれば」
「そこ?」
思兼の指先には、痛々しい霞的が。衝立を的にするのだろうか。
「分かりました、用意しておきます」
そのまましばらく二人でお茶を啜る。
凛とした空気が充満している、やや肌寒さを感じる弓道場では温かいお茶が実に美味い。
母屋とは離れている為、他の式姫達の喧騒も聞こえない。修練にはぴったりの場所ではあるが、使われる事は滅多になかった。
思兼の使わせて下さいという申し出がなかったら、誰も足を踏み入れない化石道場になっていたかもしれない。
飲み干した湯呑みを置いて、俺は声をかけた。
「思兼さん、一つ教えて欲しい事があるんですが」
「どうぞ、何でも聞いて下さい」
万物を知る彼女に、答えられないモノはないと思うが――。
「思兼さんのスリーサイズを」
「…………」
柔和な笑みを浮かべていた思兼の頬が、ぴくりと引きつった。
無論、失言など承知の上。本気で知りたいワケではない。
反応が見たかったのだ。小学生が好きな子にワザと意地悪をする、あの心理。
普通、こんな事を言われれば思兼といえど――。
「それは、お答えできませんね」
あっさりと返事が返ってきた。予想外の反応に少々面食らった俺は、彼女の顔を見つめる。
額に青筋が浮かんでいるわけでも、眉をひそめているわけでもない。
「お答えできない、とは?」
思兼の反応に懲りず、追撃を仕掛ける。
「オガミさんの見ている私と、私の口から語られる私は一致しない、という事です」
どういう意味だろうか。
「数字は簡単には変わるものではありませんが、私や貴方は違います。こうしてお話している最中にも、常に変化し続けていますから」
「はぁ……」
なんとなく言い訳に聞こえるが。
「言い訳ではありません。仮に私の口から発せられた言葉を、オガミさんはどうやって信じますか?」
話題がややこしい方向に逸れてきた。
確かに言われた通り、彼女が嘘をつかないという保証はどこにもない。
知っているのは、思兼本人だけ。それが真実か嘘か判別する事はできない。
思兼さんが嘘をつくはずがない。
そんな前提条件に自らヒビを入れるなんて……。
「もしも真実が知りたいのなら」
思兼の言葉に、俺は顔を上げる。
「ここで私を脱がせてみますか?」
「……すみませんでした」
冗談でもハイなんて言える空気ではない。深々と頭を下げて詫びた。
軽い気持ちで聞くんじゃなかったな。
「中てたいという気持ちは、強すぎると射崩れを起こします。くれぐれも、忘れないように」
思兼と顔を合わせ辛いので、意気消沈した俺は剣山と見紛う大量の矢が刺さった霞的を見つめた。
柔和な雰囲気、寛大な心を持っているが、その見た目からは全く想像できない程に弓の腕は超一流。
凄まじい剛力を持っているわけでもないのに、的確に図星に中ててくる。
俺の心も、あの的と同じだな。
目に見えない言葉という矢が、目に見えない心を射貫く。
あぁ、やはりこの式姫は――別格だ。
そして翌日。同じ時刻、同じ場所。
ただ一つ違うのは、的の代わりに置かれている古びた衝立。
式姫に手伝ってもらって運び込まれたそれは、約30メートル離れたここからでは虎の絵と認識できない。
あちこちにかすれや汚れが点在し、芸術品としての価値は薄い。ただ、的としての機能は十分だ。
二人して縁台に座り、しばらくして思兼が切り出す。
「困難に当たった時、人はその本質を晒け出すと言います。オガミさんはどうですか?」
「そうですねぇ……俺はまず、回り道や抜け道を探します」
「壁をよじ登ろうという気概は持っていない、と?」
「なんせ、努力が嫌いなものでして」
自分で言うのもあれだが、典型的なダメ人間の言い訳。
「まぁ、当然でしょうね。壁は越えられませんから」
何か納得したように一人呟き、席を立った思兼から杖を預かる。いよいよ射に挑むようだ。
当たり前だが、衝立は昨日の霞的と比べても倍以上の大きさがある。思兼なら、目を瞑ってでも中てる事が出来るだろう。
これをわざわざ的にする事に、一体どんな意味がある。
さぁ見せてくれ、一休さん。
壱――足踏み
姿勢と呼吸を整え。
弐――銅造り
気構えは、地に根を下ろす大樹のように。
参――弓構え
その慧眼に、今は何を見据えているのか。
肆――打起し
森羅万象、天と地を一体に。
伍――引分け
唸り声に、呼吸も心も乱す事なく。
陸――会
引き絞られた右手に、力を。
力を。
ちからを。
ドオオォォン!!
虎にも劣らぬ咆哮が辺り一面に響き渡った。砂塵が噴煙と共にもうもうと舞い上がる。
度肝を射抜かれた俺は、息をするのも忘れてその様を眺めていた。
「大丈夫ですか?」
思兼にぽんと肩を叩かれ、俺はようやく人形から人間へと戻った。
「あぁ、はい……大丈夫です」
あまりの迫力に、それ以上の言葉が出ない。
昨日凄まじい剛力は持っていないと読んだが、それを軽々と覆す程の弓力。この細腕のどこに、あんな力が秘められているのか。
「いえいえ、今のはほんの余興のつもりですよ」
「え?」
「今はまだ、本当の力はお見せできません」
この神様は一体、あといくつ俺の常識をぶち抜けば気が済むのだろう。
「数多の知恵を授ける私でも、壁を越える術を教える事はできません」
射が終わり、空気が弛緩した所で唐突に講釈が再開された。隣に腰掛ける彼女には、やはり乱れた所はない。
威風堂々、ここまで凛とされてはもはや格好良いという憧れさえ湧いてくる。
「壁を越える事はできない」
「そう。そもそも、侵入を防ぐためのものですから」
ふふっ、と思兼が微笑む。
「乗り越えるべきは、壁ではなく坂です」
「さか」
「長く険しい坂でも、諦めなければ越えられますから」
壁ではなく、坂か。そういえば、坂なんて表現殆ど使った事がない。
坂と言い換えれば、確かになんとかなる気がする。
それになにより、この人の言葉は――思兼の言葉は、心中に刻んでおきたい。
「ありがとうございます、思兼さん」
「私は何もしてませんよ」
砂塵が静まったので衝立の方を見やったが、遠目には特に妙な所はないように見える。
結局何の為にこれを用意させたのか、まだ聞いていない。
「あの――」
「百聞は一見に如かず。ご自分の目でご覧になって下さい」
「……ちょっと見てきます!」
思兼に杖を渡し、小走りに衝立へ向かう。
「あれ?」
近付くにつれて、俺は目の前の光景に妙な違和感を感じた。
さっきも言った通り霞的の直径は約30センチメートル、衝立はその倍以上の大きさがある。
射損じるとは思えないが、ならば何故――矢がどこにも無いのだ。
討伐においては矢も形代から生じる為に、獲物に刺さった直後にそれは霧散する。
が、今彼女が放ったものは違う。実体を持っているそれが消えてしまうわけがない。
衝立を念入りに調べる。描かれている虎は薄汚れた姿のまま、沈黙を守っていた。
木枠にもどこにも、その痕跡は見られない。
いや、あった。黒い汚れだと見逃していた、虎の額。
そっと指先で触れてみると、確かに貫かれた後がある。
「まさか……」
衝立の背後を覗くと、そこには目を疑いたくなるような光景が。
安土に矢羽根までめり込んでいる一本の矢。これが全てを物語っている。
通常の的とは比べ物にならない分厚さを誇る、衝立をぶち抜くなんて。
「…………」
『衝立を射貫く事は出来なくとも』
壁を越える事ができないのと同じ理屈。
『虎は射貫く事が出来るでしょう』
虎と信じて放たれた矢は、衝立をも貫く。
射に臨んだ一休さんは、あろうことかこれを絵に描かれた虎と認識していないばかりか衝立とも思っていない。
本物の虎と捉えていたのだ。
背筋がぞくりと震えた。これが本物の虎である筈がない。
それともなにか、俺と思兼が見ているモノは違うとでもいうのか。
『百聞は一見に如かず』
あまり知られていないが、この言葉には続きがある。
『百見は一考に如かず』
……思兼だけじゃない。
もしかして俺は、式姫達とは全く違うモノを見ているのか?
常識という名の土台が、俺を支えてきたものが、思兼の手で次々に壊されていく。
ぐらり、ぐらりと。
馬鹿げている。そんな事があってたまるか。こっちは目に見える物を信じて生きているというのに。
同じ世界に生きていながら、同じ景色を共有出来ないなんて――――残酷だ。
膨れだした疑惑は、ずぶずぶと厭な音を発しながら精神を蝕んでいく。
ずぶずぶと、ずぶずぶと。やめてくれ。待ってくれ。
さっきまで乗っていた舟が、盤石であるはずの土台が、ゆっくりと沈んでいく。
待って、俺は狸じゃない。狸じゃないんだよ。
愚かなタヌキは泥の舟を選び、賢いウサギは木の舟を選んだ。
その結末は…………。
助けてくれウサギさん、このままでは沈んでしまう。
俺はふらついた足取りで、賢いウサギの元へ戻った。
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