おさきとの絆語り -宵- |
麓の宿から五分程登り歩いた場所にある山中の寂れたあばら家。
囲炉裏と焚き木。他には簡素な雑貨や畑道具などが収納されたここは、物置小屋の他に休憩場所としても一応機能する。
俺は粗末ではあるがさほど汚れた様子はない、戸口の傍に備えられた長椅子に腰を下ろしている。
「昼間のうちに掃除しといて正解だったな」
聞く者のいない独り言を呟き、持参してきた酒瓶から湯呑みに酒を注ぎゆっくりと傾けた。
少し蒸し暑く感じる夏の夜。
時折吹きつける山風が肌に、木々のざわめきと虫の鳴き声が耳に心地よかった。
宿場に賑わう人口の喧騒も悪くないが、一人愉しむ晩酌にはこういった自然の喧騒が丁度良い。
ここからは木々に遮られ、あちらの様子は窺い知れない。
俺は湯呑みを空にすると、視線を下から上へと引き上げた。
田舎の空気が澄んでいるせいか、頭上の星空は普段より綺麗に見える。
いつも屋敷から眺めている空とは同じようで微妙に違う。
旅先でこうやって夜空に想いを馳せる事など滅多にない事。
そうした恵まれた自然の中で味わう酒は、これまた旨い。
自然の奏でる演奏会の最中、ふと小さな不協和音が俺の気を引きつけた。
緩んだ顔を引き締め、空の酒器を置いて傍らの提灯を手に取る。
近付いてくる足音が徐々に大きくなり、宵闇の中に目をこらすとぼんやりとうごめく影が見えた。
誰だろう、この辺の人かな?
一応、式姫達には事情を話してきてある。
わざわざこんな時間に山道を登り様子を確かめに来る物好きなどいるまい。
影は歩みを止める事なく、一直線にこちらへ向かってくる。
ゆったりとした余裕を感じさせる歩き方。
これが人であるなら余程度胸の据わった武の達人か、俺と同じ陰陽師か、もしくは恐れを知らない泥酔者。
あやかしの脅威を知っている者なら、灯りも持たずに夜の山道を歩く事がどれだけ危険か知っている筈。
やむを得ない事情があるにせよ、普通は急ぎ足になるのが必然だ。
提灯の仄かな灯りの届く距離まで来ると、黒い闇に金色の様相が浮かび上がる。
それを確認した俺はふうと息を吐いて、緊張を解いた。
「こんばんは、オガミ様」
主の姿を認め、にっこりと微笑むおさき。
先程の推理は訂正しよう。俺の式姫にも、やはり物好きがいたようだ。
「いくら夜目が利くとはいえ、灯りも持たずに真っ暗な山道を登ってくる奴があるか」
俺は眉間にしわを作り、少し緩んだ顔を無理に引き締めた。
まぁ、なんとなく式姫だろうなという考えもあったけれど。
「あら、すみません。私とした事が」
もっともな指摘を受けたおさきは少し驚いた表情を浮かべた後、申し訳なさそうに会釈した。
「心配だから、様子を見に来てくれたんだろう?」
「その通りです。この辺りのあやかしは一掃したとは言え、流石にオガミ様を一人にしておくのは……」
「大丈夫だよ。一人じゃないから」
「あら?他に誰かいらっしゃるのですか?」
キョロキョロと周りを見渡すおさき。
その様子にニヤリとしながら、俺は頭上を指差した。
「あっちだあっち。屋根の上に真祖がいる」
言い終えると同時に、待ってましたとばかりにスタッと真祖がおさきの隣に降り立つ。
大きな音を立てることもない、鮮やかな身のこなしだ。
「呼ばれて飛び出て真祖、参上」
ビシッとポーズを決める真祖。
真顔でふざけた事をしているのだから、これがまた見ていて面白い。
「こんばんは、真祖さん。なんだか普段より生き生きとしていますね」
「ふふん。今宵の真祖は一味違うよ」
「喋り方まで……」
「護り刀になってみたいとか言うんでな。これなら心配ないだろう」
俺の言葉を受けて、真祖がここぞとばかりにアピールする。
「何が出てきても、オガミにはかすり傷一つ負わせないよ」
「あらあら、失礼しました。これでは私の出る幕はないようですね」
「真祖、もう戻っていいぞー」
「ん!」
ひゅおんと一陣の風を残し、真祖が一瞬で視界から消えた。
悪意ある者が近付いてくれば、俺に手が届く前に真祖が先に飛びかかっている。
とはいえ、やはり俺も身構えておくに越した事はない。
もっとも、酔いが回り始めるとそんな事に気が回らなくなるだろうけれど。
「それではオガミ様、おやすみなさい」
再び軽く頭を下げると、おさきはくるりと引き返して帰って行った。
後ろ姿が闇に溶け込む前に、俺はその背に向かって大げさにため息をついた。
「あーあ!」
何事かと振り向くおさき。
「誰かさんのせいで、せっかくの晩酌の雰囲気が台無しだなー!」
「あの、オガミ様……?」
「詫びの言葉だけでは俺は満足しないぜ。誰が帰っていいと言った」
乱暴な物言いだが、本気で怒っているワケではない。
「……すみません」
おさきはスタスタと引き返してくると、壁に得物を立てかけた。
そして、こちらに向き直ると帯に手をかける。
「貧相な体ですが、オガミ様が満足して頂けるよう――」
「脱がんでいい」
おさきの行動を一言で封じる。
「そもそもこんな暗いトコで、しかも屋外で事に及ぶ趣味はないぞ」
風流が台無しである。この場において不協和音でしかない艶声は、自然の演奏者達の機嫌を損ねてしまいかねない。
というより、普段の俺ならいざ知らず情欲など微塵の欠片もない。ここに来る前にたっぷりと精は吐き出してきている。
……ん?という事は、あれか。
もしや俺は、おさきに『そういう主』だと思われているって事になるのか。
わぁショック。ちょっとだけショック。内心の動揺を隠したまま、言葉を続ける。
「察しが悪いなぁ。たまにはこの俺の晩酌に付き合ってもバチは当たらんぜよ、ほれほれ」
ポンポンと長椅子を叩くとようやく合点がいったらしく、ハッとした表情でおさきが呟く。
「……すみません」
「詫びの言葉はもういいって」
提灯の照らし出す幽かな灯りの中で、二人きりの酒宴が始まる。
とっとっとっとっ。隣に座ったおさきに、酒を注いだ湯呑みを渡す。
生憎、酒器も酒瓶も一つしか持ってきていない。
「乾杯が出来なくてすまんが」
「いえいえ、とんでもありません。では、頂きます」
「どうだ?」
「……とても美味しゅうございます」
「うむ、苦しゅうない」
空になった湯呑みを受け取り、再び酒を注ぐと今度は自分の口元へ運んだ。
「あとはつまみでもあれば、言う事ないんだがなぁ」
「宿場の方から何かお持ち致しましょうか?」
「いや、いい。言ってみただけだ」
屋根に控えている真祖にも当然会話は聞こえているが、口を挟むような無粋な真似はしない。
充分に俺の血を馳走してやったのだ、今夜に限っては貧血の心配も無い。
むしろ普段より些か血の少ない己の体調を気にせねばなるまい。
愉しむ事より、体に気を遣う事。酔いが回りやすくなっている今、深酒は厳禁だ。
幸い、おさきは酒を強要してくるような式姫ではない。その点は大丈夫。
ただ、その頭の中には大丈夫とは言い難い思考回路が形成されている。
あまりあれこれ言いたくはないのだが……うん、やっぱり気を付けよう。
さて、何を話そうか。
時折杯を口に運びつつ、そう考え始めて何分が経っただろう。
とくとくと酒を注ぐ心地良い音。飲み干した後のため息。そして、姿の見せぬ虫達の演奏会。
おさきの方を振り向くと、目が合ってにこりと微笑んでくる。
「…………」
「…………」
居心地が悪いわけではないのだが、少々気まずさを感じる。
もし俺の心境を敏感に感じ取れるのなら、お前の方から何か話題を振ってくれ。
……なんて、流石に無理だよなぁ。
天上に煌々と輝く満月、地上の薄ぼんやりとした提灯の灯り。
宵闇を祓う二つの光の下で、おさきの姿はハッキリと見てとれる。
闇に溶けそうな俺の紺色の着物と対照的な、淡い狐色。
雰囲気が錯覚を引き起こすのか、はたまた酔いが既に回っているのか。
隣に控える金色の狐には、常日頃見慣れているのとはまた少し違った印象を感じた。
この手元の光が失われれば、周囲は一気に闇に呑まれるだろう。
見慣れない景色。土地勘の通じない田舎。心中の小さな不安は、闇をさらに増幅させる。
あやふやになっていく。どこから闇で、どこからが己なのか。
その境界線は――。
あぁそうか。だからおさきは、こんなにも落ち着いていられるのか。
金色に染まる狐は、灯りが断たれても闇に呑まれる事はあるまい。
おさきがその装束を纏っている理由が少しだけ分かった気がした。
「おさき」
観念して、俺は先手を打った。
「はい」
「えーっと……おさきは、縛られるのって好きなのか?」
考えがまとまらないうちに口を開くから、こんなロクでもない質問が飛び出してくる。
口に出した言葉を引っ込める事は出来ぬ。しかし、主の無礼な質問に対して彼女は落ち着いた姿勢を崩さずに答えてくれた。
「そうですね……オガミ様に縛られるのは好きですよ」
おいおいおいおい、何て言い方しやがる。
それじゃあまるで俺が縄フェチの変態みたいじゃあないか。
問われた本人に悪意がないのは分かっている。聞いた俺が馬鹿だったのか、それとも質問の仕方が悪かったのか。
「そ、そうか、なら逆はどうだ」
「逆?」
「俺を縛るのは好きなのか?」
話が明後日の方向へと進んでいく。まぁ酒宴ではよくある事だ。
「それは……分かりません」
「だろうな」
少し困ったようなおさきの表情を見て、俺は内心ほっとした。
湯呑みを傾け、残りの酒を一気にあおる。
「ふぅ……。だけど、それじゃあダメだな」
「オガミ様は、私に縛って欲しいのでしょうか?」
「コホン、話は最後まで聞きたまえ」
再び酒を注いでおさきに勧めたが、受け取る気配がなかったので行き場を失った湯呑みを膝の上に置く。
「縛るとか、繋ぐとか、そういった類の言葉は一方通行じゃあ成り立たねーのよ」
おさきが黙ったままなので、俺は言葉を続ける。
「式姫はもともと、幽世――向こう側の住人だろ。それを術を用いてこっち側に呼び出し、繋ぎ留めるのが陰陽師たる俺の役目」
「はい」
「……なんだが、たまにこう思うんだ。式姫もまた、陰陽師をここに繋いでいるんじゃないかってな」
ここというのは現世を指しているのではない。言い換えるなら、日常だろうか。
「私は、特に何もしておりませんが」
「陰陽師なくして、式姫は式姫でありえない。逆も然りだ」
「…………」
「この酒盛りセットと同じだよ」
にやりと笑って、俺は湯呑みを軽く傾けた。
湯呑みは酒を入れる器。
だがこうして酒を呑む時、人もまた酒を受ける器となる。
己は器なのか人なのか。その境界線は――。
「器じゃねぇし!」
「えっ?」
「あっ、いや……なんでもない。まぁ、とにかく、だ」
俺は慌ててなんでもない風を取り繕った。
「この世界だってそうさ。人も式姫も、世界の中に生きているのが当たり前だと思っている」
世界が在り、そこに生き物が住まう。こう文章にしてみると、一見何の問題もないように感じられる。が……。
『見るという行為は、対象に少なからず影響を与えています』
白峯の言葉を思い出す。
「繋がりは一方通行じゃあないんだ。いつでも、どこでも」
観測する者がいなければ、その存在は誰にも証明できない。
故に、生き物があってこそ世界はその存在を確立させている。
「つまり、お前の好む好まざるに関わらず、俺はおさきに束縛されているという事だよ」
「…………」
他の誰かを縛る時、自分もまた縛られている。繋がりを強烈に求める者は、相手にもまた重い枷を強いている。
それに気付かぬ盲(めくら)の多いことよ。
「俺が放任主義なのも、必要以上に式姫達を縛りつけない為さ」
「そうだったのですね」
愛情は必要だ。しかし、それも式姫によってまちまちである。
ちょうど良い距離感、ちょうど良い繋がり。難しいが、それを見極めるのもまた陰陽師の務め。
己を『ここ』に繋ぎ留めてくれる、彼女達への親愛を込めて。
「なぁおさき。酒ってなァ、便利だよな。人と人を繋ぐのにこれ以上の縄はねぇよ」
「あの、オガミ様」
「あん?」
「……その縄で、私も繋いで頂けますか?」
「ふん、顔に似合わず強欲な奴よのう」
とくとくとくとく。
ニヤリと笑い、俺は湯呑みにたっぷりと酒を注ぐ。
「ふっふっふ、だがその意気や良し。普段は受けられぬ俺の縄、存分に愉しめ」
「ありがたく頂戴します」
そうそう。少しは分かってきたじゃないか、おさき。
縄ではなく酒を求めてくれるんなら、喜んでお酌してやろう。
こういうのも、中々良いな。宵だけに。
二人きりの酒宴もそろそろ終わりに差しかかろうとする頃。
「そういえば、オガミ様」
「うん?」
「真祖さん、いつになく張り切っていましたが……何かあったのですか?」
「あー、大した事じゃない。ここに来る前に、白くてドロドロの血をたっぷり馳走してやっただけ」
「……それは美味しいのでしょうか?」
おさきは隠喩が理解できないらしく、首をかしげている。
「欲しけりゃ飲んでみるか?なーんてな。今はこの酒で我慢してくれ、あっはっはっは!」
その次の日。
「おはようございます、オガミ様」
「おう、おはよう」
「――白いドロドロの血」
廊下をそのまま行こうとした俺は、おさきの発言にピタリと歩みを止める。
「何?」
「すみません、一晩中考えていたのですが、どうにも分からなくて」
「忘れてくれ」
「えっ?」
「……忘れてくれ、一時間以内に。頼む。なっ?」
おさきの肩をポンと掴み、ニッコリとそう告げた。
「はぁ……分かりました」
「ようし、偉いぞおさき」
俺は頭を抱えてうずくまりたい衝動を必死に抑えながら、おさきの後ろ姿が消えるのを見送っていた。
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