葛の葉との絆語り -雨-
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ポタポタと雨だれが奏でる自然音と、サーサーという雨の音楽が途切れる事のないある日の昼間。

勢いこそ弱いものの、朝から降り続いている小雨は濡れ縁の端を濡らし、木目を黒く変色させていた。

こういうのを見ると、鬱陶しいような嫌な気分になる。

早く止んで欲しいというこちらの願いなど知るものかとばかりの腹立たしい抵抗。

空一面を覆いつくす暗雲の向こう側で、得体のしれないモノがあざ笑っているよう。

「…………」

天の意志に愚痴は通じない。睨みつける視線も、ため息も舌打ちも、この小雨以上に虚しい抵抗である事は承知の上。

俺は見上げた顔を元に戻し、立ち止まった足を前に踏み出した。暇を持て余して機嫌を損ねているであろう、かの式姫の下へ。

盆の上の茶が冷めてしまっては、より機嫌を損ねるだけである。

 

声もかけずに、そっと障子を開く。

部屋の主は文机で本を読んでおり、俺の来訪に顔を上げる事もなく没頭している。

そのまま躊躇せずに部屋へ入ると、隅に寄せてあった別の机に盆ごと置いた。

それに呼応するかのように、背後でパタンと本を閉じる音。

「いい頃合いね。貴方にしては中々気が利くじゃないの」

こちらを振り返り、ふっと笑顔を浮かべる葛の葉。

世辞であっても、開口一番から褒め言葉が出るとは珍しい。

「そりゃどーも」

こちらも上機嫌な返事を返しながら、座布団の山のてっぺんを一枚だけ掠め取った。

湯呑みも茶菓子も一人分。盆から移している間に、葛の葉がやってきて座布団に座る。

「機嫌良さそうだな。てっきり、文句の一つでも言われるんじゃないかと思ってた」

「文句を言うなら、雲の向こうのお天道様に向けたいわね。…………何よ?」

「あぁいや、別に」

ちょうどここへ来る前、俺も同じ事を考えていたのでニヤリと笑ってしまった。

菓子を置いて早々に立ち去ろうとすると、

「ちょっと待ちなさい」

「ん?」

葛の葉が座布団の山に手を伸ばし、隣に敷いた。相手をせよという事だろうか。

「何でございましょう?」

おどけながら聞き返す。まぁ返事は大体、予想出来るんだけどね。

「貴方は甘味を運びに来たの?それとも私の機嫌をなだめに来たの?」

「……後者でございます」

「だったら、私が食べ終えるまで話相手の一つでも務めて頂戴」

「はぁ……」

曖昧な返事が漏れた。元より長居するつもりはなかったが、今更出ていける雰囲気でもない。

少し躊躇したが、俺は机の対面に移動せず、葛の葉の隣に設置された座布団に腰を下ろした。

そのまま団子を頬張っている目の前の葛の葉の顔をまじまじと見つめる。

平時なら文句か、咎めるような視線の一つでも飛んでくるのだが……。

「はい、どうぞ」

「え?」

最後に残った一つを、皿ごと差し出してくる。

「要らないの?」

「えっ、いや、えっと…………頂きます」

俺がじっと見つめているのを、団子を欲しがっているのと勘違いしたらしい。

せっかくだし、ここは甘えておくか。

「風は種を運ぶと言うけれど、雨は貴方を運んで来てくれるのね」

何の事だか、すぐには意味を理解できなかった。

団子をゴクンと嚥下すると、合わせて言葉を続ける。

「そして俺は甘味を運ぶ、っと」

「そうそう。なんなら、毎日でもいいわよ?」

「いや、流石にそれは……」

「嫌なの?」

「ここへ足繁く通うのはやぶさかじゃあないけど」

そこで言葉を切り、彼女の胸へと視線を移す。

「甘味の摂りすぎで太っていく葛の葉は見たかないな」

「…………」

わざとズレた答えを返したが、一応筋は通っているハズ。

葛の葉は何も言わず、狐のように目を細めて俺を見返している。というか、狐なんだけど。

「ま、褒め言葉として受け取っておくわ」

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葛の葉が湯呑みを傾け終えるのを待って、俺は話題を切り替えた。

「ところで、さっきまで何を読んでたんだ?」

「あぁ、玉藻前物語よ」

つまらなさそうに葛の葉がぽつりと答える。

「なんだ、面白くなかったのか?割と熱心に読んでたように見えたけど」

「内容は別につまらなくないわ。雨天の中、こんなもので暇を潰さなくちゃならないのがつまらないのよ」

「なるほどね」

つまりどっちなんだよ、と心の中でツッコミを入れた。

今までの会話と彼女の態度から察するに、機嫌はまずまずといったところか。

多分、俺がやって来たから少しは良くなったのだろう。そう思い込む事にした。

「そうね、オガミならどう思う?」

「うん?」

久々に名前を呼ばれ、顔を上げる。

どうやら玉藻前の物語についての意見を聞きたがっているらしい。

「どうって言われてもなぁ……」

急に尋ねられて困惑した。話の概要は大体覚えているが、それについての感想を問われた所で特に思うところはない。

子供っぽい表現だが、まとめると『悪さをした狐が退治された』という二十字にも満たない一文で終わる。

勧善懲悪は嫌いではないが好きでもない。現代風で、なおかつ穿った見方をするなら『動物虐待』の四文字が相応しいか。

 

「殺生石」

「殺生石?退治された玉藻前が死んで石になったアレか」

玄翁和尚に破壊されるまで、それは周囲の生物を殺める強烈な瘴気を放ち続けたという。

「おかしいと思わない?」

「死後に石になる理屈なんて俺には分からんよ」

「そこじゃないわよ」

出来の悪い生徒をたしなめるように葛の葉が言った。

「死後、石になって瘴気を吐き続けたという事は、それだけ恨みが深かったという事でしょう」

「まぁそうだろうな」

 

「じゃあ、どうしてあの狐はそこまで人間に対して深い恨みを持つようになったのかしら」

 

俺は姿勢を正して、腕組みしながら考える。

「元々人間が嫌いだったとか」

「だったら、わざわざ宮中に取り入るような事はしないんじゃない?」

「あー、そっか……」

あっけなく一蹴され、俺は再び考え込んだ。

では何故だ。年経た一匹の大妖怪が、石になってなお人を恨み続ける理由とは。

 

過去の物語についてあれこれ考えた所で、正答が出てくるわけではない。

どんな答えにせよ、推測の域を出ないのだから。

普段なら馬鹿馬鹿しいと一蹴する所だが、今は暇なのである。

ありもしない空想に想いを馳せ、違った側面から物語を観測するのもまた一興。

 

 

 

――――どうして。

――――どうして。

 

――――何故私に刃を向けるのですか。

――――何故私に鏃(やじり)を向けるのですか。

 

――――貴方の御姿が見えなくとも。

――――私は、私は貴方の事が。

 

 

 

宮中に気に入らない人間でも居たのか?……いや、確かあの狐は宮中では誰も殺めていなかった。

鳥羽上皇が衰弱したのは彼女の仕業によるものと明記されていたが、死んではいない。

だとすると……残酷な処刑でもされたのか?

うーん、あの物語には惨たらしい最期を迎えたというような表現は無かったハズだが。

「ちょっくら借りるぞ」

持ち主の返事を待たずに文机に移動し、本を開いた。……やはり、特におかしな箇所はない。

それもそのはずである。本を読んでも疑問が晴れなかったから、葛の葉は俺に問うているのだ。

声にならない唸り声をあげた後、パタンと本を閉じ元の居場所に戻る。本人は呑気にお茶を飲んでいた。

「さっぱり分からんな」

「あら、もう降参?」

「諦めるとは言ってない」

そんな楽しそうに言われては、あっさり音を上げるわけにもいかんだろうが。

 

書かれている事にヒントはなさそうだ。

ならば、書かれていない事にヒントがあるのではないか。

 

内容を疑ってしまえば、そもそも玉藻前が実在したのかさえ怪しい。

だが、書かれている事が全て真実であると仮定するならば――。

作者がわざと書かなかった?作者でさえ気付かなった?

もしくは、作者からの挑戦状か。葛の葉と同じ疑問に疑問にぶち当たるであろう、名も知らぬ後世の読者に向けて。

 

待てよ待てよ待てよ、作中で最も長く玉藻前と一緒に居たのは……鳥羽上皇か。

玉藻前はその美貌と豊富な知識を気に入られ、傍に置かれるようになったという。

二人の関係は良好だったのか?いや、そもそもどういう関係だったのだろう。

そこから鳥羽上皇が衰弱するまで、何があったのか。

書かなくてもいいようなどうでも良い日常?

それとも、言葉にするのが憚られるような――。

 

「…………」

 

葛の葉を見る。

目の前にいるのは、美貌と知識を兼ね備えた狐。

 

ごくり、と喉が鳴る。その顔から、目が背けられない。

どくん、どくん。どくん、どくん。

自分でも気付かぬ内に、雨音にも負けない程、心臓が唸り声を上げていた。

 

 

 

――――貴方に捧げた時間は。

――――私を撃ち抜くこの矢となって。

――――貴方に向けた愛情は。

――――私に向けられた切っ先となって。

 

――――どうして、貴方は。

――――どうして、私は。

 

 

 

「ちょっと、聞いてるの?」

不意に声をかけられ、俺ははっと我に返った。

目の前に葛の葉はいない。慌てて振り返ると、部屋の中央に布団を敷いているのが目に入った。

「んしょ、っと」

「…………」

口を開いたが、言葉が出てこない。

半開きのまま呆れたように見ていると、

「ほら、いらっしゃい」

布団の上の葛の葉が手招きする。

誘蛾灯に釣られる羽虫のように、俺はふらふらと葛の葉の下へ歩いて行った。

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横になると、葛の葉の手がそっと抱き寄せてくる。

「葛の葉……」

「こら、抱き枕が喋らないの」

「…………」

拘束は団子を食べ終えるまでという約束は、一向に果たされる気配がない。

普段なら下らない茶々を入れる場面だが、そんな事が許される雰囲気ではなかった。

さっきまでは露程も感じなかった蠱惑的な香り。息を止めていても、脳にまで侵入してきそうな程の。

魔性にこそ及ばないが、理性を溶かし本能を煽り立てるそれは目前の相手から抵抗の意志を奪うには十分過ぎた。

何度か味わったことのあるモフモフの尻尾とはまた違う、抗いがたい誘惑。

頭の片隅で、みしりと亀裂が走る音が聞こえた気がした。おかしくなりそうだ。

「…………」

目を瞑る。理性が残っているうちに、途切れた思考を追従する。

 

 

 

――――許さない。

――――許さない。

――――許さない。

――――許さない。

――――こんなにも、私は。

――――私は、貴方の事が。

 

 

 

人の身で人ならざるモノの相手が務まるかと問われれば、縦にも横にも首は振れない。

それは、あの人も同じだったのではないか。

陰陽師は玉藻前の呪術によるものであると報告したけれど。

実の所、互いに求め合い過ぎただけなのではないか。

 

恋も呪いも皆同じ。

呼び名を変えたとて本質は変わらぬ。

人が堕ちない道理などない。

階級も冠位も飾りに過ぎぬ。

 

ましてや相手が人外となれば――。

 

記述がない以上、想像の域を出ない。それは先述した通りだ。

しかし、もしも二人が愛し合っていたのであれば、殺生石が生まれた理由も頷ける。

愛情と憎悪は表裏一体。コインを指で弾くように、それは容易くひっくり返る。

 

胸の奥が少し傷んだ。

あぁ、これは鶴の恩返しと同じじゃないか。

もしもおじいさんが襖を覗かなければ、もしも陰陽師が介入しなかったら。

仲睦まじい二人の幻想が、違った物語としてここに在ったかもしれない。

 

勧善懲悪でも動物虐待でもない。

あのお話は、愛し合う二人のすれ違いを暗に描いたものだったんだ。

 

 

 

――――許さない。

――――例えこの身が朽ち果てようと。

――――許さない。

――――例えこの身が石と成ろうと。

 

――――私の愛した男を。

――――私を愛した男を。

 

――――私は許さない。

 

 

 

目を開ける。

スースーと微かに聞こえる寝息と、どことなく幸せそうに見える葛の葉の寝顔。

俺達も、いつかどこかですれ違ってしまうのかな……。

かつて自分が愛した者に刃を向けるその痛み。できれば、背負いたくないものだ。

せめてこの雨が止むまでは、その寝顔を見届けていてあげよう。

 

どこまでも一途で、死してなお恨み辛みを重ねる狐よ。お前もまた安らかに眠っておくれ。

もしも来世があるのなら、そこで悲願を果たすが良い。

説明
雨の日に葛の葉の部屋を訪れるお話です。

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