恋文の代わりに
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 室生犀星から手紙が届いたとき、織田作之助はてっきり恋文だと思った。先生は詩人やから、ワシとは違うてそれは美しい恋文を書くんやろう、どんなに情熱的な文やろかと心躍らせたのだが、読んでみればなんてことはない。杏の実の収穫が終わってジャムを作りたいのだが、人手が足りないので手伝ってはくれないかという、極めて事務的な手紙だった。正直がっかりした。そして勝手に期待して勝手に落ち込んでいる自分があんまり女々しくて憤慨した。杏ジャムなど作ってたまるかと思った。憤慨した気持ちでもう一度犀星からの手紙を読むと、「春先にあなたと見た杏の花が実をつけました」という一文が目に入ってきた。そこが唯一、恋文らしいといえばらしいかもしれなかった。

 

 作之助と犀星は恋人同士である。少なくとも作之助はそう思っていた。春先には杏の花を二人で見たりする程度の仲だったが、あれは梅雨の頃、一緒に買い物に行くはずが雨で出られず、犀星の部屋でロシア文学について語り合っていた時にふと沈黙して、目が合い、そのまま一夜を共にした。愛している、と確かに言われたが、閨でのことばにどれほど信憑性があるだろうか。しかし作之助はとりあえずそれを信じた。その日、二人は恋人になったのだと作之助は思っている。とはいえそれ以来、とりたてて恋人らしいことは何もしてはいなかった。犀星は創作が佳境に入ったとかで、忙しいらしい。尊敬する作家が仕事をするというので大人しく待ち、愛していると言われたから恋人の邪魔はすまいと会いにも行かなかったのに、作之助と会う暇もないはずの犀星は、杏の実の収穫はちゃんとやり終えていたのである。どういうことやねん、と作之助は一人ごちた。しかし、「春先にあなたと見た杏」ということばが心に残った。先生は杏がお好き。その大好きな杏を見て、作之助のことを思い出すというのは、なかなか心くすぐられるところがあった。

 杏ジャムなど作りたくはなかった。でも先生の作った杏ジャムはきっとおいしいやろうなあ、と作之助は思った。ジャムを作りに行くか行くまいか、当日まで作之助の気持ちはころころと変わった。そして結局は行くことにした。こういったことは勝ち負けではないのになんだか負けた気がした。相手が犀星でなかったら絶対に負けにはいかなかっただろう。しかし、犀星だから負けてやろうと思った。これは相当なことなんやで、先生。と心の中でつぶやいたが、本人に言うことはないだろう。言われても犀星にはなんのことだか分からないだろうが。

 

「はいはい」

 ドアをノックすると、包丁片手に中野重治が出てきた。

「ひっ」

 重治は驚く作之助を見てん? と不思議そうな顔をしていたが、しばらくして「ああ、これか」と包丁を振り上げた。

「ひぇっ」

「すまない。包丁を研いでいたものだから」

「そ、そうですか……」

「さ、どうぞ上がって」

 重治は作之助に包丁を向けたままドアを押さえてくれた。変わったはる人やな……、と自分を棚に上げて作之助は思った。普段おだやかそうだけど、キレたら怖いイメージがあるので、重治に刃物を向けられるとちょっと構えてしまう。

「やあ、織田君。来てくれたんだな」

 中から犀星が出てきた。まともに言葉を交わすのは実に二週間ぶりだった。作之助は内心ドキドキしていたが、平静を装って

「そら他でもない先生のお願いやから、来んわけにはいきませんわ〜」

 と茶化して笑った。犀星はなんだか満足そうに笑って、「助かるよ」と言った。

 あ、この人、ワシの気持ち全然分かってへんな。作之助は少し気分を害した。

 上機嫌の犀星にみちびかれて部屋に入ると、そこはなかなか混沌としていた。作之助が一番最初に目にしたものは、ほとんど立ち上がらんばかりにして萩原朔太郎に詰め寄る芥川龍之介の姿だった。

「君の言うことには全く同意できない!」

 そう言われた朔太郎は座したまま、小さな声で何かしら言った。そのことばに芥川はさらに激した。机がガタンと揺れて、数個の杏が床に落ちた。

「ちょっと目を離した隙に……」

 隣で犀星がため息をついた。

「え、これ大丈夫ですのん……?」

 思わず作之助は犀星に尋ねた。

「まあ、よくあることだから気にしなくていいさ。織田君はとりあえず、その辺に座っていてくれ」

 そう言って、犀星は言い合う二人の方へ行ってしまった。

 作之助はぐるっと部屋を見回した。あの激震地周辺にはとても近づけやしない。ふと杏を拾っている堀辰雄と目が合った。軽く会釈をされる。多分、あの人を置いて他に安全な場所はないという気がした。

「隣座らしてもろてよろしい?」

「ええ、もちろんですよ」

 辰雄は笑顔で答えた。

「重治ー。包丁はまだかい?」

「今持っていくよ」

 辰雄の声に答えて、重治が包丁を持ってきた。

「織田さん。杏を二つに切って、種を取り出してください。重治の研いだ刃はよく切れるから気をつけて」

 辰雄が親切に手本を見せてくれる。

「へー。器用なもんやなあ。ワシは基本食べるの専門やねんけど、うまいこと出来るやろか」

 重治も辰雄の正面に座って杏を手にとった。

「大丈夫。簡単だよ。織田君が来てくれて本当によかった。ご覧の通り、人手はあるがまともな戦力は少なくてね」

「はー、なるほど」

 とまだ言い争っている二人を作之助は眺めた。犀星はあの二人を止めに行ったのだと思ったのだが、どうやらそうでもないらしく、二人の話を黙ってただ聞いていた。向こうの様子には頓着せず、驢馬同人の二人はせっせと杏の種を抜いていく。

「二人とも慣れたはるんですね」

「杏ジャムは去年もみんなで作ったんですよ」

 作之助が言ったのは、どちらかと言うとあちらの喧騒のことだったのだが、辰雄はそんなことを言った。

「……はぁ、そうなんや」

 作之助ものろのろと杏に包丁を当てた。なんだか居心地が悪かった。この人たちは頻繁に集まって、こういうことをしているんだろう。だから、あっちの二人が揉めだしてもこっちの二人は平然として杏を切っている。なんで今回に限って、犀星先生はワシを呼んだんや。せめて、呼んだんならちゃんと相手してくれればいいのにほったらかしやし。作之助は我知らず難しい顔をしていた。もしかして、恋人だと思っているのは自分だけではないのか、というできるだけ考えないようにしていたことが、揺るぎない真実に思えてくるのだった。一夜を共にしたくらいだ、憎からずは思ってくれているだろう。しかし、その気持ちは恋とか愛とか、そういう類のものではない。つまらんなあ。作之助は思った。せっかく手に入れたと思ったのに勘違いやったんか。ずるい人や。ワシのことこんな、本気にさせといて。

 杏の種を取り、手の中でもてあそぶ。芥川の話をじっと聞いている羊羹色の後頭部を見ながら、この種をあのつむじめがけて投げてやろうかしらん。などと思った。まあ、実際にはやらんけど。作之助が眺めているうちに、芥川が犀星に話を振った。

「犀星はどう思うんだい?」

 犀星は腕組みを解いて、おもむろに話しはじめた。

「俺は無学だから、さっき君が言っていたことはよくわからない部分もあるが、」

 そう前置きして話しはじめたのは、犀星の文学論だった。前置きこそ控えめなものだったが、それは堂々とした、鋭い論だった。作之助は杏を手に持ったまま、我知らずじっと聞き入っていた。

 犀星の論陣の張り方は一種独特である。それは一見保身的にすら見える。しかしそのことばは真っ直ぐに、臆することなく真摯に主張する。作之助は犀星の文学論にも、その姿勢にも惚れ惚れとしてしまった。自分ではああはいかないからだ。

 思えばずっと、虚勢を張って生きてきた気がする。虚勢を悟られないために、虚勢を真実にするために、がむしゃらに生きていた気がする。作之助の戦い方では絶対に到達できない場所に犀星はいた。室生犀星に虚ろはない。それは自分とは全く違った、持たざるものの戦い方だった。

 そっと包丁を手から取られて、作之助ははっとした。

「刃物を持ったまま呆けていては危ないよ」

 そう言った重治は、意外に柔らかく笑んでいた。

「えらいすんません」

 慌てて包丁を取り返そうとするが、重治は作之助の手の届かないところに包丁を置いてしまった。

「かまわないさ。犀さんの話に聞き入ってしまう気持ちはよく分かるよ」

「あ、あの、僕が杏に切れ目を入れますから、織田さんは種を抜いていってください」

 辰雄にまで気を使われて、作之助は恐縮した。

「いいからゆっくり聞くといいよ。その方が犀さんも喜ぶだろうから」

 なぜ犀星が喜ぶのか、重治の言うことはよく分からなかったが、耳は勝手に犀星のことばを拾う。作之助はほとんど犀星のことばに酔いしれながら、種を毟った。杏のにおいと、降りそそぐことばが頭の中をかき乱して、作之助は恍惚としていた。

 

 結局、作之助はあまりジャム作りの戦力にはなれなかった。煮詰める作業も犀星や辰雄たちがほとんどやってしまって、作之助は出来上がったジャムを瓶詰めするという、子どものお手伝い程度のことしか出来なかった。ぼとぼととジャムをこぼして瓶詰めする朔太郎よりは、かろうじて役に立ったと思いたい。

 ジャム作りはそれなりに楽しかった。みんな親切だったし、たくさん話もしたが、犀星と話す機会はほとんどなかった。つまり、そういうことだ。犀星は作之助のことを身内の一人として認めてくれているのだろうけど、それだけだ。特別な一人ではない。作之助はそれを認めるほかなかった。

 出来上がったジャムを分けてもらって部屋に戻る時に、作之助は犀星に呼び止められた。

「織田君、今日は来てくれてありがとう」

 作之助はなんだかどきまぎした。

「いやあ、あんまり役に立たへんで、すみませんでした」

「そんなことはない。それより……」

 そう言って犀星は言いよどんだ。作之助は犀星の言葉を待ったがなかなか何も言わないので、

「ほな先生、失礼します」

 と言って、部屋を飛び出した。

 あまり長い時間犀星の顔を見ていられなかった。自分が思うようには相手に愛されていないのだと知って腹が立った。なんだかみじめでさえあった。でも室生犀星という作家はあまりに大きくて、そういった瑣末な感情を抱いたままではいられない。

 文学を語る犀星を見ながら、作之助の感情はぐるぐるととぐろを巻いて、なにか全く違うかたちのものに変わってしまったのだ。それはもはや色恋とかいうロマンチックでかわいらしいものではない。それを超えた何かだ。

 自分の部屋に戻って、作之助は原稿用紙を広げた。左に杏ジャムの瓶を置く。

 これから書くものは、独白であり告白。誰かに読ませるためのものではない。ただ、もし誰かに読ませるのだとしたらそれは……。

 

 朝日が昇るのを煙草をくゆらせながら見て、念のためそれから二時間待った。もうそろそろ起きただろう。作之助は原稿用紙を引っつかんで部屋を出た。

 作之助のノックに応えてドアを開けた犀星はちょっと驚いた顔をしていたが、入りなさい、と優しく作之助を招き入れた。犀星の部屋は朝のにおいがした。窓から入り込む光がところどころ跳ねた犀星の髪の毛を黄金色に輝かせている。

「新しい小説が出来たのか?」

 作之助に淹れたての紅茶が入ったマグカップを渡しながら、犀星は尋ねた。

「いえ、新作は新作なんやけど、評論なんです」

「へえ! それは楽しみだな」

 犀星は目をキラキラさせて手を差し出した。原稿を渡す時、少し手が震えた。犀星は一行読んで、小さくえっ、とつぶやいた。作之助は犀星からそっと目をそらし、マグカップに口をつけた。口の中がカラカラだった。あたたかい紅茶が作之助の緊張を少し解いた。

 犀星は黙って読んでいた。時計の針の音、遠くで鳥の鳴く声、犀星の手の中で原稿が立てるカサカサという音。

「読んだよ」

 犀星はそう言って作之助の目をまっすぐ見て、すぐに逸らした。

「まさか、君が僕について評論を書いてくれるとは思わなかったよ……」

「……昨日、犀星先生の話を聞いてるうちに、どうしても書きたくなって」

「改めて君が僕の作品を高く評価してくれているのが分かってうれしいな。でも、なんだかこれは……」

 犀星は顔を紅潮させてつぶやいた。まるで恋文みたいだ……。

 

 作之助は口を開こうとした。もしそう言われたならなんと答えるか、ちゃんと考えてきたのだ。

 そやないで、先生。確かにそう見えるかも知れませんけど、これは作家の室生犀星について書いただけやから、室生犀星っていう男についてではないんです。そう言って笑う。それで終わり。きれいさっぱり、色んな感情を笑い飛ばして、作之助の恋は今日で終わりだ。

 そう、本当は恋文なのだ。犀星の詩について、小説について、そして人柄について書いたその原稿は、本当はありったけの思いを詰め込んだ恋文なのだ。でも恋していない相手にもらう恋文なんて迷惑だろう。だからこれは評論なのだ。渾身の力で書ききった、織田作之助が思う室生犀星という文学者についての評論なのだ。

 だがいざとなるとそれが言えなかった。嘘を書く商売をしているのに、こんな時にするすると嘘が出てこないなんてなんだか間の抜けた話だと思った。

「それは評論やから……、恋文とちゃいます」

 やっとそれだけを言った。

「違うの?」

「違う」

 うつむいてつぶやくように答えると、上から愛しげな声が降ってきた。

「でも俺は恋人から恋文をもらったみたいでうれしかったんだが」

「恋人?」

 驚いて作之助は顔を上げた。

「それは、先生とワシが恋人みたいってことですか?」

「え?」

 今度は犀星が驚く番だった。

「だって、俺と君は恋人だろう?」

「先生、それホンマに言うてはります?」

 作之助のことばを聞いて、犀星は顔色を失った。

「もしかして、そう思っていたのは俺だけだったのか?」

 それはこっちのセリフやねんけど……。作之助は思った。でも青ざめた犀星の顔を見ればさすがに分かった。

「先生、分かりにくすぎやで」

 作之助はハーっとため息をついた。

「どういう意味だ?」

「先生、ワシのこと全然相手してくれへんやないですか。昨日もやっと会えたと思ったのに、呼び出しといてほったらかしやし。せやから……ああ、先生はワシのこと、なんとも思てないんやなって思って」

 作之助がそう言うと、犀星は「そんなわけないだろ!」と声を荒げた。

「たしかに昨日はせっかく織田君が来てくれたのにロクに話も出来なかったが、それはあいつらが揉めだしたから不可抗力で……。そもそもなんとも思ってないなら、顔合わせなんぞしたりしない!」

「顔合わせ?」

 作之助が聞き返すと、犀星は少し気まずそうな顔をした。

「君と恋仲になったからね、身内には紹介しておかなければならないと思って、昨日はみんなを呼んだんだ。ただ、白さんにはまだ君とのことを言ってなくてね」

 言おうとは思ったんだが。とちょっと申し訳なさそうに言う犀星のことばが、作之助は一瞬理解できなかった。

「え? もしかしてみんな、先生とワシが恋仲なの知ってるんですか?」

「うん。まあ、昨日いた連中には言ってある」

「ひえええ!」

 やっと昨日の重治や辰雄の言動が理解できた。作之助は恋人に見惚れて手元がおろそかになっている色ボケ野郎だと思われていたのだ。

「……迷惑だったかい?」

 犀星はなんだかしょんぼりして作之助を見た。

「迷惑っていうか、そういうのは一応相談してほしいっていうか。……でも、」

 作之助は小さい声で続けた。

「めちゃうれしい……です」

 犀星はほっとした表情を浮かべて、ぽんと作之助の頭に手を置いた。作之助の方が少し背が高いので、犀星は背伸びをしたような形になった。

「いろいろと勝手をして、すまなかった」

「ほんまですよ。二週間もほったらかしにして!」

 作之助はそう言って膨れてみせたが、実のところもう怒ってはいなかった。

「悪かった。でも、その二週間があったおかげで、俺の方も新作ができたんだ。読むかい?」

「先生の新作?」

 そりゃあ、もう、読みたいに決まってますわ! と勢いよく答える作之助に犀星は微笑んで、ちょっと待ってろ、と原稿を取ってきた。

「ワシが一番最初の読者?」

「そうだぞ」

「それはえらい役得ですね」

 恋人に役得って……、と犀星は苦笑したが、作之助があまりにうれしそうだったので何も言わなかった。

 ぺらぺらとページをめくっていた作之助は、最初こそワクワクした様子を隠そうともしなかったが、だんだん頬を赤らめて恥じらい、最後にはうつむいてしまった。

「どうだい? 俺の小説は」

 犀星が感想を求めると、作之助はちょっと目を泳がせた。

「いや、めちゃ……いいんですけど、あの、これって」

「モデルは織田君だよ」

 それは美しくも情熱的な愛の物語だった。ちょっと情熱的すぎるくらいだった。

「なんか、あの、なんていうか……ちょっと、エロくないですか?」

 抒情的な犀星の小説には、もうちょっとおだやかな形容詞を使うべきかと思ったが、作之助が最初に思い浮かべたことばはそれであり、一番しっくり来ることばもやはりそれだった。犀星の表現は決して下品ではなかったが、明らかに淫靡なものを内に秘めていた。

 

「まぁ、それは、……ねえ?」

 そう言って、犀星は窓に近づき、カーテンを閉めた。深い青色に染まった部屋は、急に秘めやかな空気をまとった。振り返った犀星の表情は、まだ闇に慣れない作之助の目では読み取ることができない。

「織田君……」

 そっと頬を撫でられて、作之助は小さく震えた。作之助の目を覗き込んできた時、犀星の瞳が光った。その瞳にいつかの夜と同じ色が灯っているのを見て、作之助は少しうろたえた。

「せやけど、せんせ。今はもう、朝やから……」

 そっと腕で犀星の身体を押しながら作之助が言うと、犀星は肩をすくめた。

「でも君、まだ寝ていないんだろ?」

 犀星はそう言うと作之助の手をとり、さりげなくベッドの方向へ誘導した。

「それならば今はまだ、夜の続きだ」

説明
犀星先生と一夜を過ごしてすっかり恋人気分だったものの、もしかして恋人と思っているのは自分だけなのではと疑う織田君のお話。なんでも許せる人向けです。
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