夜摩天料理始末 34 |
ざわり……と。
廷内の空気が不穏に揺らいだ。
料理を喰え。
こんな当たり前の言葉が、本来醸し出す空気では無い。
「何の冗談だ?」
いぶかしげな男に、事情を心得ている側の、優越感に満ちた笑いが、都市王の顔を彩る。
「生憎冗談では無いのだよ」
「そうかい……なら、俺は食う、約束は守って貰うぞ、冥王様よ」
「良かろう、冥王の名において、確と約定した」
くっくと笑いながら、都市王は一人呟いた。
現実という奴は、時に冗談より性質が悪い。
「それで、彼は食べる気のようだが、そちらは如何かな、元夜摩天殿」
「……お断りです」
その声に、男は思わず、彼女の方に顔を向けた。
冷静で冷徹だが、どこかに温かみを感じさせていた声が、今は壊れる寸前の器のような、軋みを宿していた。
その表情も……。
何故だろう。
まるで、そう。
泣き出す寸前の、女の子みたいな。
何故だと、聞くのが躊躇われる……そんな顔。
「どうした、そこの生意気な人間に自慢の料理を振舞ってやれ、元夜摩天殿よ」
扉の前で、宋帝が下卑た笑いを浮かべる。
「……何てことさせんのよ、あの悪趣味な下衆野郎ども」
閻魔が低く唸る。
「これは冥王の判決だ」
「お断りです」
夜摩天が、同じ言葉を繰り返す。
「ほう、断るか……ならば、なぁ宋帝、いや現閻魔殿」
「仕方ないな、この扉、開け放ってくれようかよ」
「何故そうなるのです!」
二人の言い種に、それまでは何とか冷静さを保っていた夜摩天の声が高く上ずった。
「我が判決に従わぬというなら、そうしても良いのだよ、さて、自身の劣等感から、この世界を危険に晒すのかね?」
いや、そんな奴が夜摩天であったなど、冥府の恥だなぁ。
「貴方という人は……」
夜摩天の握りしめた右手から、血が一筋滴った。
強く握った拳が震える。
その拳が、そっと包まれた。
「閻魔?」
「夜摩天、落ち着いて」
「……でも!」
夜摩天の手から滴る血が、閻魔の手にも暖かい感触となって伝っていく。
出来れば、させたくはない。
けど。
「……料理を作りなさい」
「閻魔!」
彼女が振るう包丁は、恐らく彼女の心を切り刻む刃となってしまうだろう。
だが、このままでは……。
「判ってる筈よね、他に選択肢は無いのよ」
「でも……でも、閻魔、貴女は知ってるでしょ、私の料理は!」
知ってるわ、良く知ってる。
「……それでも、よ」
「……っ!」
「可能性を繋いで」
そう言いながら、閻魔は都市王に顔を向けた。
「彼に事情の一つ位は説明してやっても良いんじゃないかしらね?」
「構いませんよ、せいぜい甘い言葉に包んで、上手に説明してやる事です」
尤も、いかなる言葉も、現物を目にした時に崩れるだろうが。
そう笑いながら、その椅子にふんぞり返ろうとした都市王の背中が、直ぐに硬い感触に触れて、彼は顔をしかめた。
……何と言う座り心地の悪い椅子だ。
常に背筋を伸ばしていないと、座っても居られない椅子。
これが、冥王の椅子なのか。
だが、彼は何も言わずに、階の下に目を向けた。
「……どういう事なんだ?」
「平たく言うとね、彼女の料理は一種の毒みたいな物なのよ」
彼女は料理が趣味だった。
几帳面で、真面目な彼女の作る物は、面白味がある物では無かったが、彼女が母親から受け継いだ味を、そのまま常にきっちりと再現する、美味な物であった。
いかに忙しくなろうとも、戦陣に在る時ですら、彼女は料理を作り、自身だけでなく、周囲にもその料理を振舞っていた。
戦陣の辛さを、一時慰めてくれる……。
そんな、食材も少ない中で、何とかやりくりして彼女が作ってくれた、一椀の味噌汁。
「……美味しかったのよ、本当に」
俯く夜摩天の傍らで、閻魔は、どこか平板に言葉を続けた。
だが、そう……。
彼女が夜摩天の位を得て、暫く経った後であったか。
彼女の料理を食べた鬼達が、皆、原因不明の腹痛に侵された。
その時は、まだ、大したことも無く終わった。
だが、それは始まりに過ぎなかった。
原因は判らない。
判らないが、彼女が作る料理は、日増しにその裡に秘める毒の量を増やしていった。
不幸中の幸いと言うには、余りに皮肉だったが……その外見もまた、その内在する毒の量が反映されたような、酷く、禍々しい物に変わってくれた事で、それ以上誰かが彼女の料理に中る事は無かった。
刻みいれた青菜が、禍々しい緑色と変じてその裡に毒を宿す。
綺麗に切ったはずの豆腐が、何故か目玉に変わる。
澄んだ出汁に溶かされた合わせ味噌の汁が、ドロドロとした、時にぼこりと瘴気を吹きあげる粘液となる。
綺麗に切られた大根の千六本が、暗赤色の蚯蚓のようなものに変じ、その粘液の中を泳ぎ回る。
最早、間違っても人に振舞える物では無い。
原因を追究したい所ではあったが、彼女の多忙がそれを許さなかった。
それでも、夜摩天は暇が有ったら料理を作り続けた。
その技を忘れない為に。
何より、原因不明で起きた現象なら、逆に、ある日突然治ってくれるかもしれない、そんな微かな希望に縋って。
彼女は、作っては捨てる……そんな行為を、人知れず続けていた。
そんなある日、悲劇は起きた。
血気盛んな鬼の若者が、夜摩天の、その料理の話を聞きつけた。
そんなわけが有るか、不味い料理の話に尾ひれが付いたんだろ?いや、先輩が食って食あたりしたらしい。痛んでただけじゃねぇのか?いやいや、そもそも外見からして毒っぽいらしい……。
酒の席で色々な噂が飛び交い……蛮勇を無駄に誇る年齢の彼ららしい結論でその話は終わった。
食べてみようぜ。
多忙な夜摩天は、当然休日に呼び出される事も多い。
その時、彼女の日常の世話をしていた女性が、付き合いのあった若者の求めに応じて、夜摩天の料理を持ち出した。
彼らは無事では済まなかった。
命を落とさなかったのは不幸中の幸いであったが、何とか吐き出せたおかげか、半年ほどの療養生活で彼らは本復し、それぞれの生活に帰って行った。
無論の事だが、この件に関して、夜摩天の責任は欠片も無いし、問題にすらならなかった。
彼女は窃盗の被害者でしかなく、当然、彼女の夜摩天としての経歴や名声には何ら傷は付かなかった。
だが、その料理が毒その物である事が衆目に知れ渡った事で、彼女の心には、癒える事ない深い傷を残した。
「それ以来、彼女は、あれほど好きだった料理を一切やらなくなったのよ」
俯く夜摩天をちらりと見て、閻魔は話を終えた。
「……そういう事か」
下衆野郎が。
男が低く唸る。
夜摩天の心の傷を抉り回し、かつ、男を始末する……悪趣味極まる、陰湿な思い付きだ。
「そもそも、作った料理が意図せずに毒に変じる時点で、妖怪変化に近い代物とは思いませんか?そんな女が夜摩天などと」
片腹痛い。
そう言い放って、都市王と宋帝は暫し低い笑いを廷内に響かせた。
閻魔の話、周囲の沈黙と重苦しい空気を見ると、この話に誇張が無い事は男にも判る。
暫しの時を置いて。
空気と、男の心に、投げ込んだ言葉の毒が存分に回った頃合いを見て。
都市王は悠然と口を開いた。
「それで、どうします?」
「俺は食う」
「ほう、言って置きますが、口に居れるだけでは駄目です。咀嚼し、飲み下すんですよ?」
「食うってのはそういう事じゃねぇのか?三歳児のままごと遊びじゃあるまいし」
「ふふ、何処まで吼えられるか」
面白がるような都市王を無視して、男は夜摩天の方を向いた。
「……事情は聴いた、辛いとは思う」
「……ええ」
「その上で頼む、俺に味噌汁を作ってくれ」
真っ直ぐな言葉……だが、今の夜摩天にそれを受け止められるだけの余裕は無かった。
顔を背け、声を絞り出す。
「……嫌です」
もう嫌だ……あんな思いをするのは、一度で沢山ではないか。
「頼む」
男の言葉に、夜摩天は顔を上げた。
唇を噛んで。
今にも溢れそうな瞳を上げて。
「苦しみますよ」
「ああ」
「口に入れ、飲み下そうとしただけで、鬼が悶絶したんですよ」
「うん」
「地獄の苦しみというのは、魂が耐えられるギリギリの責め苦なのです……でも、私の料理を飲み下せば、おそらく待っているのは耐えきれぬ痛苦の果ての魂の消失です」
「……承知の上だ」
ふぅ、と一息ついて、夜摩天は黄龍を封じた鉄扉を指差した。
「逆に、あの扉が開かれた場合、地上に戻ろうとする龍王の魂とその力が溢れだします」
「ふむ」
「その余波の前では、私たちは兎も角、人の魂ではひとたまりもありません……逆に言えば、苦しまずに消滅できます」
「……そうか」
「それでも……?」
それでも貴方は、地獄の責め苦以上の苦しみを味わっても、僅かであれ、希望がある方の道を選ぼうと言うの?
「頼む」
そう言って、彼は有ろうことか、静かにほほ笑んだ。
「もし人生最後ってんなら、飛び切りの奴を頼むわ」
穏やかな目だった。
この状況下で、自分が生きる道を見出した。
覚悟を決めた、人の目。
奇跡なんて無い事を、私は知っている。
そして、祈る対象を持てぬ私ではあるが。
「……判りました」
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式姫プロジェクトの二次創作小説です。 前話:http://www.tinami.com/view/946184 |
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