うつろぶね 第八幕 |
灯明の明りだけが揺れる、本堂の薄暗い室内で、住職の言葉だけが低く、経のように響く。
外の蝉しぐれが、どこか隔絶した世界の向うで聞こえているかのように遠い。
この本堂の中は、今、数十年前の過去で満たされていた。
淀み……様々な怨念で満ちた。
その一部始終を見つめていただろう、くすんだ金銅の本尊の淡い笑みが、灯明の明りの中で、その愚かさに苦笑するように、どこか薄気味悪く揺れる。
「拙僧が知る事は、これで全てでございます」
それに頷き返し、重苦しい空気を払うように、仙狸は立ち上がり、庭に面した扉を開いた。
落日の紅い光がさっと本堂の中に差し込む。
それと共に、夕暮れの涼気を帯びた風が、今の時を伴い、さぁと流れ込む。
その風の中に、過去の汚れを流そうとするかのように、仙狸は目を閉ざして、涼風に耳とふんわりした尾を揺らす。
暫し後、仙狸は元居た円座の上に戻り、端坐して、頭を下げた。
「辛き事を、よう話してくだされた」
「寧ろ、このような話をお聞き頂いた事、拙僧から礼を申し述べるべきでしょうな……それにしても」
「何じゃな?」
「式姫が、かような田舎寺院の過去の醜聞目当てで足を運ぶとも思えませぬが」
住職の眼光が、荒くれの漁師を相手に、これだけの古刹を長年守って来た人物のそれに変わる。
自らの恥を話しつつも、仙狸の側の不審な動きも見逃しては居ない辺り、流石と言うべきか。
「……ご明察じゃな」
余人は知らず、この住職には、少し話を通して置いた方が良かろう。
「ご住職もお聞き及びであろう、今、この浜に怪異が生じて居る事」
住職はそれに軽く頷いて、顔をしかめた。
「何やら面妖な事が生じて居るようですな……なれど、拙僧が承知して居りますのは、全て使いに出しておる小僧が、街を歩いておる中で、それとなく聞き及んだ、海に妖だか幻が出るという事のみで、さほどの事は……」
人死にや漁に出られない程の妖や魔なれば兎も角、相談を受けた訳でも無いのに、こちらから、彼らの生業に対し、軽々に首は突っ込めませぬでな。
そう口にした住職に、仙狸は頷いた。
「成程のう……」
仙狸には、何となく判る気がした。
寺領という程の物では無かろうが、この寺の影響はこの近在と、三か所の浜に及んでおり、本来そこで起きた大きな出来事なら、住職の耳にも自然と入ってくるのだろう。
だが、恐らく、各々の村の網元は、件の海市の件を秘匿し、自分がその海市との取引で得られる富を独占するべく、動いている。
もし、寺に相談を持ち掛ければ、この住職の事だ、近在の浜全てに利がいきわたるように計らうだろう事は想像が付く。
それは避けたいと考える人々は多かろう……。
その伝で言えば、カクが探している男も、村人が無理なく探せる数日が過ぎてしまえば、海での事故で死んだとして、遺体も無いままに葬儀が行われるのみであろう。
無かった事に。
平安を装って。
全ては富の為に。
恐らく、住職が、今この近海で起きている事を知る時は、全てが手遅れになってしまった後だろう。
それは避けねばなるまい。
「ご住職、わっちの知る限りの事はお話を致そう……じゃが、その前に、ちと硯と紙をお貸し願えぬか?」
その声音の中に込められた、殺気に近い緊迫感に、住職は思わず頷いた。
「易き事、お急ぎなら、最前擦った墨もありますでお使いなされ」
「忝い」
今お持ちしますでな、と立ち上がった住職の背中を目で追ってから、仙狸は低くため息を漏らした。
この忙しさで、何が休暇じゃ、あのタヌキ庭主めが。
身も心も、休まる暇など寸暇もありはせぬではないか。
ひとしきり、主への不平をぶつくさと呟いて、仙狸は目を空に……商都のある方角に向けた。
「ええ、業腹な。この際じゃ、全員、この楽しき休暇に招待してくれようか」
日が暮れ出し、二人の足元から長く伸びだした影を追うように、カクと洟垂れは、村に至る田中の道を歩いていた。
あの後に訪れた漁村では、何も聞けなかった。
何も無かったのではないだろう。
ただ、村人の警戒心が強く、この洟垂れを連れていても、その警戒が解ける事は無かった。
(けど、無駄足では無かった)
この子の父親を探しているという名目上、露骨に追い立てられはしなかったお陰で、村内を瞥見する程度は出来た。
忌中の札などを見る事は無かったが、ひっそりしずまった一件の家の前に、不自然に立てられた棒の上に被せられた籠。
あれは、恐らく魔除け。
籠は、多くの網目、つまり目を持つ霊物として、魔を見張り退ける力があると言われている。
六芒星の別名は籠目紋。
それを立て掛ける事により、死者が出た家に、魔が寄り付かぬようにするというのは、良く見られる風習。
それとも別の何かなのか、はたまた単に使った籠を干して置いただけという可能性は、否定は出来ない。
ただ、村内に漂う悪しき気と、村人の異常な警戒感は、カクに何事かが有ったと思わせるには十分な物であった。
「ねえちゃん」
くいくいと袖を引かれて、カクは洟垂れに顔を向けた。
「どうした、疲れたのかい?」
「いんや、おらつかれてね」
「それは良い事だね、で、どしたい?」
「きょうはなにやるだ?」
「今日……ああ、劇だね」
何にしようか。
思い切り明るい話の方が良いよね……花咲か爺さんは犬が死んじゃうし、カチカチ山は婆ちゃんとタヌキが死ぬし。
なんかこう、明るくて呑気な奴が良いんだけど。
そうこうしているうちに、稲荷の社に集まる子供たちの姿が見えた。
(……まさか、更に増えてる?)
子供の娯楽少ないこの地の事である。
恐らく、日々子供だけの間で、カクの劇の事は広まり続けているのだろう。
いや、噂の伝播速度とは恐ろしい。
子供には子供の世界が有る、という事なんだろう。
お、ねーちゃんが来たぞ。
目ざとい子供がカクの姿を認めて声を上げると、一団がわっとカクの方に駆け寄ってくる。
「おせーぞねーちゃん」
「あはは、悪い悪い、ちょっと用事があったんだい」
「ふーん、それで、今日は何をやってくれるんだー?」
「今日はなー、こいつだー!」
ごうと吼えながら、カクは顔を熊のそれに変えて振り向いた。
判っていても、その真に迫った獣の姿に、何人かの子供がへたり込む。
「腰を抜かしてどうする小僧、今度は俺と相撲を取るんだ」
がっはっはと笑って、カクは顔を元に戻した。
「はい、今日は熊とお相撲さ、さぁ、何のお話だい?」
「きんたろー!」
「良く出来ました、まさかり担いだきんたろさんだ、実は、金太郎さんって後で偉いお侍になったんだぞ」
「おー、そうなのか」
「そうだぞー、だからみんなも元気に育っておくんだぞ、人間、いつ偉くなっちまうか、知れた物じゃないからねー」
あっはっはと笑いながら、子供を引き連れたカクが稲荷の社に歩いて行く。
待っている子供たちの群れ、だがその小さな影の群れがざわめき、その間から大きな影が現れた。
大人か……一体何だろう、そうカクが訝る前に、傍らの洟垂れがその人影に向かって大声を上げた。
「かか!」
その声を聞いて、その人影が、こちらに駆けて来る。
「こんな所で油売ってたのかい!さっさと帰って来な」
「どうしただー、まきわりはやっといたし、あみもつくろっといただ、んだから、おらばんめしまでは……」
そう言いかけた洟垂れの肩を、小太りで良く日に焼けた母親が、頑丈そうな手で掴んだ。
「ととが、けえって来たんだ」
「ととが!」
「何だって?」
走り出した二人を追って、カクもまた周囲の子供たちに詫びつつ、後を追って走り出した。
さらりさらりと筆を走らせながら、仙狸は傍らに端坐した住職に、自分の推測を語って行った。
商都にまで拡がる噂、浜に漂着する女、不思議な船、海市、そこで商われる財宝。
それが当寺に何の関わりが、そう言いたげだった住職の表情が、仙狸の推測が進むほどに強張っていく。
全ての話が終わった時、住職は胸につかえた、重い何かを吐きだす様に、深く息を吐いた。
「左様な事が……この浜辺で起きていると?」
「あくまで推測じゃがの、そうで無ければ良いと、わっちも思うておるが」
何より、この推測が正しかった場合、この事態はわっちとカク、二人の式姫の手にすら余る。
ため息交じりにそう呟いて、仙狸は筆を置いた。
書き上げた文面をざっと見返し、濡れ濡れとした墨を反古紙に軽く吸わせてから、彼女はそれを手にした。
「後は、商都に駐留しおる、わっちの主が、どう動いてくれるか……」
彼や、軍師たる鞍馬の判断は信頼しているが、実際動ける式姫が少ないという問題はある。
庭も守らねばならないし、今まで制圧した場所も、等閑には扱えない。
上手く、やりくりしてくれれば良いが。
「商都まで使いを出しますかな?私が信頼して使っている若いのを紹介できますが」
「お心遣い忝い、だが、此度の事は、ちと急を要するでな」
真面目な顔で、仙狸は主から貰った給金の中から、銀の薄板を取り出し、それを紙に挟んで、折りだした。
たちまちのうちに、紙片が尾を長く引く折鶴の姿となる。
「おぉ」
感嘆の声の中、仙狸は手にしたその鶴に向かい、何やらつぶつぶと口にしてから、その鶴を、大きく空に放った。
「汝に仮初の翼を与える、我が主より受けし物の縁を辿り、元ありし場所に疾く飛び至れ」
紙を折って作られた鶴が、見る間に立派な羽翼を備えた鶴となり、その優雅で巨大な翼を一打ちすると、更なる空の高みに飛び去って行った。
「見事な方術でございますな」
「かような時には重宝じゃよ、尤も、日頃、みだりに使う物ではありはせぬが」
術に淫しては、己を失うでな。
「ご見識ですな」
術とは、所詮「すべ」に過ぎない。
何かを達成するための方法の一つであって、それを操れる事自体はさしたる意味は無い。
無い筈だが、人は時に、術を操る事に溺れ、本来の目的を見失う。
それは金にしろ権力にしろ、そして仏道の修業も、煎じ詰めれば同じ事。
大事なのはその手段によって何を得るか、だったはずが、それを忘れてしまう。
師よ……。
あなたの修業は、余りに激し過ぎましたな。
その困難な修行をこなした自分が、悟っていない筈はない、偉くなれない筈はない。
そう、思い込んでしまう程に。
「ご住職」
「何でしょうかな」
落ち着いた様子でこちらを見る住職に、仙狸は暗い顔を向けた。
「数日の裡に決着は付こう、上手くいった暁には、また恵比寿を祀る役儀を、こちらに頼めるかの?」
難儀な事となるが、代々、その重荷、法統と共に背負うてくれるか?
「元より、当寺を継ぐ者が果たすべき事でございます故」
迷いなく、静かにそう応えた住職に、仙狸は頭を下げた。
「忝い」
「いえ……所で、『上手く』行かなかった折は、どういたしましょうかな?」
「上手く行かなかった時か、そうじゃな」
もし、あれが、自分の想像通りの代物で、それを自分たちで鎮める事叶わなかったら。
「事が起きた時、浜の人々をこちらの山の方に避難させる、その誘導を頼みたい、それと」
「それと?」
後、人に出来る事は。
仙狸は肩を竦めた。
「我らで駄目なら、後は、仏に祈って頂こうかの」
夕暮れの中、ざわめく人波の中央に、銅色に焼けた、半裸の痩せた男が立っていた。
「とと!」
洟垂れが、その人に駆け寄る。
「おお!」
駆け寄る我が子を、その男は、洟が体にこびり付くのを厭う様子も無く抱き上げた。
「心配かけたなぁ」
「……とと」
そのまま胸の中で泣き出した洟垂れの姿を遠目に見ながら、カクは嬉しそうに何度も頷いた。
良かった。
あんまり自分は力になれなかったけど、この少年の父親が帰って来てくれて、本当に良かった。
「おめぇ、船を浜に置いたまんま、どこさ行ってただぁ」
洟垂れを預かっていた、近所の老漁師が、遠慮ない塩辛声を上げるのに、洟垂れの父親は、子供を降ろしてから頭を掻いた。
「いや面目ねぇ、船を置いてその辺を歩いてたら、何か波間に光る物が見えた気がしてなぁ、金目の物じゃねぇかと拾いに行ったら波に脚を取られて、沖に流されちまったんだ」
何にもねぇ岩島に流れ着いて、何とか魚と海藻で食い繋いでた所に、丸太が流れて来たんで、それに掴まって泳いで帰って来たってわけさ。
「間抜けがぁ、そりゃ命があっただけ勿怪の幸いだぁ」
がっはっはと笑って、老人はぴしゃぴしゃと父親の背中を叩いた。
「まぁ、何にせよ目出てぇこった、秘蔵の酒さ出してやるで、宴といこうや」
「ああ、爺さんわりぃな……」
父親が表情を改めた。
「ちょいと迷惑掛けちまったし、先に網元に挨拶しねぇと」
「おお、おお、そりゃその通りだ、早く行ってこい、戻ってからでも宴会は出来らぁ!」
そんな皆のやり取りを聞きながら、これ以上はよそ者の与る所では無いと見て、カクは踝を返した。
だから、カクは見なかった……聞かなかった。
夕闇の中、少しやつれた父親の顔に、奇妙な笑みが浮かんでいた事を。
「いやぁ、じいさん……今日は無理だよ」
「何でだぁ?」
「俺が、これから網元にする話の次第じゃ、今日は久しぶりの夜漁になるかもしれねぇ……よ」
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式姫プロジェクトの二次創作小説です。 前話:http://www.tinami.com/view/951923 |
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