ボートと湖
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 ボートに乗ってぼんやりしていた。自分がどうしてこんなボートに乗っているのだか分からなくて、家を出て学校へ行こうと道を歩いていたことまでは憶えているのだけれどもそこから先は定かでなくて、結果としてこんなボートに乗ってしまって目の前には誰か知らない女の子が水の方を見たまま微動だにしていない。

 あなたは誰で、僕はどうしてここにいるんでしょうと尋ねると女の子はちらっと顔をこちらに向けて微笑んで、まるでそんなことを尋ねるのが僕の冗談で言っているみたいな顔をして笑うので、僕はそれ以上は何にも聞けなくなる。

 ボートは漕いでもいないのに長い時間をかけてゆっくりゆっくりと進んでいって空は青くて風がないので水は鏡になってところどころにぽつぽつとある雲を反映してきれいだった。

 僕は自分がどうしてここにいるんだか分からないけれどもなにかとても深い安らぎを感じていて、それというのもここに来る前の世界はとても毎日がたいへんで、どう大変だったのかは、なんとなくもう思い出せないような気がするけれども、とにかくここへ来ることができてとてもよかったような気がしているので僕はもう前のことなどは考えなくてもいいのじゃないかというような気がしていた。

 そうしていると本当に前のことがみんな思い出せなくなっていくようで、僕が誰でどこに暮らしていて毎日どんなものを食べていたのかだとか、好きな漫画やテレビ番組のことや小さいプラスチックで出来た迷路のことだとかそういうものをみんな氷の溶けるように忘れていってしまうようで、僕は慌ててそんなことを忘れてはいけないんじゃないかなとも思うのだけれども、なんだかそんなふうに思うことすらどうでもよくなっていってしまうようだった。

「自分が何者かなどはどうでもよく、ただボートの上へ乗ってこの広いみずうみの上をあっちへ行ったりこっちへ行ったりすることだけが大事なことなんですよ」と女の子はどこかで聞いたことのあるような声で言い、僕はまったく、実にそのとおりだまったく、と思い、それから少し眠くなってボートの底に身を横たえて空を見ると、空は真っ白で、でも曇っているというのではなく、透きとおるように太陽が薄いと晴れていても真っ白く見えるのだなあというのが分かるようだった。

 それから長いことボートに乗っていても飽きることはなく、僕はまったくここにいるよりほかに自分にとって重要なことは何も無いようだなあと思っていると、水の底から誰かの呼ぶ声がしたような気がして、僕ははっとなってボートから身を乗り出して水面を見ると、水のすごく下のほうに町があって、どこかで見覚えのあるような建物の屋根の上に、見覚えのある人が乗って鍋とか食器とかを叩いている光景が見えてきて、あれをするときがどういうときだったのかを僕はなんとなく頭の底では覚えていたような気がしたけれども、思い出したくなくて体がぶるっと震えて、はっとなって目を逸らしたけれどもまた水の中を見てしまって、水の深く底の方にあるその町で起こった出来事のことをいつまでもなんとなく考えてしまう。

 そのとき、女の子が後ろから近づいてきて僕の目を手で隠して、冷たいしっとりとした指が僕の瞼の上に触れてそっと瞼を下ろしたので、僕はああよかった、もうあれを見なくて済んで本当によかったと思って、それからもう分かったよ、と言って女の子の手を除けて、ボートから身を乗り出すのをやめてもう水の底にある町のことは何にも見ないことにした。

 夜になったら月が出て、それがとてもきれいで少し肌寒かったけれども服を羽織るほどではなく、僕はボートの上で何の過不足も感じることなく眠くなったら横になれるんだろうなと思った。たぶん、遠いどこかでは、眠くなっても横になれなかったような僕がいたんだろうと思うと、僕はとてもいまの境遇に満足するような気持になった。

 水の底からは食器を叩くような音がかすかに、かすかに聞こえてきていたけれども、でもそれも少しずつ聞こえなくなっていって、いずれは本当に聞こえなくなってしまうんだろうと思ったけれども、それでよかったのだと思った。

 

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オリジナル小説です
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