夜摩天料理始末 39 |
空気がすすり泣く。
そうとしか形容の出来ない、背筋が寒くなるような、鋼が空気を切る音。
閃く銀光が時折、床の石を切り裂く。
砕けるのではない。
花崗岩よりなお硬い石が、豆腐のように裂ける。
都市王が手にした、長大な直剣が冥府の廷内を荒れ狂う。
流石としか言いようが無い、武の冴え。
それを、素手の夜摩天が躱し続けていた。
躱し続けている、と言っても、完全な回避などは無理な話。
既にその身に纏う法服のあちこちに裂けが生じており、浅い物だが、左腕には一筋血が滴っている。
「避けるだけでは、勝てませんぞ」
「……」
都市王の言葉に偽りはない。
重く長い長剣を振り回しているにも関わらず、その勢いは衰えるどころか、ますます鋭さと激しさを増すかのよう。
さしもの夜摩天も、都市王の武がこれほどとは思っていなかったのか、言葉も無く、ひたすらその刃から避ける事だけに集中していた。
冥府十王も宋帝も、見る目、嗅ぐ鼻も、そして閻魔も。
二人の余りに激しい戦いに。
いや、その顛末が意味する、冥府の未来に……目を奪われていた。
その戦いのただ中で、一つの密やかな動きが有った。
この、冥府の重鎮たちが居並ぶ廷内では、取るに足りない。
それ故に、誰も見向きをしていなかった、人間の亡者二人。
領主と陰陽師。
かつて、式姫の庭の主を憎み、彼を謀殺した二人が、今、その魂の亡骸を抱えて走っていた。
夜摩天は、都市王の剣を躱しながら、少しづつ、彼の亡骸の側を離れるように動いていた。
まるで、この戦いの巻き添えになり、男の魂がこれ以上傷つけられるのを恐れるかのように。
その想いが、二人には何となく判った。
そして二人も、この最後まで人として意地を立て、冥王をすら圧倒した男に、どこか、敬意に似た思いを抱くようになっていた。
今、その魂が滅びに瀕しているという事ならば、せめてその魂が、これ以上傷つけられぬよう。
死者の尊厳くらいは……同じ人として守ってやりたいと。
「ええ、戦場で死体運びなんぞするのは何十年ぶりじゃろうな」
重い、疲れる、面倒くさいなどと言いながらも、どこか浮き浮きした様子を感じ取って、陰陽師は皮肉に笑った。
「領主様ともあろうお方が、甲冑泥棒でもやってたんですか?」
「若い時はせっせとやっとったわい、お主もやったじゃろ?」
「そりゃ、表の顔としては、私は足軽でしたからね」
良い武器や甲冑が有れば、自分の物とし、要らない物は売りとばす。
戦功での恩賞など、お偉い連中の話だけで、下っ端足軽は戦果てた後こそが、最も重要な稼ぎの場。
死体から金品衣服を剥ぎ取り、敵領土なら民を連れ去り奴婢として売りとばす。
……とはいえ、盗賊も何処からともなく現れるし、近隣の若い農民が臨時の稼ぎに出張ってくることも多い。
揚句、味方だった筈の足軽連中も、稼ぎを奪い合う敵も同然となる。
まさに、修羅の巷。
切実な金が絡む、本当の意味での殺し合い、奪い合いとなるので、戦の最中より、足軽雑兵の類は、寧ろ勝った後の方が死の危険は高かったりするという……笑い話のような、笑えない話。
「やらない方が不自然でしょう?」
そう言って肩を竦める陰陽師に、領主はからからと笑った。
「当たり前じゃな、矢張りわしゃ、こいつよりお主みたいな奴の方が理解しやすいわい」
「この御仁は、些かお上品に過ぎますからね」
「だからわしやらお主みたいな奴に嫌われたんじゃろうな」
「違いありませんな」
にやりと笑い交わすのは、戦場往来 −それも、あまり性質の宜しくないそれ− が長かった二人の共感と言うべきか。
程なく、二人は廷内の隅、冥王二人が戦っている場所から離れた、目立たない場所に男を下ろした。
その体を、陰陽師が、時が惜しいと言うように検め出す。
顔を覆う黒い汗を拭き、目を開き、口中を覗き、服を寛げて、胸の辺りを手でなぞっていく。
その様を興味深げに見ていた領主が、陰陽師が手を離し、首を傾げた所を見て、口を開いた。
「何をやっとるんじゃ?」
「……さて、私にも実は良く判っていないのですが」
解せない。
そう低く呟いて、陰陽師は再度首をひねった。
「わしゃてっきり、この男の骸をこれ以上傷つけたくないから動かしたのかと思ったが……違うのか?」
「目的の一つではあるんですけどね……」
ちょいちょい、と陰陽師は領主を差し招き、男の胸を示した。
「なんじゃい、男の胸乳なんぞ見ても面白くもなんとも……ん?」
領主の目が訝しそうに細くなる。
「……こやつ、刺されて死んだのでは無かったか?」
胸のどこにも、刺し傷らしきものは見当たらず。
「ええ、背中に刃が一尺も抜ける程、ぐっさりとね」
それが、無い。
鞣革のような、無駄なく鍛えこまれた張りつめた胸のどこにも、傷跡の一つも残っていない。
いや、それどころか口の中にも、眼球にも、傷一つない。
まさかに、あの苦しみが演技だったとも思えないが……
「どういう事じゃ?」
「さて……魂の傷や死というのがどうなるかという知見が薄いので、これが治癒を意味するのか、意味のない事なのか、私には何とも言えないのですが」
ただ、そういう事態に関しては、彼より知識が多いだろう、夜摩天や閻魔の顔を見ていれば、あの、剣の一撃は魂にとって致命傷……魂の滅びに通じる傷だったのは間違いない。
では、これは一体何が起きているのだ。
「ヌシにも判らぬか?」
「判りませんねぇ」
ふぅむ、と考え込みはじめてしまった陰陽師に、領主は苛立たしげに声を上げた。
「では、ヌシは何故、この男を安全な所に運ぼう、などと言いだしたのじゃ?」
その言葉に、陰陽師は我に返ったように顔を上げた。
「……何ですって?ああ、ちゃんと意味はありますよ」
私が気が付いていたのは。
すぅと、術者としての目を細める。
彼の背中。
死地に赴く彼に、冥王達の目を誤魔化して、私が施した術。
ポンと叩いた拍子に、霊気をこめた指の五点で作り出した五芒星。
それが、微かな力を帯びだしたのを、彼には……その術を施した陰陽師の目にだけは見えていた。
「何かが、彼の縁に呼応しようとしていますね」
面白い……と呟く陰陽師を気味悪そうに見て、領主は声を低くした。
「……お主、何をしようと言うんじゃ?」
「あのいけ好かない狐共に、仕返しをね」
蟷螂の斧にもならないかもしれないが。
あの狐の玩具にされて死んだ揚句に、こっちでは虫けら扱いでは、どうにもこうにも業腹だ。
私も、この領主殿も。
人として、野心や色々な物を抱えて、生き、そして死んだのだ。
この男のように、正面からぶつかるという生き方はどうも性に合わないが……。
「これで、何が起こるかは知れませんがね、奴らへの嫌がらせぐらいにはなるでしょう」
つぶつぶと、陰陽師は口中で何かを唱えだした。
藻の眼下を、彼女を阻んだ忌まわしき堀と塀が過ぎる。
彼女を阻もうとする力は相変わらず存在していたが、今やこの黄金の矢と化した我が身を縛る力など無かった。
ぎょろりと、初めてこの庭を見渡す。
館、倉、厨、道場等の建物が点在し、外から引き込んだ小川が廷内のあちこちを流れる。
その水が流れ込み、また外に流れ出していく中心の場所。
庭の中央の大池。
名月や星々を、その面に映し出す、美しい鏡のように澄んだ水面。
その池の只中に、ゆるぎなく聳え立つ。
「……おのれ、我が主と黄龍を封ぜし、忌まわしき天柱樹めガァ」
天を衝く松の大樹が見える。
未だに、あれの霊気は圧倒的で、藻ですら、直接攻撃を仕掛けるなど、考えるだけでも恐ろしい。
近寄るだけで、この身のかなりの力が縛られよう。
だが、この庭のどこかに居る、あの男の体を始末してしまえば……。
天柱樹は、世界樹とも言われる、主の為の世界を支える大いなる柱。
主喪われた時、その力もまた霧散する筈。
眼下に拡がる甍の波。
ひっそりと静まり返る、その中のどこかに、奴は居よう。
潰して歩くも楽しそうじゃが、一々探すも面倒な。
にたりと藻が笑う。
「生で喰らおうかと思う多が、焼くもまた一興、やナァ」
そう呟いた口から火炎が迸った。
庭中を飛び回りながら、藻は手当たり次第に、目に付く物に火を放ち続けた。
木々や、建物から、火の手が上がりだす。
闇の中、赤黒い炎が、庭を焦がす。
「サァ、どうするな、式姫ども」
野焼きで飛び出す虫けら共のように。
主を抱えて飛び出してくるか、それとも、慌てて火を消すか。
それとも、そのまま焼け死ぬか。
いずれにせよ……その時、この庭の主は、彼女の前にその姿をさらす事となる。
「妾の前に、ご馳走を差し出すが良いゾ……のう、式姫どもよ」
「……軍師殿の読みと準備は念が入っておりますな」
「全くじゃな」
こうめと蜥蜴丸が、低く交わす言葉の間に、パチパチと木が爆ぜる音が混じる。
緊張した面持ちで、周囲を見る二人の目に、紅の舌が、建物のそこかしこを念入りに嘗め回していく光景が映る。
館が炎に包まれている。
そんな二人と、眠り続ける主を、淡い光が守るように光っていた。
三人を守る、おつのがその霊力を込めて書いた、火避けのお守り。
火生三昧耶法。
火を自在に操る大天狗たる彼女の霊力を込められたこれは、炎熱の禍から護ってくれる。
(火を放つのは、幾つか目的があるが、敵資産の毀損以外だと、相手の行動を乱し、集団としての力を奪う事、冷静さを奪う事が主眼になる)
逆に言えば、冷静に、集団として意思統一した行動が取れる限り、相手が火を放つ意図のかなりの部分を挫く事も出来る。
敵により、館に火が放たれたら、この札の力を使って、火から身を護りつつ、冷静に行動する事。
「こうめ殿、この札は火から身は守ってくれますが、梁が落ちて来た場合などは無力です……私から離れませんよう」
「頼む……蜥蜴丸」
「は」
……とはいえ、これは所詮時間稼ぎ。
全てが焼け落ちてしまえば、早晩、あの妖狐の前に、無防備な主の姿を晒す事となる。
所詮、遅いか早いかだけ。
だが、その僅かな時間が、戦場での生死を分ける事も、往々にしてある。
今は、軽挙せず、機を待つ。
ぎゅっと、主の手を握ったまま、その枕元から動こうとしないこうめの姿に目を向け、蜥蜴丸は内心感服した。
いかに、知識として、この札の力で火から守られると知っているとしても、周囲を荒れ狂う炎の中、よくぞ平静を保っていられる物だ。
見様見真似ではあれど、陰陽師としての修業も始めている成果は無論あろう。
だが、それ以上に。
(……ご主人様)
この人の帰りを待ち、その身を守る為なら、命を賭しても惜しくないという彼女の覚悟のなせる事であろう。
(こうめ様の声は聞こえませぬか……)
私たちの声は。
私たちの願いは。
(冥府に……届きませぬか)
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式姫の庭の二次創作小説です。 前話:http://www.tinami.com/view/947546 |
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