うつろぶね 第四幕
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 何か旨い物でもカクに振舞ってやろうと思った仙狸の願いは、寒風吹き抜ける市の景色に打ち砕かれた。

「……漁村近くの市というのは、今少し景気が良い物だと思うて居ったのじゃがな」

「獲れない物はどうにもなりゃしないよ、お姉ちゃん」

 まともな商品と言えば、何枚かの干物だけ、残りはどうやって捌くのかと聞きたくなるような小魚に、切れっ端のような海藻。

「夏も終わりに近づき、そろそろ、こはだや鯖や秋刀魚が旨い時期ではないか」

 餌に文句をつける猫そのものの顔で、恨みがましそうに呟いた仙狸の言葉に、店番をやってた短気そうな女房が怒鳴り返した。

「誰に向かって講釈垂れてんだい、そんな事ぁ、魚を食ったり、魚に食われたり稼業のこっちは百も承知さ。ただねぇ、海神様のご機嫌損じちまったのか、ここ最近のこの辺りの海は、さっぱりけっぱりからっけつなんだよ!」

「客のわっちに当たり散らしても仕方なかろうがよ、しかし、回遊しておる魚は兎も角、この辺りに住まっておる魚も貝も取れんとは不思議の事じゃのう。なにより、お主らの日々の暮らしも困ろうに、大丈夫かの?」

 仙狸の言葉から、こいつは都から遊びに来ただけの、海の事を知らぬ、?ずぶしろ?の湯治客とはちょいと違うという事を感じ取ったのか、女房は表情を若干柔らかく改めた。

「それが、不思議な事に全部だめなのさ、ただ幸いと言っちゃあれだけど、この辺りは元々、半分農家か木こりみたいな家が多いから、不漁ですぐ食うに困るって事は無いんだけどねぇ」

 ただまぁ、魚が少ないのは、やっぱりこう、力が出ないやね。

 そう苦笑する女房に、仙狸は頷いた。

 海の直ぐ近くまで山が迫っているここなら、確かにさもあろう……。

 山を手入れするのは、海に流れ込む水を清め、河口周りの海を豊かにする。

 全て生の営みは、直ぐには判らぬが、何かが何処かで繋がっているという事。

 そう、良くも……悪くも。

「まぁ、自然の恵みは、人の思うままにはならぬものよな……首をひっこめて災難の去るのを待つ時もあるか」

 そうぼやきながら、仙狸は鯵の干物を三枚手にした。

「これと、そちらの小魚を笊で、あと海藻もお汁の実に頂こうか……」

「ありがとさん。まぁぼやきなさんなよ、酒のあてには、むしろ干物が乙な物だよ」

「違いない、これは見舞い替わりじゃが」

 代価を払う時、言われたそれより、少々多目に金を渡しながら、仙狸は何気ない顔で女房に話しかけた。

「しかし、わっちが商都で聞いた時は、まだ左様な話はあちらに伝わって居らなんだが、この不漁、何時頃からの事じゃな?」

「そうさねぇ……」

 ひぃふぅと、暫し指を繰っていた女房が、顔を上げた。

「ざっと二月って所だね」

「左様か、長引かぬと良いな」

「まったくね、姉さんが湯治に居る間に、ウチの宿六が獲ってくる、ここの本当に旨い魚を食って帰って貰いたいねぇ」

「楽しみにしておるよ、暫し逗留しておるで、また厄介になると思うがよろしくの」

 邪魔をした、と踝を返した仙狸を、最初の時よりはるかに愛想の良い女房の声が送ってくれる。

 それに背中越しに手を振りながら、仙狸の表情はどこか暗かった。

「二月前か」

 例の海市の話を主が聞きこんできたのと、同じ頃という事か。

 不自然な話。

 不自然な不漁。

「何かあると考える方が自然……じゃな」

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 漁から帰り、小さな船を流されないように浜の奥に引き、舫う。

「今日も空振りか」

 籠の中には、きれっぱしのような昆布と、普段なら海に帰すような小あじに、まぐれで引っかかったような中くらいの鰈が、不服そうな顔をこちらに向けていた。

 ここ最近、この辺りは不漁続きで、こうして夕方まで船を出さないと、自分の家の晩飯も碌にない有様。

 魚は痩せた物ばかりだし、貝も何処へ行ったのか、この辺りの砂浜から姿を消してしまった。

 海藻も、河口近くにあった、あれほど見事だった藻の森が、今年に入って半分近く枯れてしまった。

 正直こんな釣果をぶら下げては、口うるさい女房と腹を空かせた倅が待つ家には帰れた物では無いが、さりとて帰らずば眠る事もままならない。

「また来ねぇかなぁ」

 あのねぇちゃん。

 彫の深い、どこか異人を思わせる顔に、長い赤毛を婀娜に垂らした、豊麗な、何ともいい女であった。

 だが、何より良かったのは、彼女が誘った先に有った市で商われていた、真珠や珊瑚。

 皆、半信半疑で僅かばかりの物を手にしただけだったのだが、それを売った金だけで、彼らの半年分の稼ぎを凌ぐ程の財となった。

 あの稼ぎがあれば、こんな命を的に稼ぐ仕事をしなくても……。

 村では今、不漁の状態も重なって、あの夜の稼ぎを忘れかねた男ばかりか、奥さん連中まで、今は総出であのねぇちゃんの行方を捜している有様。

 かくいう自分もそうなのだが、持って来た真珠を売った銭は、網本にしていた借金の返済で消え去り、結局今食う為に、海には出なけりゃならない始末。

 夏の長い夕暮れが終わり、闇が徐々に空に拡がる。

 だが、雲でも出ているのか、星がまばら。

 あの夜もそうだったっけか。

 皆、漁火を赤々と照らしながら、何かに憑かれたように、あのねぇちゃんの後を追って暗い夜の海に漕ぎ出した。

 ……そういや、誰が最初に、あのねぇちゃんに着いて行こうなんて、言いだしたんだっけ。

 

 闇が深くなる。

 

 ざざん、ざー、ざざん。

 

 聞きなれた波音の中、時折散るしぶきが、微かに明かりを弾くだけの闇。

 その中に、彼女が居た。

 ほの白い顔と、手にした箱が、うすぼんやりと闇の中に浮かぶ。

 それと認識する前に、男は籠を放り出して砂浜を走り出していた。

 夢とか幻とか、そんな事は思いもしなかった。

「探してた、探してたんだぜ!」

 息せき切って走ってくる、海で鍛えられた荒くれ男にも、彼女は別段怯える風も無く、にこりと笑みを返した。

 だが、無言。

「な、なぁ、また来てくれたって事は、また俺たちをあの島に連れてってくれるんだよな?」

 彼女は無言。

 だが、にこりと笑って、彼女はその首を縦に振った。

「そ、そうか、それじゃ俺みんなに知らせてくるよ、船を出す準備をしなきゃ」

 そう言って駆け出そうとする、男の浅黒く太く節くれだった腕に、ひんやりした細い手が掛かった。

 なんだと振り向く男の眼前で、彼女は、それは駄目だと言うように首を横に振って、男の手を引いた。

「いや、だが船が無いと、それに銭も取って来ないと」

 再度彼女は頭を振った。

 闇の中、何かが動く気配だけがする。

 がぱり。

 得も言われぬ、男が今まで嗅いだことのない芳香が、潮と磯の香りを圧して、辺りに拡がった。

 闇になれてきた目に、それが微かに見えてくる。

 黒鉄の輝きと、男は知らぬ物だったが、玻璃(ガラス)の透明な輝き。

 彼女が乗ってやってきたと言う、鉄でできた貝みたいな船だったと、皆が言っていた乗り物か。

「……俺も乗せてくれんのかい?」

 この余り広くない船に、この何とも柔らかそうなねぇちゃんと。

 俺一人だけを、あの宝の島に。

 彼女はそうだと言うように、にこりと笑って、男の手を引いた。

 どうやって乗り込んだのか、彼女と二人、体を寄せて、その中に入る。

 知らぬうちに、上の蓋は閉じていた。

 見上げると玻璃越しに月のような明かりがぼやりと見えた。

 そして、飛沫がその玻璃を濡らし、水と空の境を透かし見せる。

 誰も漕いでも居ないのに。

 帆を上げても居ないのに。

 その不思議な船は海に自然に漂い出していた。

 女に抱かれるように乗る狭い船内に、甘いにおいが満ちている。

 前を向けば、艶やかに笑む女、上を見上げるとぼんやりした光。

 夢見心地が続く中、漁師はもう、何も考えては居なかった。

 何か、無性に眠い。

「着いたら、起こしてくれねぇかな」

 返事を待たずに垂れた首を、白く滑らかな感触が優しく抱き寄せてくれる。

「頼むよ」

 漁師は、何か、包み込まれるような安楽さを感じながら、目を閉じた。

 微かに漂う潮の香り。

 どこか遠く聞こえる波の音。

 ……おふくろ。

説明
式姫プロジェクトの二次創作小説です。

前話:http://www.tinami.com/view/949797
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式姫 カク 仙狸 

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