夜摩天料理始末 38 |
冥府の法廷が、静まり返る。
誰も動けなかった。
静かに床に横たわる、人の骸から。
誰も、目を離す事が出来なかった。
(あの料理は、夜摩天さんの願いが、形を取った物)
折角調べて貰った事が、無駄になっちゃったわね。
閻魔は、やるせない思いで、その亡骸を見続けていた。
(あれは、今まで口にした、全ての人が吐きだしてしまった。いえ、その器に納められるだけの存在が、これまで現れなかったが故に、その真の力を誰も知らず、ただの毒と見誤られていた……)
ねぇ、全てを見通す知恵の女神様。
あれを、その器に納めた男が、ついに現れたわよ。
(冥府の……いえ、世界の至宝たりうる存在です)
どうなるの。
(ただ、それがどういう作用を、その人にもたらすかは、食べた人次第)
このまま、終わってしまうの?
きひひ……。
静寂の中で、軋むような音が響いた。
あはは。
自尊心が砕けた。
ひははははは。
哀れな男の笑い声が、厳粛な廷内で、滑稽に木霊する。
「死んだ、いや、魂が滅んだぞ、さぁ、これでこの人間の裁判は終わりです、冥王は忙しい、次の審理に移りましょう、そこの元夜摩天、貴女のー」
「自身が口にしたる約定を違え、何の冥王か」
低いその声に、都市王の声がぴたりと止まった。
かつ、かつ。
石の床に靴音を響かせ、夜摩天が男の傍らに歩み寄り、膝をついた。
血に汚れるのもいとわず、その体を抱き起す。
胸を貫く都市王の剣を、けがらわしいと言わんばかりに引き抜き、傍らに放り出した。
「ごめんなさい……」
まともな料理を、作れなくて。
どれ程、辛く、苦しい思いをさせてしまったか。
幾ら詫びても、詫びたりない。
でも……。
「ありがとう」
私の、こんな酷い料理を、食べてくれて。
もう二度と、叶わないと諦めていた願いが、叶った。
喜んでいい事で無いのは百も承知だが。
私の中の……本当に、どうしようもない心。
うれしかった。
彼の体を静かに横たえ、その手に握った夜摩天の冠を、彼女は手にした。
血に汚れ、握りしめられて皺だらけになったそれを、じっと見つめる。
私は、本当にこの冠に相応しい冥王だったのだろうか。
このような詐術に騙され、結果として無辜の民を幾人も地獄に送ってしまい。
今、一人の勇敢な人の魂にも終焉をもたらしてしまった。
この、愚かな私が。
いつも、怖かった。
誰かを裁くなど……私にその資格があるのか、私の裁きは間違っていなかったか。
ずっと、答えの出ない思いに、私は怯えていた。
その答えが出ないまま、私はずっと夜摩天という、この地位と戦って来たのかもしれない。
でも、今、私は、この冠から。
その重さから、逃げようと思えば、逃げる事が出来る。
だが……。
彼は、都市王の頭からこれを、夜摩天の証を、最後の力を振り絞って取り上げた。
それは、彼にとって、どういう意味を持つ行為だったのだろう。
私の勘違いかもしれない、思い上がりかもしれない。
人の行為に、他者が勝手な解釈を付与する危険性も、滑稽さも、承知している。
けど、何となくだけど。
彼は、最後にこれを私に託してくれた……そんな気がする。
静かに横たわる男の顔に、目を向ける。
貴方は、何故、人として生きる事から逃げなかったのでしょう。
いえ、逃げないどころか、その魂を賭けて、あの苦難に満ちた生に再び立ち向かおうと願ったのか。
それを……聞いてみたかった。
私の答えにならぬのは承知の上で、それでも、貴方の答えを聞かせて欲しかった。
でも、今となっては、それは叶わぬ願い。
すう、と大きく息を吸ってから、夜摩天はゆっくりと、それを被った。
「き……貴様」
都市王の声に、夜摩天は眼鏡越しに凄まじい眼光を向けてから、剣を手にした。
「何を」
無言で、夜摩天は、それを都市王に向けて無造作に放った。
武の心得を示し、都市王は、それを慌てて躱す。
だが、そもそも躱す必要は無かった。
夜摩天は最初から彼を狙っては居なかった。
その剣が、彼の足もとで、石の床を豆腐のように貫き、深く突き立つ。
「剣を取りなさい、都市王」
「剣だと、何の心算だ?」
「何の心算?」
何を寝ぼけた事を言ってるんです。
無限の侮蔑を込めて、夜摩天が口を開いた。
「貴方を殺すと言ってるんですよ」
「私を、殺す?」
「貴方も武を以て知られた十王が一人、そして、僭称と言えど、冥王を名乗った身」
ゆっくりと一歩踏み出す。
その手には何も持っていなかったが。
圧倒的な威圧感の前に、都市王は覚えず一歩後ずさった。
「最前、その剣もて、手向かいすると言いましたね」
やってみなさい。
あくまでも静かな声。
だが、その背に負うた、火炎光背が、彼女の内心を示す様に青白い炎を轟々と上げていた。
「ま、待て、それ以上我らに歯向かうなら、この扉を」
階の上で喚く宋帝を、夜摩天は冷やかに見やって頷いて見せた。
「ご自由にどうぞ」
「な……」
「最前からの様を見ていて確信しました、貴方達に、自身の魂の消失を賭してでも、その野心を貫こうという覚悟などありません」
もし、本当にそれだけの覚悟に裏打ちされた野心が有ったなら。
都市王は、あの人の眼光を受け止める事も出来たし、自らの言葉に従い、彼を人界に帰せたでしょう。
いや……そもそも、本当の意味で権力を求めて居たなら、人を貶め嬲ろうなどという下衆な悦びでは無く、その手中にした権力を使い、自分の為したい事を、この世界で実現したでしょうに。
哀れな。
「ふざけるな、我は冥府十王が一人、死など恐れはせぬ」
その様子に冷然とした目を向けて、夜摩天は肩を竦めた。
「だから、ご自由に、と言ってるじゃありませんか」
それにしても……。
そう呟いて、夜摩天は視線を宋帝から都市王に移した。
「失礼な話ですよね、徒手空拳の私を、あなたが御自慢の武を示し、斬り倒せば済む話なのに、何故、彼はそれを期待しないのです?」
まさか、言う程の武の心得が無い訳でもありますまいに。
そう口にして、夜摩天は都市王を憐れむようにため息を吐いた。
挑発と言えば、単純な挑発だった。
だが、常の彼女からは想像もつかない、仮借ない物言いと、黄龍の封を解くという、世界を滅びに導きかねない脅迫にすら、眉一筋動かさない剛毅さが、その言葉に凄みを与えていた。
都市王は色々な感情に震えていた手を剣の束に掛け、床に突き立ったそれを抜き放った。
「……宋帝殿、手出し無用」
「都市王!」
「貴殿は、我が武を信じぬと言うのか!冥府でも屈指と言われた私が、素手の、この女に負けると!」
「そのような事は……」
「ならばそこで見ている事です、あの首を掻き切って、改めて、あの夜摩天の証を、私は手にしましょう」
死んだ。
死によったぞ。
ついに、あの忌々しい奴めの魂が滅びよったァ。
獣の顔が、それと分かるほど喜悦の笑みを浮かべる。
館を包んでいた霊気が、それと分かるほどに減じていた。
まだまだ、並の妖は寄せ付けない程には強大な霊地ではあるが、彼女の侵入を阻む力は既にない。
やりよったナァ、宋帝、都市王。
閻魔と夜摩天の位を望み、悶々としていた冥府十王よ。
なれば、妾も応えねばなるまいよ。
最後の仕上げとして、あの封印の大樹と一体化した、あの男の体を破壊し黄龍の体を解き放つ。
それさえ成れば……。
くくっと藻は嗤った。
愚かな事だ。
彼らには、自分の目的が、黄龍の体のみだと信じさせた。
魂なき体なれば、妾にも扱いやすい。
完全な復活など望まない。
この力を背景に、妾は地上の覇権を握り。
貴殿らは、黄龍の魂という切り札を持ちつつ、冥王として君臨すれば宜しかろう……と。
そんな旨い話が有ろう筈も無いのに。
何故、神々ですら、別々に龍王を封じたのか。
片方を最強の武神が、もう片方を冥王が封じた。
その理由を考えれば、自ずと悟れようにナァ。
龍王の体蘇れば、すなわち魂も呼応する。
逆もまた真。
そして、魂が解き放たれれば、封じられていた力が冥府で荒れ狂い、相当の混乱をもたらすだろう。
冥府乱れれば、すなわち生死の理が乱れる。
この世に亡者と、行き場を失った魂が、瘴気と共に溢れだし、地上には死ぬべき者が死ぬ事も出来ずに彷徨う事となり果てよう。
かつて、大妖怪達が引き起こした大乱以上の破壊と混沌が、この世界を覆う。
その中で、我が主たる、金毛九尾の大妖狐もまた、怨嗟と呪いと死臭の満ちる世界に復活を遂げ……。
私はその光輝に満ちた体に還る事が出来るのだ。
歓喜のままに、藻は空に駆け上がった。
式姫から射かけられる矢や礫が、時折体を捉えるが、興奮に昂る体は、その程度の掠り傷など、こそばゆいとも感じさせなかった。
今はただ、あの忌まわしき地を。
式姫の庭を。
蹂躙し、破壊しつくし、汚しつくして。
二度と再び、封印の地として蘇る事など無きようにしてくれよう。
「尾裂の獣よ」
ぼこり。
彼女の、美しい金色をした九つの尾に、無数の瘤が生じる。
「あれは……」
その光景に、嫌な記憶と共に覚えがある、何人かの式姫の顔が緊張する。
「金の獣を解き放つつもりですわ!」
地上で天狗が歯噛みする。
主の魂に異変が生じた事は、天狗も……いや、恐らくこの辺りで戦っている式姫みんなが感じている筈。
そして、今や、館の護りが、在って無いような物になってしまっている事も。
こうなってしまうと、小部隊で分散した現状は不利極まる。
だが、泣き言を言って、現状を悔やんでいる暇はない。
今はとにかく、この狐が式姫の庭へ侵入するのを防がねばならない。
ならない……のに。
「お行き、行って奴らと遊んでおやり!」
その尾が爆ぜた。
そうとしか見えなかった。
月明かりを弾く、金の塊が無数に散り、それが、矢のように地に向かう。
それに向かって、矢が立て続けに唸りを上げ、炎や雷火が閃き、颶風が猛る。
いくつかはその攻撃で力を失い地に落ちていくが、その攻撃を回避した 土佐犬程の大きさの狐が、真っ赤な目を光らせて、あちこちに潜んでいた式姫に襲い掛かる。
これは、奴の分身。
一体一体が強大な妖。
この凶猛な獣の大群は容易に退けられる物では無い。
こいつらは足止め。
「そうそう、その調子で遊んでおいでな。妾が、あの男を、直々に喰らい尽くすまで……ナァ」
肉を喰らい、血を啜り、骨を舐り……貴様らには一かけらも残さぬ程に。
わざわざ式姫達に聞かせるように、大音声を空に轟かせ、藻は高笑いと共に、一筋の金の矢となって屋敷に向かう。
「んな真似させっか、狐ババアが!」
「がるるッス、ご主人様には指一本触れさせないッス!」
「……行きますわよ!」
「ええ」
私たちの、一番守りたい場所まで。
全力で、駆け抜ける。
「旋風(つむじ)!」
天狗が、こちらに殺到する獣の群れに向かい、凄まじい風を巻き起こす。
その風に乗って、闇の中に灯る無数の赤い目に向かい、彼女たちは走り出した。
先頭を切って走り出した狛犬の槍が唸りを上げて振り回され、敵を左右に蹴散らし、貫き、当たるを幸い跳ね飛ばす。
「うおおおおー、ご主人様の所まで突撃ッス、邪魔するなッスーーーーーーーー!」
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式姫の庭の二次創作小説です。 前話:http://www.tinami.com/view/947058 |
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