うつろぶね 第六幕 |
静かに書を繰る仙狸の指が、さやと吹いて来た風に止まる。
得も言われぬ爽やかさに、仙狸は心地よさげに細めた目を、窓外に向けた。
濃い緑が連なる山の景色が、疲れた目に優しい。
暑熱はまだ残っているが、山の中腹にあるこの寺院は緑陰を抜けて来る風が心地よい。
ごろりと横になってしまえば、夕方まで寝ていられる自信はあるが、時の無い今、流石に猫の本性に身を任せている訳にも行かない。
ふにゃぁと可愛らしく欠伸をして、さて書の内容に戻ろうとした仙狸の耳が、廊下を静かに歩んでくる、軽い足音を認めた。
「失礼してようござりましょうか?和尚より言いつかり、お茶をお持ちしました」
まだ高い声が、開け放ってある障子の影から室内にかけられた。
中々に躾の行き届いた様子に、仙狸は淡く微笑んだ。
「小僧殿か、お入りなされ」
「では、失礼します」
室内に入り、正座して一礼する姿も、まだ可愛らしい物だが、中々に端正で、様になっている。
「饗応に与り忝いと、ご住職にお伝え下され、済まぬが、茶はそこの台の上に置いておいて頂けるかの?」
「はい」
そう言いながら、時折上気した顔が仙狸の顔をちらちらとみやる。
「いかがしたな、小僧殿?」
「あ……いえ、その」
更に顔が赤くなる。
(ふふ、かわゆいのう)
少年が年上の女性に対して憧れつつも、どう接していいか判らない、そんな誰もが一度は通る初心さ。
まして、この様な漁村、山里では、恐らく終生見る事も叶わないだろう美貌の持ち主とあっては、小僧が落ち着かないのも無理はない。
かぶきりひめは、こういう少年をきわどくからかうのが楽しいと言っていたが、仙狸はどうも、そういう心持ちが理解できない。
「小僧殿は、今、少しお時間が有るかな?」
「ええと……庭の掃除も終わりましたし、夕餉の味噌摺りも終わっているし……」
暫し指を繰ってから、小僧は顔を上げた。
「大丈夫です」
「左様か、では少し話し相手になって貰って良いかの?」
「はい」
座布団を目で示しつつ、仙狸は懐から袱紗に包んだ菓子を取り出し、栗饅頭を一つ懐紙の上に載せて、小僧の前に差し出した。
「折角の時間を頂いて悪いのう、これはほんの礼代わりじゃ」
「わぁ」
「ご住職には内証じゃぞ、ここで食べていくが良い」
「えへへ、ありがとうございます」
心底嬉しそうに、饅頭にかぶりつく小僧の姿に、仙狸が優しく微笑む。
こういう所が、式姫皆からも、おばあちゃん扱いされ、彼女が愛される理由なのだが、どうも仙狸はいまいちその辺りを判ってはいない。
これだけの洞察力を持つ仙狸だが、自身の事に気が付くのは、それでも難しいと言う事なのだろう。
「小僧殿はおいくつじゃな?」
「十一になった所です」
「左様か、もう少し上かと思うたが」
「良く言われます」
その言葉に、多少の誇らしさが混じる。
この年では、少しでも大人っぽく見られたがり、大人として見られることに喜びを抱く物。
「その落ち着きなればさもあろうな、こちらのお寺で修業を始められて長いのかの?」
その仙狸の言葉に、小僧は少し寂しそうな笑みを浮かべた。
「私、物心ついた時から、当寺のお世話になっておりましたので、何時からという事は」
「……左様か、知らぬ事とは言え、無遠慮な質問であったな、許されよ」
「いえ」
この少年がそうだとは、確信こそ持てていなかったが、最前まで読んでいた住職の日記とも、その言葉は一致する。
十年ちょっと前の不漁、漁師たちの失踪、食うに困った母親の子殺し、子捨て……。
日記では、微妙にその辺りの生々しい記述は避けて居たが、そんな光景を実際に目にしてきた仙狸には、何となくその行間が読めるような、そんな記録であった。
この子も、恐らくその時に捨てられた一人なのだろう。
この年齢にそぐわない、しっかりした受け答え自体が、この子が子供でいられた時間の少なさの証。
だが、そのような想念はおくびにも出さず、仙狸はゆっくり茶に口をつけた。
「般若経などは、そろそろ諳んじられるようになられたかな」
「はい、一通りは諳んじられるようになりまして、只今は講義を拝受しております」
中々に無駄のない、利発な受け答えに、仙狸は楽しそうに笑った。
「ふふ、それはそれは、ご住職も頼もしい後継者が出来て安泰じゃな」
「い、いえ、私はそのような……」
赤面する小僧を見て、仙狸は微笑みつつも、内心が暗くなるのを覚えていた。
このような子を、これ以上作らぬためにも、一度住職と話をせずばならぬな。
「なんてこったい」
半信半疑ではあったが、仙狸の言葉通り、件の洟垂れと一緒に隣村を訪れたカクは、そこで一人の少女が声を潜めて語った言葉に、思わず空を仰いだ。
失踪者は居た。
しかも、カクの傍らに居る、この洟垂れ小僧の父親と、同じ状況で。
不漁続きで、夕方にも漁に出ねばならなかった隣家の父が、浜に船を残して家に帰らなかった。
それが十日前の事だと。
「何だって、みんな騒いでないんだい」
「最初は探してたんだよ、でも、おとう達も漁に出ないと」
一日二日は良いが、三日四日となると、流石に日々の生活にも障りが出る。
村人半々ずつ交代で漁に出ながら、近在を探していたが、三日前に網元がもう良いと止めた。
死んでいるなら、今更どうにもならん、身を隠したなら、これだけ探して出てこない時点で、すでに遠くに逐電しているだろうから、諦めるしかない。
死んだこととしよう、供養はわしの方で持ってやる。
そういう事になり、皆は普段の生活に戻ったのだと。
「……ずっとは探せねぇ」
「そっか、ごめんよ、引き留めて悪かったね、これお礼だよ」
「ありがと、ねぇねぇ、おねぇちゃん、今日も劇やるの?」
劇か……。
正直、余り気が乗らない。
金銭的な話では無く、今、この近辺で起きようとしている、得体のしれない事に思いを致すと、呑気に芸など披露している状況では無い気がしてならないのだ。
だけど。
「やるよー、昨日と同じくらいの時間に始めるから、良かったらまた来てね」
「うん!」
礼代わりの飴とお結びを手に、嬉しそうにパタパタと駆けていく少女の背中を見送りながら、カクは軽く頭を振った。
ずっと暗い顔で、村の噂を語っていた少女の顔が、劇をやるの、と聞いた時だけ、少し明るくなった。
暗い気持ちは、悪しき物を呼ぶ。
ならば、例えほんのひと時だけでも、この子らに笑いを呼べるなら……自分が今、この地で芸をする事には、多少でも意味があるのかもしれない。
探し続けられない事は当然だし、その網元の判断は妥当な物だと思う。
カクが気になったのは、この話があまりにも、表に出て来ていない事。
確かに、人が失踪する事自体は、さほど珍しくも無い、騒ぐほどの事でも無いのかもしれない。
軍隊での出世を求めて、借金に追われて、人買いに攫われて。
この荒れた時代では、あまり珍しくも無い事ではある。
だが、それにしても……。
ぐぎゅうぅぅぅぅん。
ものすごい音に想念を破られて、カクは思わず隣を見た。
洟を啜りながら、少年が照れたような困り顔を返す。
「はらへった」
「……だよね、よし、それじゃどっか涼しそうな所を探してご飯にしようか、どっか良い場所知ってるかい?」
「ん!」
元気に、少し小高い丘みたいな方に駆けだした子供の背を見ながら、カクも歩き出す。
成程、こりゃ仙狸さんの言った通り。長い一日になりそうだ。
本堂で、瞑想するように仙狸は静かに座していた。
静謐の裡に、武術の達人らしい、静かで規則的な呼吸をしている姿は、異形ながら、何かの神像ででもあるかのような、独特の美を湛えている。
しょわしょわしょわと外の空気を満たす蝉時雨が、不思議な事に、その静寂をさらに深い物にしている。
小僧が庭を掃き清め、最後に水を打つ、ぱしゃりという微かな音も聞こえる。
日差しも、風が深緑を揺らす葉擦れの音も、全てが聞こえている。
そして、その全てが手に取る様に把握できていながら、仙狸はそのいずれにも囚われては居なかった。
ややあって、長い吐息と共に、す、とその目が開かれた。
いつの間にか、住職が仙狸の傍らで、こちらも禅を組んでいた。
「お見事」
「門前の小僧では無いが、仏徒の傍らでネズミ避けをやりながら寝て居れば、猫も禅を嗜むようにはなるという程度じゃ、お恥ずかしき限りよ」
仙狸の謙遜に、静かな笑みだけ返して、住職は足を崩した。
「式姫も、惑う事がおありかな?」
「ふふ、悟りすまして居ったら、かように俗塵に塗れて、あくせく生きては居りませぬよ」
「常住坐臥、何処に身を置いても三昧境に至れぬようでは、修業が足りぬと申しましてな」
静かに座って経を読まねば禅にならぬは、未熟の証。
「凡愚の身では、中々に厳しいの……多少取り澄ます真似事は出来るが、わっちは酒肴の香の前ではたちどころに猫脚を顕す」
「拙僧も、般若湯の功徳の前では、凡愚の正体を顕しますでな」
女性の脛を見て、空より落ちた久米の仙人は、我らの姿でございます。
人は……皆、弱いのです。
しょわしょわしょわ。
寂しそうに、そう呟く住職の顔を見ながら、仙狸は辺りの気配を探った。
小僧は……居ない。
それを確かめてから、仙狸は居住いを正した。
「ご住職、実は、お聞きしたい事が」
仙狸の様子を見、その気配から何かを覚悟していたのだろう、住職もまた、姿勢を正した。
彼は式姫がどういう存在なのか、良く知っているのだろう。
それが、この地に来た、それが湯治などでは終わらないだろう事も。
「拙僧にお答えできる事ならば」
静かにそう口にした、その目を見て、仙狸はためらいがちに口を開いた。
「この寺、恵比寿を祀っておられたな?」
妙な質問だ。
漁師が多く住むこの辺りで、寺が、豊漁の神である恵比寿を祀るのは、何ら不思議では無い。
だが、何ら不思議では無い、その質問に、住職の顔が強張った。
「……む!」
住職の顔を見て、仙狸は己の推測が正鵠を射ていた事を悟った。
だが、いつもの事だが、自分の推測が正しかった事は、彼女に何らの喜びももたらさなかった。
重くなる口を、だが、更に仙狸は開いた。
「だが、今は居ない」
「……」
「本尊を奪われた」
住職の目が苦悩の中で伏せられる。
「……何を、どこまでご存知か?」
「何も知らぬよ、全てはわっちの推測じゃ。故に、語りたくないだろう事を聞いておる」
「むぅ」
思っていた以上に仙狸の言葉が、秘密にしていた過去に踏み込まれてしまったのか、住職が声も無く項垂れる。
その様子を見て、仙狸は立ち上がり、本堂の扉を閉めた。
静寂と、そして仙狸が開け放った過去の香りが、本堂の中に満ちていく。
「……では、質問を変えようかの、ご住職。その恵比寿の本尊はいかなる姿であった?」
「ご本尊は」
思い出の中に、その形を求める様に。
「何故、それを聞かれる」
住職の声が震える。
その姿を、世に知られる恵比寿と、余りに違う、その姿を思い出し。
「福々しく、釣り竿と鯛を手にしたお姿では無かったろう」
「……左様」
ああ。
やはりそうだったのか。
なれば、この地の怪異も頷ける。
仙狸は、次の質問の為に。
いや、確認の為の言葉を発する前に、腹に気力を込めた。
この問いで、自身の覚悟を決める為に。
「ご本尊は、巨大な真珠であった、そうじゃな?」
「お……おお……おおう」
仙狸の言葉に、住職は獣のような声で呻き、気を失った
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式姫プロジェクトの二次創作小説です。 前話:http://www.tinami.com/view/950133 |
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