認知外クラック |
「もうほんと、チ●ポ法、まじ勘弁っす。意味分からないっすよね」
二人の男が食事している狭い部屋、否、本来は広い部屋なのだが、膨大な書類が床に雑然と積まれているため、床面積の二十五パーセントしか空いていない部屋で、眼鏡をかけている男が、唇をミミズのように踊らせながら言った。男の口の中では、コンビニ弁当から移された様々な食べ物が渾然一体であるが、その様子を説明しようとすれば、都の迷惑防止条例に違反する可能性がなきにしもあらずである。
「ほんとになあ、また意味の分かんねーことに税金使いやがってよ、まずてめーらの給料下げろってんだよ、クソ公務員」
眼鏡の男と話している男もまた眼鏡をかけているが、後者の男は、無精髭と薄い頭頂部を携えているため、二人の外観は著しく異なる。何よりも、前者の男は金髪である。
薄い頭頂部即ちハゲの男は
『金髪にしてられるのも今のうちだけだ。いつか、頭皮を痛め付けた自分に後悔する日がやってくるんだゾ』
と、金髪の男を諭してやりたかったが、妬んでいると思われるのが癪であるため、金髪に言及したことはない。ハゲは実際妬んでいるが、その妬みに気付くのは墓に入ったあとである。つまり、ハゲが自分の妬みに気付くことはないのだが、そのあたりの機微については行間に託すことにして、話を進めよう。
「ですよねー」
金髪の男は
『なんで税金の話が出てきたか意味分かんねー。チ●ポ法より意味分かんねー。てかウゼー』
と思ったが、もちろん口には出さずに、四文字で返事した。限りなく透明に近いスルーである。金髪は、早く食事を終わらせてハゲから離れたいと思っているが、金髪の限りなく透明に近いスルーに気付いていないハゲは、寧ろその透明に近いスルーで自己肯定感を補充してしまい、チ●ポ法に関するあれこれを金髪に話し始めた。金髪は自身の悪手を反省し、今度はしっかりとスルーしたが、熱の籠ったハゲの話が止まることはなかった。薄い頭頂部がラジエーターとして機能することはないようである。
「百歩譲って、ネットに蔓延るフェイクニュースへの対応が必要だとしてもだ、なぜ法人にまでその範囲を広げるのか。無能な奴らのやることは本当に意味分からん。税金の無駄! 我々の作る情報に優劣を付けること自体がもう既に言論の自由を弾圧していることに気付かんのか! 無能! 真に無能!」
ハゲが何故ここまでヒートアップしているのか、金髪はなんとなく分かっていた。ハゲの生業である週刊誌記事の作成は、曖昧な情報、匿名の情報、伏字の情報が満載である。ハゲの理念である「火のない所に煙は立たない」に基づいて記事を作成しているようだが、同職種の金髪から見ても、煙を立てているのはハゲである。否、煙ですらない。ドライアイスにお湯をかけた時に出てくるモノのように、あまりに人工的で、たちまち消えてしまう。消えるからこそ、お咎めが無い。
その状況がチ●ポ法で変わろうとしている。
チ●ポ法を利用することで、匿名の情報、伏字の情報に『箔』が付けられる。箔は即ち真実性であり、その真実性は、個人の責任において担保される。つまり、ある情報に誤りがあった場合、その情報を発信した個人は、代償として信用を失うことになる。個人、法人問わずチ●ポ法を利用できるため、週刊誌のような曖昧な情報を発信している企業にとっては、今後の存続に関わる問題になる。そのような企業は真っ先にハゲのようなライターを見限るだろう。髪だけでなく、収入まで無くしてしまったハゲに残る希望が見当たらない。金髪は、ハゲの行く末を少しだけ哀れむことにした。
「先輩、逆に、チ●ポ法の闇を暴く的な記事はどうっすか? 今なら需要爆裂っすよ」
金髪がなけなしの優しさを奮い立たせて進言すると、ハゲは「なるほど……メモしておこう……」と呟き、手帳を取り出してページを捲り、ペンを構える。
「……チ●ポ法って、なんて言うんだっけ? 正式」
ハゲが問う。
「知見の信頼性を担保するために講じられる調査に関する法律っす」
金髪が即答する。
ハゲは二回瞬きをしたあと、『チンポウ』と丁寧に書いて、手帳を閉じた。
メトロノームのように単純作業を繰り返す親指が、タイムラインを弾き落とし続ける。
見飽きたプロフィール画像と、どこかで読んだことがあるような文字列がザァザァと降っていく。
一瞬、見覚えのないプロフィール画像と、物騒な文字が見えた気がして、タイムラインを戻してみると、知り合いがリツイートしたものが現れた。
※
●山●美 @●●t●s●●●o 201●/12/03 23:36;42
友だちが殺されました。
犯人は今も普通に暮らしています。
人を殺しても捕まらないのはなぜですか?
本当に悔しいです。
友だちのお母さんは毎日泣いていて、とても辛いです。
頭がおかしくなりそうです。
誰でもいいので助けてください。
※
●山●美のことはまったく知らなかったが、なんとなく気になり、元ツイートをタップした。
そのツイートは二千回以上リツイートされていて、心配の言葉やアドバイスが多数返信されている。●山●美は、その心配やアドバイスに応える形で、ツイートを繰り返していた。そのツイート内容から、●山●美が女子中学生であることや、住んでいる場所、通っている学校などの大まかかな情報が推測できた。
個人情報に近いツイートを連発している●山●美のことを『幼い』という単語ひとつで処理してしまった僕は、他のユーザーと同様、●山●美にアドバイスしたくなった。
まず、個人が特定されるような情報の発信を控えること。
次に、個人が特定されるようなツイートを速やかに削除すること。
最後に、ネットではなく弁護士に相談すること。
●山●美は、僕のアドバイスにもしっかりと応えた。
間もなく、●山●美は、個人情報に近いツイートをすべて削除して、「専門家に相談します」というツイートを最後にして、発信しなくなった。
※
正月に帰省して、めぼしい友人との会合も終わり、特にすることもなく実家のベッドの上で仰向けになりダラダラと親指だけを動かしていた僕は、寝返りしながら、ふと●山●美のことを思い出した。●山●美のツイートをタイムラインで見なくなっていたので、すっかり忘れていた。フォローしておいた●山●美のアカウントを見ると、アカウント名もプロフィール画像も変わっていた。個人情報に配慮したのだろう。
気になったのは、そのアカウントが鍵付きになっていることだ。●山●美が何かしらの炎上に巻き込まれてしまったのではないかと心配した僕は、思い出せる範囲で、●山●美がツイートしていた事件について検索すると、いくつかのまとめサイトがヒットした。どのまとめサイトにも●山●美の名前が伏字で表示されている。
さらに検索を絞り込んでいくと、僕が心配したとおり、●山●美の個人情報を特定したサイトが見つかった。そのサイトでは、●山●美がツイートしていた事件の犯人も特定されていた。
犯人は警察幹部の息子であり、二十四才のニートであること。有名私立大学を卒業したが、就職に失敗して、引きこもり生活をしていること。犯人は●山●美の友人を惨殺したのち、コンクリートに詰めて海に捨てたこと。警察幹部である犯人の父親が事件を揉み消していること。
犯行の詳細は、読んでいるだけで虫酸が走った。
僕は、●山●美の現況を慮りながら、犯人に天罰が下ることを願った。
※
半年後、ネットニュースに犯人の名前が載った。
殺人事件の『被害者』として。
同姓同名の人物かと思ったが、記載されている場所や犯人の年齢など、すべてが一致しているため、●山●美の友人を惨殺した犯人であることは疑いようがなかった。
犯人を殺害したのは複数の人間で、殺害直後に全員が自首したようだ。
彼らは「人として当然のことをしただけ」と供述している。
彼らが、どのような経緯で犯人を殺害するに至ったのか、想像すらできない。
彼らが、自分の人生を捨ててまで貫いた正義を、感激の涙で迎える者が、きっといるのだろう。
僕は、彼らの正義を許容できないが、非難もできない。
彼らは、僕らが見て見ない振りをした大きな亀裂を、誠実に埋めようとしただけなのだ。
ところで、●山●美は、どうなったのだろう?
あの凄惨な事件をきっかけに制定された悪名高き知見担保法(通称なんだけどね。正式名称は「知見の信頼性を担保するために講ずる調査に関する法律」。蔑称、チ●ポ法……)であれば、たくさんの人が知ってると思うけれど、片や『知見調査士』のことになると、知らない人が途端に多くなる。一応、国家資格なんだけどね……。
誰でもネットが使えるようになって、わざとじゃないにしても、嘘の情報を拡散することに加担する機会が一気に増えてしまって、それで起きてしまったあの五年前の凄惨な事件。
悪意のあるネットユーザーが、自分の恨みを晴らすため故意に作成した、特定の個人に関する嘘の犯罪情報(ある男性が女子中学生を蹂躙したのち残酷な方法で殺害してコンクリートに詰めて海に捨てたけど、警察幹部の息子だから犯罪が揉み消された、っていう嘘の情報)。その情報を信じてしまった一般の人たちや大手の週刊誌が、情報の信頼性を精査しないまま、伏字で拡散を繰り返しているうちに、「公的な罰を与えられないのなら、私刑しかない」と考えた確信犯たちが個人情報を特定してしまって……。
その確信犯たちが、無実の男性を拷問して殺害したのが、五年前。
それまでにも、ネット上のいざこざが殺人事件に発展してしまったケースはあったけれど、ここまで多人数を巻き込んで、しかも間違った情報で、無実の人間が殺害されてしまったケースは世界で初めてだった。
否応無く、ネット情報の信頼性に対応しなければならなくなった日本が喧喧囂囂のなか制定した知見担保法で、伏字や匿名で作られた情報の信頼性を個人が担保できるようになった。
担保するだけでは何の解決にもならない、という批判はごもっともで、情報の正確性を調査するため、知見調査士が存在してる。
さて、長々説明してる僕は、第一回知見調査士資格試験の合格者で、今、特許庁の採用試験の最終面接を受けてる最中(知見担保と特許の事務処理の流れは似てるから、知見担保に関する業務は特許庁に割り振られてる。特許庁はたまったもんじゃなかっただろうね)。
「??それでは、最後になりますが、これは、答えたくなかったら答えなくても大丈夫です」
微笑んでいた面接官の表情が少しだけ厳しくなった。
「はい」
「……●●●●さんの、弟さんですか?」
五年前に殺された兄の名前。
思い出して、目の周りが熱くなった。
「はい。兄のような被害者を二度と出さないために、一生を捧げます」
怒りか、悲しみか、正義感か、自己陶酔か。
たぶん、全部。
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ネット社会の亀裂に落ちてしまった人たちの、お話。 | ||
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