Blue-Crystal Vol'06 第一章 〜託宣〜
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 そこはまるで、激しい市街戦が繰り広げられた後のようであった。

 木々は悉く薙ぎ倒され、地面に積もった雪は抉れ、長きにわたって顔の出すことのなかった土があちこちに露出している。

 雑然と荒れ果てた石畳の道、その両端に立ち並ぶは半ば瓦礫と化した家屋の数々。

 そして、地面に横たわる数多の人の亡骸に混じるかのように、数少ない生存者が地べたに、または手頃な瓦礫の上に力なく腰を下ろし、この光景を前にただ呆然としていた。

 ある者は肩を落とし、ある者は膝を抱え、またある者は項垂れて。

 姿勢や態度は違えども、彼ら生存者の胸中に到来する感情は同じであった。

 その感情とは──虚無感。

 どれだけの生存者がいるかもわからない。どれだけの被害が発生しているかもわからない。だが、それらを確認しようとも、家族や恋人、友を喪った衝撃で立ち上がる気力すらもわかぬ。

 復興への道筋は見えず、誰もが途方に暮れていた。

 この絶望の底に堕ちた街──その名はセルバト。

 ルインベルグの真南、徒歩で一日ほどの場所に位置するこの街は、そのルインベルグにて突如起こった異変の影響を最も受けた場所でもあった。

 その異変による破壊を人は──その際に発せられた現象になぞらえ──こう呼び、畏れた。

『閃光』と。

 かの地に長く留まり肥大を続けた『魔孔』に内在する魔力が限界点を迎え、暴発。それにより、周囲に大きな破壊をもたらした『閃光』は、事実上ルインベルグ大聖堂を牛耳っていた一派の暴走によって引き起こされた。

 他国からの武力介入を防ぐため、弱みになりかねぬ『魔孔』依存体制を止めさせるべく、巫女制度の撤廃を求める騎士団と、巫女による『魔孔』封印の実績によって権威が保たれている都合上、制度を手放すことのできぬ大聖堂。

 両者の主張が真っ向から対立。武力衝突も視野に入れた騎士団が、北教区の都市を次々と調略、或いは制圧。このままルインベルグへ攻撃を開始するかと思われた矢先、大聖堂から交渉の申し出があったという。

 ──しかし、これが罠であった。

 大聖堂に交渉する意志など最初からなかったのだ。

 全ては『閃光』を──『魔孔』の暴発による破壊によって、包囲する騎士団を殲滅させることが目的であったのだ。

 交渉をちらつかせたのは、一時的に騎士団より戦うために振り上げた手を降ろさせるための方便。『閃光』を発動させるための時間稼ぎに過ぎなかったのだ。

 言うなれば、約束された破滅。

 この事実は誰も知らぬ。復興の道筋どころか、今日を生きる方法すらもわからぬ今、その真実を追求しようなどと思う呑気者など、このセルバトのみならず他の被害に遭った街ですらも、誰一人として存在してはいない。

 それだけ、被災した者達の失望は深く、重い。

 セルバトはルインベルグほどの豪雪地帯ではないが、年中降雪が見られる街。ゆえに季節による変化は少なく、その空は常に暗い雪雲によって覆われている。しかし、地上では違う。かつては多くの人が集い、この暗い空がもたらす寒さにも負けぬほどの人々の温もりに満ち、豊潤なる生命の芳烈に酷似した生活の営みが育まれていた。

 しかし今、その温もりに満ちていたはずの地上を支配するは喩えようのないほどに暗く、重く沈んだ気配。敢えて言葉として表現するならば──死というものを強烈に直感させる朽ちた臭気を伴った瘴気とも言うべきであろうか。

 そんな荒廃の果てにある街に訪れた、珍しく雲の少なき昼。薄雲の先に浮かぶ太陽が天空の円屋根を飾り、地上の荒廃を照らし出していた。

 街中を流れる河、水面は陸地より流れ出た土砂によって黒く濁り、そこにもう一つの太陽が輝いたかと思うと、流れに映る銀色が二つ、三つと数を増し、遂には十を超えたかにも見えた。

 河に架けられた橋の上を歩く騎士の一団であった。周囲の荒廃とは対照的に、その装いは上質なものばかり。高名な職人によって精錬された金属をこれもまた高名な鍛冶師によって鍛えられた代物である。

 水面に映った輝きとは、彼らが纏う甲冑が放つ光であったのだ。

 その煌びやかな姿に、通りで蹲る者達も思わず顔を上げた。だが、その視線は程なくして怪訝めいたそれへと変じていく。

 彼らの纏う甲冑の意匠が、この国の騎士団が正規に採用しているものと異なっていたがゆえに。

 再び彼らは目を伏せた。

 救助の手ではない──そう、思い込んで。

 だが、彼らは知らなかった。

 この一団こそが、真の意味における人々にとっての救いの手であるということを。

 一切の事情を知らぬ一市民に過ぎぬ彼らが、知るはずもなかった。騎士達の胸に輝く紋章が現在、ラムド国に支援を行っている大国、鷲獅子国のものであるということを。

 程なくして、騎士達は今来た道を振り返った。その目には真摯な輝きに満ち、また同時に悲壮な思いを抱いた覚悟すら窺える。

 その視線の先には甲冑を纏った人物が三人。騎士と同じ意匠の装いをした者が左右に二人。そして、その二人を護衛に従え中央を女が歩いていた。

 材質こそ同じ上質の代物でこそあったが、胸当てと籠手、脛当てのみといった最低限の防具。盾は携えておらず、腰には剣を佩くのみといった、騎士としては比較的軽目の装い。

 兜は身に着けておらず、その端正な顔が露わとなっていた。

 一陣の風が吹き抜け、背には長い銀色の髪が緩やかに靡く。

 その姿を視認した騎士達は直立不動の姿勢を取り、敬礼して到着する女を出迎えた。

「お疲れ様です。エルシェ公女」

「街の状況は?」

 エルシェと呼ばれた銀の女がそう言うと、騎士達は口々に報告を始めた。

「街の被害は他と比べられぬほどに甚大なものにございます。駐留していたラムドの騎士達も『閃光』による破壊によって半数以上が死亡。生存した者の多くが負傷しているため、一月ほど経った今も被害の規模、死者や生存者の数の把握すらできぬ有様とのこと」

「この混乱に乗じて『聖皇庁』も活発に動きを始めているそうです。我々が確認できた範囲内ですら、奴らによる被害件数は既に三桁にも達しており、事態は深刻化の一途をたどっております」

「そのためか、街の聖堂が負傷した市民向けに施療院の解放や食料の支援を行っておりますが『聖皇庁』の活動の影響によって積もった不信感ゆえ、彼らの救いや施しを受ける者は少ないとのこと。なかには『支援を受けることと引き換えに、娘を差し出さねばならない』などという流言すら飛び交っているとのこと」

 次々ともたらされる暗い内容の報告に、エルシェは思わず嘆息する。

「この寒冷地で風雪を凌ぐ事すらままならず、暖を取る手段と言えば壊れた廃材を燃やして焚火する程度のもの。その上、食糧すら十分に行き渡らぬとあれば彼らの健康面の問題が懸念されるわね」

「他の街と同様、ひとまず生存者を安全な南部へ移送するための手配をしているところですが、北部の各都市に駐留している騎士隊が保有している馬車を掻き集めたところで数が足りません」

「その件については私に任せて」エルシェは言った。

「北教区の都市シーインに拠点を置くメルジェシフ商会が数多くの馬車を保有していたはず。食糧支援を含めて協力を仰げないか交渉をしてみるわ。余所者の私たちがしゃしゃり出てきていることに対しては不評を買うでしょうが、事態は一刻を争うからね。『閃光』による被害と騎士団の壊滅に混乱を来した王家や議会が機能不全に陥った今、背に腹は代えられないわ」

「──では、すぐに出立を?」

「そうね。でも護衛は最低限で構わないわ。あなたたちは引き続き被害状況の確認と……」

 言いかけ、エルシェは表情を曇らせた。

 その意図を察し、一団を率いる騎士が小さく頷いた。

「……わかっております。アイザック殿らの捜索も、ですね」

「ええ。お願いするわ」異国の公女は奥歯を噛んだ。

「『閃光』が発せられた際、彼らは最前線──爆心地の程近くにいたはず。生存は絶望的なのかも知れない。それでも……」

「御意」騎士は言葉少なに返答した。

 いくら慰めの言葉を弄そうとも、その苦しみは軽くならぬ。エルシェの胸の内を察し、その思いを汲むがゆえの配慮であった。

 そして、その配慮は確かにエルシェにも伝わった。

 礼の言葉を述べるため彼女が口を開こうとした──その時だった。

 被災地の空を支配する重く沈んだ静寂を、女性のものと思しき悲鳴が引き裂いた。

「何事だ!」

 耳を劈くほどに響きわたった声に、ただならぬ事態を察した騎士達はたちまちのうちに騒ぎはじめる。

「……落ち着きなさい」

 誰もが色めき立つなか、エルシェだけが冷静であった。

 ふためく部下たちを穏やかな声で制する。

「『閃光』によって街の外壁のあちこちが崩れていたわ。そこから小型の魔物の類が闖入してもおかしくはないわ。或いは、治安の混乱に乗じて動き始めた盗賊や暴漢の類か、或いは『聖皇庁』の連中か──いずれにせよ、私たちが総出で対処すれば解決は簡単よ」

 そう言うとエルシェは声のした方向を目指し、先陣を切って走り出した。

 この突然の行動に部下達は面食らうも、そこは列強の騎士。即座におのが為すべきことを思い出し、一瞬遅れてエルシェの後を追いかけはじめた。

 悲鳴の主を救助するために。

 この時、彼らの胸中には当初の狼狽や当惑は完全に消え失せていた。冷静かつ沈着に、おのれの任務に邁進するための心構えが完成していた。

 しかし、彼らはいまだ知らぬ。だが、いずれ知ることとなる。

 この絶望の地でのささやかな善意──救助という行為が、思わぬ幸運を呼び寄せることとなることに。

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 被災地の空にゴブリンの首が舞い上がり、放物線を描く。

 切断面より血の尾を引きながら空を舞うそれは、やがて土が剥き出しとなった地面へと墜落。喩えようのない音とともにひしゃげ、無様に変形する。

 同時に、その周辺に立つ別の数体のゴブリンが一斉に威嚇の咆哮をあげた。

 仲間を殺されたことに対する怒りか、或いは単に血を見て興奮をしているだけかはわからない。その士気は一切萎えることはなく、敵となった人間に向けて剥き出しとなった害意の視線を向け続けていた。

 魔物たちが向ける数対の視線──その先に立っているのは全身を黒装束で包んだ男。フードを目深に被っているがゆえに、その顔を視認することはできぬ。

 手には剣が握られていた。下段に構えられた両手持ちの大剣。刀身は今しがた切り捨てた魔物の鮮血に染まり、地面へと向けられた切っ先より、ぽたぽたと滴り落ちる。

 その獲物は一般に流通している武具のような粗悪な代物ではない。

 騎士の剣。宮廷が抱える剣鍛冶師によって鍛えられた、上質の業物であったのだ。

 一陣の風が吹き抜ける。それは自然の風ではなく、人工的な風。黒装束の男が振るう剣によって引き起こされた陣風。

 まるでそれに巻き上げられるかのように、また別のゴブリンの首が宙を舞う。

 濁った赤の飛沫が荒廃したセルバトの大地を汚す。こうして一匹、また一匹と斃され、屍山となり血河の源泉と化していく仲間たちの姿に、ゴブリンたちの苛烈な敵意もすっかり鳴りを潜め、次第に尻込みを始めていた。

 こうして起こった心理的な隙を黒装束の男は鋭く察知した。

 戦意が萎えたということは、戦いへの意志が無となったということ。意志を失った戦士は凡夫も同然であり、これを切って捨てるのは容易い。

 程なくして、黒装束を囲んでいた魔物の群れは一匹残らず地に伏した。腹より、喉より、或いは胸より鮮血と内臓を吐き出しながら。

 瞬く間の出来事であった。蹲り、助けを求めるための悲鳴の主であった女ですら、おのれが助けられたという事実に気付けぬほどに。

 次の瞬間、我に返った女が礼の言葉を述べようと口を開こうとするも、その時は既に男は姿を消していた。

 ──まるで風に掻き消されたかのように。

 

 悲鳴を聞きつけ、救助に向かっていたエルシェら鷲獅子国の騎士が到着したのは、黒装束の男が去ってより数刻も後のことであった。

 まさしく修羅場の跡。悲鳴の主と思しき女は血の海の中心に座り込んでおり、呆然と虚空を眺め続けていた。彼女を除いて息ある者はおらず、血に濡れておらぬ骸もまた皆無。首と胴、腕と肩、足と腰の切り離された死体も無数。これらは全てゴブリンと思しき魔物の骸であり、そのいずれも、女の周辺で力なく地に伏し、果てていた。

 エルシェの部下である騎士の一人が嘔気をこらえ、惨状に嘆息して言った。

「なんたる有様。これほどの魔物が街中に闖入していたとは」

 別の騎士がこれに答えた。

「しかし、女性は守られました。誰が魔物を討伐したかはわかりませんが……」

 エルシェは呻いた。血の海に浮かぶ魔物の死体に歩み寄り、致命傷と思しき胸の傷口を検分する。

「剣の一突きで仕留められたみたいね。切れ味の鋭い上質の得物によるものか、或いは何かしら正規の訓練を受けた人間の仕業か……」

 恐らく『閃光』によって壊滅したセルバト騎士隊の生き残りであろうか?

 仮にそうだとしたら、その者を保護せねばならぬ。現地に駐留する騎士隊の生き残りならば、『閃光』時の街の状況や、他の生存者のことなど、貴重な情報が手に入るかも知れぬ。

「まずはこの女性を保護いたしましょう。可能ならば、彼女より魔物を討ち倒した戦士の情報を聞き出すのです」

 エルシェは決断を下した。そうして、供の者たちに告げた。

「そして、その者を捜索し、保護をいたします」

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 ──二日後。

 セルバト郊外に設営された、エルシェらの野営地。

 そのうち最も大きな天幕の下、エルシェは一人の騎士より報告を受けていた。

「──居場所を掴んだのですか?」

「ええ」報告者は言葉少なに答え、頷いた。

「街の者より聞くところによると、どうやらその戦士は『黒騎士』と呼ばれ、評判となっているようです」

「黒騎士?」

「その二つ名は戦士の風体に由来しているのだとか。まるで『聖皇庁』の白装束に対抗するかのような黒い衣装に身を包み、壊滅したセルバトの騎士に代わって街に闖入した魔物を狩って回っているのだとか」

「正体は判明しているのかしら?」

 エルシェは怪訝そうな表情を浮かべ、問うた。

 だが、問いを受けた報告者は小さく首を横に振る。

「目撃した者、或いは実際に魔物に襲われたところを救助された者を探し当て、情報を集めてはいるのですが……証言する者によって黒装束の風体に関する印象が一致せず、我々もいまだその人物像を掴みきれずにおります」

「それはどういうことかしら?」

「中肉中背の青年のようだと語る者もいれば、一方で小柄な少女のようだと語る者もおりました。そのいずれも一瞬だけの目撃、或いは魔物に襲われた混乱のなかでの目撃であり、誰もが確証があっての証言ではないとのこと」

「なるほどね」

 エルシェはそう呟き、右の人差し指で軽く頬を掻いた。

「では、その黒騎士とは複数人存在する可能性もあるという訳ね」

「ですが、それは俄かに信じがたい」

 報告者たる騎士は私見を口にした。

「こんな荒廃した──騎士隊も機能していない街で好き好んで魔物討伐など酔狂な真似など、誰がするというのでしょうか?」

 ──この騎士の言葉は正鵠を射たものであった。

 事実、このラムド国において魔物討伐を生業としている者は確かに存在している。

 国に仕える騎士や、行商人の護衛を務める傭兵などがその代表例。

 彼らは国家や王家からの褒賞、或いは契約を交わした雇い主からの報酬──金銭の授受によって日々の生活を成立させているのだ。

 だが、今のセルバトの街は騎士隊が事実上の壊滅状態。治安や秩序を維持するために必要な武力が存在せぬ状況。無法地帯と化していた。

『閃光』によって命を落とした人間の死肉を求める魔物、或いは瓦礫の山より食料や金品を漁るならず者の天国。これら盗掘者どもが勝手に決めた縄張りのため、或いは一欠片のパン、はたまた一欠片の肉片を巡って人や魔が血で血を洗い、互いの命を奪い合う魔境。

 そんな荒廃の果てにある街、命の保障すらされぬ場所に行商人など寄り付くはずもない。

 商人とは言い換えれば正規なる取引の番人。彼らの存在なくして経済の秩序は維持できぬ。貨幣の価値は意味をなさぬ。

 そんな状況下にあるセルバトにおいて、魔物討伐という名の『産業』が成立することはない。魔物相手に命を張ったところで、何一つ得となるようなことなどないのだ。

 黒装束の戦士がどのような素性かはわからない。だが、ゴブリン程度ならば問題なく討伐できるほどの腕前、もっと治安の安定した地方へ移れば糊口を凌ぐことは容易い。余程の理由がない限り、こんな無秩序な街に留まる理由などない。

 そう。余程の理由がない限りは──

「……やはり、セルバト駐留隊の生き残りなのでしょうか?」

「それは考えにくいわ」

 異国の公女は部下の予想を否定した。

「魔物や無法者たちの活動を抑制したければ堂々と騎士の鎧を身に纏って、存在を強調したほうが効果的よ。わざわざ正規の騎士が素性を隠さなければならない理由がないわ」

「確かに……」

「──活動の動機なんて、本人のもとに直接出向いて聞いてみれば済むことじゃない。居場所の絞り込みはできているのかしら?」

「はい。北の貧民街にある一軒のバラックに出入りしている姿が何度も確認されているそうです。恐らくそこが黒騎士の活動拠点となっているものと考えられます」

「黒騎士と接触できないかしら?」

 エルシェは言った。

 この突然の発言に報告者は思わず目を瞠り、思わずその意図を尋ねた。

「セルバト駐留隊の者達ではないのでしたら、接触を図る必要などないのではありませんか?」

「魔物の身体に刻まれた傷──あれは、騎士の剣によってつけられたものよ。だが、その者はセルバトの騎士隊の人間でないのならば、果たしてそれは誰なのか気にならないかしら?」

「まぁ……それは」騎士は言い淀みつつも、肯定した。「確かに」

 彼女は予測する。

 それは恐らく、あの災厄の、真の意味における生き残りではないかと。

 即ち、『閃光』の間近に立っていた人間。ルインベルグとの交渉のため、アイザックらと同行していた隊にいた人間であろうと。

「確か、その隊はオルク卿をはじめとしたラムド国騎士団の中でも精鋭中の精鋭。それならば全てに合点がいくわ」

 魔物に致命傷を与える、その手際も。

 この街に留まって、人々を魔物の脅威から守り抜いているということにも──

「黒装束を纏って身分を隠すのも、先の任務の失敗を恥じているからと考えれば矛盾はないわ──可能性は薄いかも知れない。それでも接触を図って確認をする価値はあると思う」

「なるほど。そういうことならば」

 騎士は得心し、頷いた。

「今、我が隊の者が監視を続けております。まずは彼らと合流いたしましょう。ご案内いたします」

 騎士は一礼し、エルシェを先導するために踵を返し、歩き出す。

 その背中に、異国の公女は語り掛けた。

「ええ。よろしく頼むわね」

 

 数刻後、エルシェの姿は一軒の廃屋のなかにあった。

 セルバトの街の北西の外れ、かつては貧民街と呼ばれた場所。

 今は他の地区と同様、『閃光』がもたらした衝撃により大半が瓦礫の山と化していた。

 しかし、そこは大半が定住の持たぬ貧者や流れ者で構成されている貧民街。その逞しさゆえであろうか、あれだけの災厄に見舞われていたにも関わらず、今やあちこちにバラックや掘っ立て小屋の類が散見され、微かではあれども人々の営み、生活の匂いが再生しつつあった。

「……それで、あの黒装束の男の住処というのは?」

 エルシェは廃屋の中で合流を果たした仲間たちに声をかける。

 隊のうちの一人、壁際に立っていた男が彼女の問いに応じ、場を譲る。

「──こちらにございます」

 男が場を譲ると同時に、廃屋内に吹き抜ける空気の流れが著しく変じた。

 背後には壁の亀裂があり、その先には外の風景が広がっていた。

「この亀裂より隣の小屋の窓が見ることができます。その小屋こそが黒装束の拠点となっている小屋であるとのこと」

「どれどれ……」

 言われるがまま、エルシェは壁の亀裂を覗き込む。

 亀裂の隙間から垣間見えるは、通りを挟んでの斜向かい──少し離れた場所に位置するバラック小屋の窓。

 位置の関係上、室内全てを覗き見ることはできない。だが、あらかじめ室内の人間が、この壁の亀裂のことを知らぬ限り覗かれていることには気付くことはないだろう。この亀裂は、そんな絶妙な角度にあった。

 まさに、張り込んで観察するには絶好の場所と言えよう。

 この幸運に満足げな笑みを浮かべるエルシェに場を譲った男が抑えた声で告げる。

「先ほど室内に黒装束の男が入ったところを確認しております」

「……素顔は確認できているの?」

「いえ、そこまでは。なかなか窓際に寄ってこないものですから」

「私たちのこと、感づかれたのかしら?」

 覗き見を続けつつ、エルシェは小さく唸った。

「正体を隠しながらの生活を送っているんだから、周囲に対する警戒心は相当なものよね。そう簡単に素顔が判明する訳がないか」

 こうなれば持久戦か──そう、彼女が覚悟を決めたその時。

「──!」

 彼女が監視を続けている窓に、フードが除けられ、その頭部が露わとなった人の姿が現れたのだ。時間にして一瞬のことであった。だが、姿のおおよそを察するには十分な時間。

 長い髪の女と思しき後ろ姿であった。艶を帯びた長い黒髪の女。

 大柄でもなければ小柄でもない。一見すると凡百な女の後ろ姿のように見える。

 にも関わらず、彼女が示した反応とは──括目。

 瞬時にして、エルシェの視線はそんな凡百な女の後ろ姿へと釘づけとなっていたのだ。

「まさか……」

 形の良い唇より、小さく声が漏れる。

 ──エルシェはその姿に見覚えがあったのだ。

 だが、彼女はその見覚えを即座に否定した。

 そんなはずはない、と。

 単なる錯覚だと自分に言い聞かせる。脳裏に浮かんだ甘い期待を打ち消さんと躍起になる。俄かには信じられぬと言わんがばかりに、何度も何度も首を横に振る。

 エルシェの脳裏をよぎったその人物は──もう、この世に存在してはいないはずなのだから。

 肥大を続け限界点を迎えた『魔孔』が『閃光』を発して暴発をした瞬間、彼女はその爆心地にいたはずなのだから。

 このセルバトは爆心地たるルインベルグより徒歩で一日程度の位置に存在する。これほど距離を離しているにも関わらず、街は壊滅的な被害を受けているのだ。爆心地に立っていた人間が受けた衝撃の威力たるや、どれほどまでに凄まじいものであったかなど想像に難くない。

 脆弱な人間ごときが耐えられる類のものではないはずだ。

 それが理。

 万人が聞けば万人が納得するであろう明々白々な理である。

 エルシェとて世界屈指の大国・鷲獅子国の代表者として騎士団を率い、ラムド国に協力している人物。理を解せぬような愚鈍では務まらぬ。

 だが──

 それでもエルシェは抑えきれなかった。

 理に反した、甘く愚かな願望を。

 際限なく膨れ上がっていく期待を。

 希望を、冀望を、庶幾を、念願を、渇求を、希求を、冀求を。

 いくら理性で抑え込もうとも、心の奥底に力強く根付いている希望──一人の人間として、友の無事、生存を願う思いなど完全に封殺することなどできなかったのだ。

 それはまさに否定という名の冷たき石畳の隙間より芽吹き、萌え出んとする草花のよう。

 そんな思いが涙へと姿を変え、エルシェの瞳からあふれだす。

 もはや我慢できぬと言わんがばかりに、彼女は声を絞り出した。

 あの後ろ姿に重ね見た友の名を。

 必ず助けると誓い、無事を願った掛け替えのない人物の名前を。

 ──アイリ、と。

 

 宙を舞った小さな固パンの欠片が床の上に座する少女の手の中に落ち、それは程なくして口へと運ばれる。

 その日の食事はこれで終わりであった。

「──ありがとうございます」

 だが、少女はこの境遇に対し、一切の不満を口にはしなかった。自分に向けて食べ物を投げてよこした黒髪の女に礼の言葉を述べるのみ。

 揃いの黒装束を身にまとった黒髪の女へと──

「……ごめんね」

 そんな少女の健気な感謝に、黒髪の女は謝罪の言葉で返した。

「もう限界なのかも知れないわね。魔物に襲われた市民達を助けるかわりに食べ物を分けてもらうなんて。こんな、まるで物乞いみたいなこの生活も……」

「──弱音は吐かないって約束だったじゃないですか」

 少女は声を重ね、女の言葉を遮った。

 

 

「騎士見習いと僧侶崩れの我々が農民の真似事をして荒れたこの地を耕したとて、収穫までの間、一切飲まず食わずで過ごすわけにはいかないですし──そもそも種籾すら持っていないではないですか。結局、今の私たちは戦うこと以外に、ここで生き抜く術を持っていないのですよ」

 それに、と少女は続けた。

「私たちだけでも生き残っただけ、命があっただけでも運がよかったと思うべきです。そうではありませんか?──アイリさん」

「……そうね」

 黒髪の女──アイリは力なき声で言った。

 生気の薄い顔に、穏やかな笑みを浮かべる少女クオレの顔を一瞥する。

「ここで挫けては、死んでしまった騎士団のみんなや──養父さんも浮かばれないからね」

「そうですよ。それに食べているときくらいは嫌なことを忘れましょう。そんな気分で食べていたら、せっかくの食事の機会が勿体ないですよ」

 励まされ、ようやと笑顔を取り戻したアイリが手にしたパンの欠片を半分に千切り、その片方を口の中に放り込んだ。

「私たちまで暗い顔をしていたら、帰ってきたアイザックだって嫌な気分になるだろうからね」

 そう言うと、彼女は残した欠片を粗雑な卓の上に置かれた皿の上に置くと、クオレが座する床の右側の壁際へと腰を下ろした。

 程なくして横になり、目を瞑った。途端、寝息をたてはじめる。

「アイザックさんが帰ってきたら起こしますね」

 クオレは優しく声をかける。だが、すでに夢の世界へと旅立ったアイリに届いたかどうかはわからない。

 だが、彼女は気にしなかった。

 口にする食糧にも困っているこの状況下において、惰眠は空腹を紛らわせ、体力を温存させることのできる絶好の時間潰しなのだから。

 クオレは口の中に残る、パンの後味を感じながらもう一人の仲間の帰りを待つ。

 今頃、その仲間──アイザックは人々を助けるために、同時に助けた人々より食べ物を分け与えてもらうために、魔物と戦っているはずなのだから。

 無事に帰ってくれると信じている。

 セルバトの地は寒冷地にある。食人鬼や巨人類のような強靭で大型な魔物の生存には適した土地ではない。

 周辺に生息しているのはゴブリンやコボルトといった小型の魔物が精々。そんな下等な魔物を相手に、見習いとはいえ騎士として訓練を積んでいるアイザックが後れをとるはずがない。

 ──だが、彼の状態は今の自分達よりも悪い。

 男性であるアイザックの筋肉量は当然、女性であるアイリやクオレよりも多い。そして、それを維持するために必要な食事量もそれに比例したものが求められるが、今の彼らに十分な食事量を確保することなどできぬ。

 この食料難な状況下において、彼の衰弱ぶりは他の二人よりも激しかったのだ。

 その衰弱が、体力の低下が彼に万一の事態を引き起こさぬとは限らぬ。だが、だからといって彼を温存させようとすれば食料の稼ぎ手が一人減ってしまうこととなる。今のクオレ達にそれによる穴を埋め合わせる余裕などなかった。

 当然、倒した魔物を食すことなど論外である。

『魔孔』の魔力にあてられ、奇形してしまった野生動物の変異種の肉ですら、誤食してしまった者をその毒気によって精神を汚染し、狂気へと陥らせるほどの威力を有するのだ。『魔孔』の中の異世界からやってきた──『魔孔』の魔力に完全に馴染んでしまった生物の肉など、どうして人間が食すことができようか?

 この街から抜け出し、まだ食料が豊富な南部へと逃れようにも、その旅路に必要な水や食料すら確保できぬ。

 王都に窮地を知らせるための手紙を誰かに託そうとも、無法地帯と化したこのセルバトに商いに訪れるような物好きな行商人などいるはずもない。

 完全な八方塞がりの状態であった。

「……いけない」

 クオレは思わず頭を横に振り、脳裏に絡みつく暗い考えを払う。

「アイリさんに暗い考えに陥らないよう諭したばかりなのに」

 だが、それだけ追い詰められているのも事実。

 アイリの言う通り、この生活も限界に達しようとしていたのだ。

 先ほど、アイリを激励し、現実より目を逸らせようとした張本人ですら、油断すると同じ悩みに陥らせるほどに。

 原因はわかっていた。

 いくら励ましの言葉をかけようとも、その言葉の裏付けとなる根拠──即ち、生存への可能性が極めて乏しかったのだ。

『魔孔』の暴走により、恐らく王都では自分達──ルインベルグへ向かった交渉隊の生存は絶望視している事だろう。

 交渉を優位に進めるための圧力として、ラムド騎士団の半数以上をルインベルグへ向かわせたことが裏目に出た形。ましてや今、ラムドは大国・鷲獅子国の介入を許してしまっている現状、これ以上の兵を自分達の捜索に割くとは思えぬ。

 もし、捜索隊に万一のこと──二次被害的な事態が起こってしまえば、それこそ騎士団は壊滅状態になってしまうだろう。ラムドは鷲獅子国に対する依存度を高めねばならぬ。

 それは即ち、ラムドの属国化を意味する。そのような政治的に危険度の高い行為を王家や王都議会の者達が決断するとは思えなかった。

 救助は絶望的。いくら目を背けようとも、その現実は変わりそうにはない。アイリもクオレも愚者ではない。この程度の理性的な思考は可能であった。

 ゆえに、考えが自然と悪いほうへと進んでしまう。たとえそれがいけない事だとわかっていても。

 私も眠ろう──

 これ以上、考え事をしても気持ちが暗くなるだけ、体力の無駄だと悟ったクオレはアイリと同様、眠ろうと思い、纏った黒装束を整え、今まさに横になろうとした。

 ──その時、扉の軋む音が鳴り響く。

 入り口が開け放たれたのだ。

 それを察した刹那、クオレは目を細めた。

 セルバトの街はルインベルグほどではないが寒冷地である。地面は常に積雪し、晴れた日には陽光を受けたそれが強烈な輝きを放つ。

 クオレの所作は、その強い光を警戒しての反応であった。

 同時に、夢の世界で現世に起きた変化を知ったアイリも眠い目を擦って僅かに身を起こした。室内に流れ込んでくる冷え切った空気に警戒し、身を僅かに固くする。

 だが、両者が警戒した光も冷気も、小屋の中に流れ込んでくることはなかった。

 戸口に大きな影が立っていたがゆえに。

 不審に思った二人は目を凝らし、その影を注視する。

 そして、その影の正体を知るや否や、二人の目は大きく瞠られた。

「アイザック!」

 悲鳴にも似た声をあげたアイリは慌てて飛び起き、戸口へと駆け寄った。

 影とは、何者かに肩を借りたアイザックの姿であったのだ。気を失っているのか彼は隣に立つ肩の借主にもたれかかるかのようにぐったりとしていた。

 見れば、彼の全身のあちこちに薄く雪が付着しており、背後の地面には引き摺った痕跡が見受けられた。

「近くで行き倒れになっていたわ。もう少し、発見が遅かったらどうなっていたことか──」

 慌てたアイリが声を発したもう一人の人影より相棒の身体を受け取り、抱きとめる。

 アイザックの身体はまるで氷のように冷え切っていた。

 礼を言わねば──そう思ったアイリとクオレが、改めて彼に肩を貸していたもう一つの影へと視線を向けたその刹那、二人は言葉を失った。

「──かなりギリギリだったようね」

 言葉を失った二人に代わり、沈黙を打ち破ったのは、そのもう一つの影であった。

 それは、聞いたことのある女の声。

 外の光の加減が変わり、声の主の姿を映し出す。

 銀色の髪の隙間より光が差し込み、それはまるで真珠の如き輝きを見せた。

「でも、間に合って良かった。みんな、よく生き残ってくれたわ」

「──エルシェ!」

「エルシェさん!」

 アイリは相棒の身体を抱きしめる腕に僅かに力を込め、クオレはその場に泣き崩れた。

 思わぬ友との再会──それは、この窮地からの救助を意味していたがゆえに。

 そう。今この場をもって、自分達の生還が確約されたのだ。

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 <4>

 

 天幕の外で焚かれた火が若人の身体を優しく癒す。

 晴れてエルシェら鷲獅子国騎士団に救助されたアイザックとアイリ、そしてクオレの三人の身柄はセルバト郊外の野営地へと移され、そこで食事が振る舞われていた。

 エルシェの率いる救助隊は二十人程度の規模。馬車の積載量にも限界があるため、食材や調味料の類は最低限のもの。そういった状況下で作られる食事とは往々にして味気ないのが常。

 しかし、一月もの日々を逼迫した食糧事情のなかで暮らし続けてきた三人にとっては、これですら極上の馳走。あの淑やかなクオレですら無言かつ一心不乱に食べ物を貪り、食らいついていた。

 皿に山と盛られた食べ物は瞬く間に彼らの胃へと消え、代わりに調理を終えたばかりの次の皿が卓上へと運ばれる。

 彼らにとって、まさに至福の時であった。

 だが、その幸福な時間も程なくして終わりを告げる。

 三人のもとに食後の茶が振る舞われたとき、彼らの顔からは笑みが消え、悲壮感すら帯びた引き締まった表情へと変じていた。

 一月前──『聖皇庁』との交渉の場で『閃光』が発動してから今に至るまでの経緯について説明を求められたからであった。

「信じてもらえるかはわかりませんが──『閃光』の発動は既定路線でありました」

 そう言うと、アイザックは一月前、ルインベルグにおける交渉の場で起きた出来事、その全容を口にした。

 嘘や偽り、姑息的な自己弁護などといった、事実を歪ませるありとあらゆる要素を一切排除して。

 誰もが信じられぬと言わんがばかりに目を瞠り、彼の報を聞き入っていた。

 ──いや、どうして信じられようか?

 全ては現在『聖皇庁』の幹部にあるベルゼという男の私怨によるものなのだと。

 アイザックらを交渉人として指定し、ルインベルグ奥の聖域にある『聖塔』へ誘い込んででも『閃光』を見せつけたのは、かつて彼を陥れた騎士達に対する私怨を晴らすためであるのだと。

 いくら、そのベルゼという男が愚かな人間であったとしても、事実上、北教区を教義的な支配下に置く大聖堂の有力者──その善悪はともかく、そんな立場の人間が何の迷いもなく『閃光』を発動するなど──まるで自爆も同然。ましてや、恨みを晴らす相手は単なる騎士見習いに過ぎないアイザックやアイリ。そして、巫女の道より落ちこぼれ、信仰を捨てた一介の少女に過ぎぬクオレである。

 こんな、何の地位も背景も持たぬ三人を相手に晴らす恨み、その代償がこの北教区に対する甚大な被害である。

 全くと言って良いほどに間尺に合わぬ。

 まさに狂人の発想と言えよう。

 聞けば聞くほどに矛盾だらけの話であった。だが、大国の騎士達は、淡々と事情を説明するラムドの騎士に、その点を指摘しようとはしなかった。

 この狂人の理論に従って、『閃光』を発動させたのは、他にない大聖堂参加の武装集団──『聖皇庁』の幹部にあるベルゼであるがゆえに。

 アイザックは、『閃光』が狂人の手によって引き起こされたという事実、その一部始終を包み隠さず話しているだけに過ぎないのだから。

 論理的に矛盾があって当然である。敵の思考、その理屈は完全に破綻しているのだから。

 ラムドの騎士達は、話を『閃光』発動後のことへと移しはじめた。

「俺たちだけがこうして生き残ることができたのは──ルインベルグの『聖皇庁』との交渉役として、あの塔の最上階にいたからだなんだ」

「──皮肉なことに、ね」

 アイザックとアイリが吐き捨てる。

「『閃光』の爆心地は塔の最上階。塔の外や、大聖堂内──地上で待機していた仲間からすれば、炸裂した『閃光』の衝撃を頭上からまともに受けた格好。全滅の理由はそれが原因だろう」

「だけど、私たちだけは違いました」

 クオレがアイザックの語を継ぎ、続けた。

「あの衝撃を真正面から受けた私たちは吹き飛ばされてしまったのです──塔の外へと」

「交渉の場となった『聖塔』は、大聖堂が聖域と定める山の中腹に聳え立つ塔。放り出された俺たちは山の下り斜面に激突し、そのまま転げ落ちていったんだ。だが、皮肉なことに──それが命拾いする結果となった」

「ルインベルグは年中雪が降りしきる場所。常に柔らかい新雪に覆われている場所って聞くわ。少しくらい高いところから落ちたとしても、落下の衝撃は最小限。命を落とさずに済むでしょうけど……」

 エルシェはそう言い、疑問の言葉を口にする。

「そんな場所で、あれだけの衝撃の爆心地となったのよ。雪崩の類が絶対に起きているはず。それをどうやって凌いだというの?」

「それは運が良かったとしか言い様がないわ」

 そう言ってアイリが答える。

「塔より放り出された私たちが墜落したのは山の下り斜面。一度の着地だけで私たちは止まることができなかった。落下を続けながら何度も何度も斜面に叩き付けられ、遥か遠くの麓まで勢いよく転げ落ちたの。そのおかげか、後からやってきた雪崩が私たちのところまで届かなかったみたいなのよ」

「なるほど」エルシェは得心して頷いた。

「それで、その後はどうなったの?」

「暫く、気を失っていたと思います」

 まるで一句一句を噛みしめるかのように、クオレが答える。

「そして意識を取り戻した時、私たちは闇の中にいました」

「闇の中?」異国の公女が怪訝めいた表情を浮かべた。

「意識を取り戻した時刻が夜だった──という意味かしら?」

 アイリとクオレが首を横に振り、否定の意志を示す。

「『魔孔』の内部へと取り込まれたんだ」──と。

 それを受けて僅かに逡巡した後、アイザックが答えた。

「『閃光』とともに『魔孔』は急速に拡大・膨張を続けていたみたいでね。さすがにそれまでも避けることはできなかった」

「……え?」

 エルシェは思わず目を瞠った。

『魔孔』の内部は、魔物が住まう異世界であると信じられている。内部に充満しているとされる異界の魔力、毒気にあてられた動物たちは忽ちのうちに奇形し、狂暴化──『変異種』と呼ばれる魔物へと変異してしまう。

 もし、彼らの言う通り『魔孔』に取り込まれたとしたら──彼ら三人が浴びた毒気の量たるや、変異種の比ではないはず。

 だが、一見すると彼らは変わりないように見える。変異種独特の狂暴さはなく、説明を続ける際の口調もいたって平静。理性的であるように思える。

「大丈夫だよ」

 エルシェの視線が自分の胸元へと注がれていることを察し、アイザックが苦笑を浮かべた。

「身体のほうも、今のところは普通さ。脇腹から三本目の腕が生えてくることもなければ、手足の指が増減しているわけでもない」

 そう言うと、彼は自らの言葉を証明するかのように手袋を脱ぎ、両の手を──健全なる各五本の指を晒して見せた。

 無事を確認し、エルシェをはじめ異国の騎士達は思わず安堵の息を漏らした。だが、それも一瞬のこと、新たな疑念が鎌首をもたげはじめた。

 ならばなぜ、アイザックたちは無事だったのか、と──

 エルシェは慎重に言葉を選び、その疑問を彼らにぶつける。

 答えはアイザックの言葉を介して与えられた。

「助けの手が差し伸べられたんだ」

「『魔孔』のなかで──助けの手ですって?」

「ああ」彼の返事に合わせて、アイリとクオレも頷く。

「俺たちは『魔孔』の専門家ではないのだから、『魔孔』内であんな現象がなぜ現れたはわからない。ただ──」

「ただ?」

「俺たちを助けてくれたのは──俺たちの戦いのなかで救うことのできた数少ない人達だった。『魔孔』内での出来事なのだから、無論その相手は真っ当な人間の形態ではないけどね」

 アイザックの発言は、エルシェをはじめ鷲獅子国の騎士たちにとっても不可解なものであった。

 誰もがその意図を汲みかね、首をかしげる。

「霊魂──つまり、死んだ人間の亡霊さ」

 だがその直後、彼より発せられたこの言葉によって、彼らの疑念は氷解する。

「生前、自らの尊厳を蹂躙され、或いは弄ばれ、無念と苦悩に苛まれた哀れな死者の魂と出会ったんだ」

「その亡霊が、アイザックたちを助けたと言うの? 何の理由があって?」

「恩返しと、自分達の思いを託すため──だそうだ」

 アイザックは僅かに遠い目をする。

「偶然か何の因果か、かつての俺たちの旅や戦いは、結果として彼らの無念なる思いを汲んできたのだそうだ。その俺たちの戦いが道半ばで頓挫しようとしたその時、彼らは俺たちの前に現れた。その恩を返すために。そして生かされた。こうして『魔孔』の外で」

「その時に、アイザックたちは新たに彼らの思いを託されたのね。差支えがなければ、その内容を教えてもらってもいいかしら?」

「簡単な話さ」アイザックは一切に迷いもなく即答する。

「無念を晴らすため、この戦いに決着をつけてくれ、と」

「……ちょっと待ってください」

 一人の騎士が堪りかねたかのように声を発した。

「つまり、アイザック殿たちは『魔孔』のなかで、死者の霊魂と出会った。そして、その魂は貴殿の戦いと縁の深い方々であったのだと──具体的に、それは誰なのですか? 誰が貴殿を救い、雪辱を託したというのですか?」

 アイザックは答えた。

 それは三つの魂、と。

『魔孔』によって辱められた、哀れな三つの死霊なのだと。

「一つ目は少女──名はレイン。ベルゼの実妹さ。実兄によって『魔孔』の力による転生の邪術に巻き込まれ、三度も奴の恋人としての役目を強制された人さ」

 アイリが続く。

「二つ目は賢者──名は既に忘却の彼方。先々代巫女の夫にして元ルインベルグ大聖堂の僧侶。妻の死の真実を知り、大聖堂と袂を分かち、以降は『魔孔』の研究に残る人生の全てを捧げた人よ」

 最後にクオレが語る。

「最後は巫女──私の母でした」

「……先代の巫女だったわね」と、エルシェ。

「でも、貴女が記した報告書によると──貴女の母の魂は『魔孔』の毒気によって正気と善意を失っており、貴女の肉体の新たな宿主となって『巫女』となるため、貴女の魂を引きはがし聖石に封印しようとしていたのではなかったのですか?」

『聖石』による『魔孔』封印の仕組みとはこうであった。

 儀式によって『魔孔』の最奥より先代巫女の魂を召喚、生贄となった者の肉体より魂を引きはがし、聖石へと封印。魂の力を制御する技能を付与された新たな肉体の宿主──召喚された『巫女』の手によって『魔孔』の中枢へと転移。魔物たちが下界へと抜け出すのを内部から抑止すると同時に、門の役割を果たす異界の出口──即ち、『魔孔』そのものを物理的に閉じてしまうというものであった。

 魔物とて、ただ漫然と動きを封じられているわけではない。

 下界へと抜け出し、人を食らい、或いは堕落させるため、魔物は巫女の魂が封じられている最奥へと攻め込み、これを食らうために戦いを仕掛けるのだという。

 こうして転移された生贄の魂は、魔物との孤独なる戦いのなかで疲弊していき、やがて『魔孔』の毒気の侵食を受け、正気と善意を失う。

 そして、堕ちた魂は待つようになる。

 下界に召喚されるのを。

 新たに巫女となる女の魂を引きはがして『聖石』へと封印し、空っぽとなった肉体に憑依し、乗っ取るために。

 乗っ取って『聖石』へと封じられた魂を『魔孔』へと送り込む『巫女』役となるために。

「──つまり、先代巫女とは貴女に害を及ぼす者なのでは? そんな人がどうしてクオレを助けたというの?」

 問いかけられたクオレは小さく首を振る。

「私も最初は信じられませんでした。だから聞いてみたのです。『本当に私の母なのか? もし、そうであるのならば、一年前に私を襲ったのは何者なのか?』と」

「それで……答えは?」

「その魂は私の母であるということを肯定しました。そして同時に──あの悪霊もまた同じものであると認めたのです」

「どういうこと? それじゃまるで貴女のお母様の魂が二つ存在しているということになるじゃない」

 困惑するエルシェの疑問に、クオレは頷いてみせた。

「魂が聖石へと封じられ、肉体を乗っ取られた『巫女』によって『魔孔』へと送り込まれんとした時、どうやら母はそれに抗ったそうなのです」

 エルシェは見た。少女の瞳より涙が流れ落ちるのを。

「……自分に万一のことがあれば、娘である私は真相を知るために巫女の道を進もうとするだろうと。ですが、それは自分の二の舞となることを意味します。それを憂いた母は私を守るため、自分の真意を形に残すため『聖石』の中に残ることを選んだのです。母がどんな方法を用いてそれを可能としたかまではわかりませんが『巫女』による送還の術に必死に抗った結果──母の魂は二つに引き裂かれ、片方は『魔孔』へと送り込まれ、もう片方は聖石内に残留することができたそうなのです」

 クオレの証言に誰もが言葉を失った。

 魂とは生きとし生けるもの全てに宿る生命の概念、その根幹である。それが引き裂かれるということが如何なる苦痛を伴うか──この場にいる凡人たちには到底理解できぬことであった。

 だが、これだけは理解することはできた。

 そのような痛みや苦しみを受けることを覚悟の上で娘であるクオレを守ることを選んだ先代巫女の愛情の深さを。

 まさに娘を想う母の執念。

「──クオレの話が真実と仮定すれば全てに合点がいく」

 嗚咽を漏らすクオレを気遣い、アイザックが説明を引き継ぐ。

「魂が二分されたがゆえに、クオレの母親が施したとされる『魔孔』の封印が弱く、たった八年で解けてしまったということにね」

「根拠はそれだけではないわ」と、アイリ。

「私たちの故郷ラズリカ南の山村跡で殺人人形を倒したとき、そしてリュートの街でベルゼの危険性を知らせてくれたとき、『聖石』は私たちを助けてくれた。これらの事実と照らし合わせた結果、私たちはクオレの話を真実と断定したわ」

「なるほどね……それで、今『魔孔』はどうなっているの?」

「以前と変わらずルインベルグに留まったままだ。大きさは街そのものをすっぽりと覆い尽くす程度で、これ以上の肥大は食い止められている」

「食い止められている?」

 アイザックの発言に引っ掛かりを覚えた一人の騎士が問うた。

「貴殿の口ぶりより察するに、『魔孔』は今もなお肥大を続けようとしているが、何らかの──第三者の介入によってそれが阻止されていると解釈できるが、それで正しいか?」

「ああ。それで間違いはない」

「では、それを食い止めているのは……」

「俺たちが出会った三人の霊さ」

 アイザックは答えた。

「『魔孔』の魔力によって何度も不本意な転生をさせられた少女。『魔孔』の研究に心血を注いだ賢者。そして『魔孔』の力を行使する専門家である巫女──立場こそ違えども誰もが『魔孔』の性質を熟知している。凡人の俺たちに仕組みを理解することはできなかったが、何かしらの術を行使することによって、肥大阻止を可能としているとのこと。だが、どうやらそれは姑息的な処置に過ぎず、そう長くはもたないらしいが……」

「……事情はわかったわ」

 話を聞き終えたエルシェがぽつりと言った。

「つまり、貴方たちは各々『魔孔』内で出会った死者の託宣を受けて、こうして生還したというわけね」

「ええ」と、アイリ。

「私とアイザックは見習いとは言えど騎士。このような事態に陥ったことをいち早く王都へと知らせねばならない立場なのだけど『閃光』の衝撃で鎧は弾き飛ばされ、携帯していた食料や路銀も全て失ってしまったわ。『魔孔』から抜けた後、這う這うの体でこのセルバトまで逃げるのが精々。せめてここで体勢を立て直して王都へ帰還する道筋を模索していたのだけど……」

「結局、この有様さ」

 アイザックが自嘲めいた口調で吐き捨てる。

「せめて近隣の街まで食いつなげるほどの食糧さえ確保できればと思っていたが、街がこれだけの被害を受けてしまって治安が悪化してしまっては行商人の類も碌に寄り付きやしない。一か八かの賭けになるが、三日三晩飲まず食わずで移動することも考えたが……」

「それは無謀というものよ」エルシェがそう言い、溜息を吐く。

「『閃光』による衝撃の影響は相当な範囲に及んでいたわ。少なくとも教区の北半分はこのセルバトと大差のない状態よ。更に『魔孔』がルインベルグに長く留まり続けた影響か、この辺りにも魔物や『聖皇庁』の連中が頻繁に出没をはじめている。そんな状況下で飲まず食わずの上に鎧も纏わぬ状態で強行突破するなんて単なる自殺行為よ」

「──俺たちもその可能性を考慮し、思い留まった。結局、廃墟と化したこの街で魔物に襲われた人々を助ける代わりに、彼らの持つ僅かな食料を分けてもらうような、そんな物乞いみたいな生活をして命を繋ぎ、救助が来るのを待つしかなかったのだが」

「だけど、それが賢明な判断というものよ。その結果が今、こうして私たちに救助されることになったのだから」

「そうだな……」

 そう言うと、アイザックは目の前に置かれた茶を一気に飲み干した。僅かに冷めて飲みやすくなった茶が、身体の奥深くに沁み込んでいく。

 会話がひと段落し、涙を流していたクオレも落ち着きを見せ始めたところを見計らったエルシェが、次の話題を持ち出した。

「ところで、これから貴方達を王都アルトリアへ連れ帰ることになるのだけど、その後はどうするつもり?」

「戦いを続けていく」アイザックが決然と言い放った。

「私たちを助けてくれた人達の恩義に報いるために」

「でも、さすがに陛下の許しは得られないでしょうね」

 そんな相棒をまるで茶化すかのようにアイリが言った。

「私たちは騎士として多くの、致命的な失敗を重ね続けてきたのだからね。『魔孔』の復活を阻止できず、クオレの旅を頓挫させ、そして今度はルインベルグとの交渉の失敗と、それに伴う騎士団の壊滅的な被害──陛下にとって、まさに私たちは動けば動くほど、過去の失敗を挽回しようと思えば思うほど被害を拡大させる──まさに疫病神も同然。そう思われても仕方ない状態にあるのだからね」

 アイリは笑う。自嘲めいた笑いを。

 エルシェはそんな彼女を一瞥する。

「確かに宮廷では『閃光』の発動による騎士団壊滅を前提とした議論が始まっているわ。私たちは所詮、外様の人間だから議論に加わることはできないけど、自前の戦力の大半を失ってしまった以上、ラムド国が取れる対応の選択肢はそれほど多くはないと思う。私たち鷲獅子国の戦力をあてにするか、或いは北教区を捨てるか……」

「そんな!」クオレは悲鳴にも似た声を上げた。

 しかし、そんな少女を異国の公女は穏やかな声で宥めつつも、鋭い指摘の言葉を返した。

「白書を奪われた先で『閃光』が発動してしまったのよ。消失したものと考えるべきよ。即ち、我々は『魔孔』への対抗手段、その手がかりを失ってしまった。その事実を鑑みれば南北境界線を正式な国境と制定し、北教区を放棄してラムド国の勢力下より除外するのが現実的な対処でしょう」

「しかし、それでは……」

「このラムドでは境界線を境に地域性や各々に住まう民衆の基本的な思想に大きな隔たりがある。更に言えば、北教区では宮廷よりも大聖堂の影響のほうが強く、その差異はまるで別の国とも言うべき特異性がある。この理屈を突き詰めれば北教区に『魔孔』に関する諸問題を全て押し付けて放棄することによって、少なくとも王都をはじめとした南教区は例の法に抵触することはなくなる。むしろ北教区が推進する巫女制度による『魔孔』の力による被害者という立場になるのだからね」

 それを聞いたアイザックが苛立たし気に奥歯を噛む。

「つまり、今の宮廷は北教区を切り捨てるか否かを議論しているということか……」

 エルシェは小さく頷く。

 だが、その表情に晴れやかさはなく、むしろ苦悩に満ちた色彩を帯びていた。

「私たちはあくまでラムド国の支援のために訪れただけ。そのラムド国が北教区を切り捨て、放棄するということならば、現時点で私たちが北教区に干渉することはできなくなる」

「もし、そうなってしまったら北教区に住む人たちはどうなってしまうのですか?」

 クオレが恐る恐るといった様相で尋ねる。

「結論から言うと棄民になってしまうわね」

「馬鹿な!」アイザックが怒りの声を発した。

「北教区にはシーインのような、経済的にも豊かで人口の多い都市もある。宮廷はそれを放棄するというのか!」

「当然、令を発布して南教区への人を移すことくらいはするでしょうけど──そうなった場合、財産まで保護されるのは上級貴族をはじめとした支配者層の人間とその関係者程度でしょう。大半の住民は仕事も家などの大半の財産も放棄しなければならない。難民同然の立場となるでしょうね。その上、南教区への都市や集落も彼らを受け入れるには限界があるし『聖皇庁』の連中の流入の危険性も伴う以上、全員を無制限に移動させることはできない。相当数の人が、切り捨てられることになるでしょうね」

「……そんな! どうにかならないの?」

 アイリより悲鳴にも似た声をあがった。

 だが、エルシェは申し訳なさそうに頭を横に振るのみ。

「人道支援という題目で各国に援助を要請することは可能だと思う。でも、それはラムドが正式に北教区の放棄を決定した後のことになるわね。しかし、その時点で例の法はラムドを対象とできなくなる。それは、各国はラムドに兵を送る義務はなくなることを意味するわ。即ち、支援はあくまで各国の任意となる。今の北教区は『魔孔』が常駐する危険地帯。各国の腰は重いはず。そんな場所に貴重な戦力を派遣する酔狂な国なんて──『魔孔』の冗長を促す遠因を作ってしまった我が鷲獅子国以外に皆無だと思うわ」

「そんな悠長な……」

 アイリは視線を落とす。

「北教区が放棄されるということは、シーインの大都市ですら騎士団の庇護下から外れるということじゃない。来るかどうかもわからない支援の手が及ぶまでの間、議会は彼ら市民に防衛手段を失ったまま生きろとでも言うの?」

 騎士の一人が申し訳なさそうな様子で言った。

「我々も同じことを進言致しました。ですが、外の人間の言葉など彼らの耳には入るはずもなく。『白書』なき今、『魔孔』に対抗する手段が完全に失われてしまったのだから仕方のないことかも知れませんが……」

「白書が……必要なの?」

「ええ。宮廷のほうも、貴殿らが白書を奪還してくれることを期待していたそうでしたから。『閃光』が発動してしまい、白書の存在、即ち『魔孔』への対抗手段の構築が絶望視されてしまった以上、北教区の放棄という苦肉の策が議論されているのですから」

「白書なら……あるわ」

 アイリはそう言うと、自らの黒装束の中より一冊の書物を取りだし、それをエルシェらに示した。

 エルシェは思わず目を瞠り、アイリの手の内のそれをまじまじと眺めた。

「……それが白書なの?」

「原本ではないけどね」

「原本ではない……つまり、写しということ?」

 エルシェの表情は怪訝めいたものへと変ずる。

「でも、それだとしたら不自然ね。白書は長い間シーインの廃墟の地下に、誰の目にも触れぬまま保管されていたのではなかったの?」

「ええ。確かに白書は誰の目にも触れぬまま長年放置されてきました。ゆえに、誰もその内容は知りません。たった一人──著者本人を除いては」

「──!」

 アイリのその言葉を聞き、誰もが目を瞠った。

 そう。アイリ達は接触を図っていたのではなかったか? 白書の著者。先々代巫女の夫である、元ルインベルグ大聖堂の僧侶に。

 あの──『魔孔』のなかで。

「では、これはまさに……」

 騎士の一人が呻く。信じられぬと言わんがばかりの表情で。

「正真正銘、白書の写しである──と」

 その声が皮切りとなって、異国の騎士達が騒めきはじめた。

 騎士道精神の遵守が徹底されている鷲獅子国の騎士達にとって、人道的な意味、そして自国が『魔孔』の冗長の遠因となってしまった事に対する負い目という意味においても、ラムド国の思惑は極めて不本意なものに他ならなかった。

 ゆえに、アイリによってもたらされた白書の存在はまさに僥倖。閉塞したラムド国宮廷の議論に大きな風穴を開けるのではないかという期待感が急速に広まっていった。

「喜ぶのは早いわ」

 ──だが、彼らを統率するエルシェの表情は固いものであった。

 喜びのあま浮足立つ部下たちに、冷や水を浴びせるかのような言葉を口にする。

「私もアイザックたちを信じてあげたいもは山々だけど、まずはその白書の真偽を精査しないことには始まらないわ」

「──そうね」

 アイリは沈着に彼女の言葉を聞き入れた。

 そして、それはアイザックとクオレも同様、その表情からは動揺の色彩は一切なく、斯様な言葉を浴びせられるのを事前に覚悟していたかのような雰囲気すら伺わせた。

 その冷淡とすら思えるその反応に、エルシェ配下の騎士達のほうが動揺してしまうほどに。

 アイリはおのれの覚悟の内容を告げた。

「罠だと思っているのでしょう?」

 彼女はそう言うと、右手の人差し指で自分の額を示した。

「『魔孔』に取り込まれかけた私たちの言葉、俄かには信じられないのも当然よね。肉体には現れずとも、私たちの脳が『魔孔』の毒気にあてられている可能性を危惧しているのでしょう?」

 異国の公女はアイリの指摘を認め、謝罪の言葉を口にした。

「私個人としては信じてあげたいのだけど、ラムド国の後見役としては中立的な観点で判断しなければならないからね」

「──そうだろうな」と、アイザック。

「別にエルシェを責めるつもりはないさ。現に俺たちもかつて王都への帰還を強行するかどうか考えていたとき、この白書の入手について、どう説明するか悩んだものだ──で、結局はこの通り、都合のいい言い訳を思いつくことはできず、この街で足踏みをする理由の一つになってしまったんだから」

「一応、アイザック達の話は私の口から宮廷へと伝えることにするわ。この白書の存在と一緒にね」

「信じてもらえるのでしょうか?」

 心配そうに言うクオレに対してエルシェは軽く首を横に振り、期待薄であることを示唆する。

「『魔孔』の復活阻止の失敗や、ルインベルグへの交渉失敗は単なる見習いに過ぎない貴方達に任せてしまったオルク卿に責任があるし、クオレの旅の失敗や大聖堂の高僧殺害は奴らの真意に気付いたがゆえの苦肉の策。情状酌量の余地は十分にあるとは言えど、失敗の代償があまりにも大きすぎる。あなたたち三人に対する宮廷の心証は最低と言わざるを得ないわ」

「……」

 三人は押し黙るしかなかった。

 全てがエルシェの言う通りであるがゆえに。

「これから私たちはメルジェシフ商会にセルバトへの支援を命じるため一度シーインへ寄り、そこから南北境界線を越えて王都アルトリアへ帰還する予定よ。あなたたちは私たちの保護のもと王都までの道程を同行してもらうことになる。時間にして半月程度──その間で、自分の考えをまとめておいてね」

『魔孔』の消滅を目指し、戦いを続けるか。

 或いは──全てを諦め、別の道を志すか。

「私個人の見解だけど、もうアイザックとアイリはラムドの騎士ではいられなくなる可能性が高い。仮に何らかの理由で騎士団に残れたとしても『魔孔』関連の任務に就くことはないでしょうね」

 覚悟をしていた言葉であった。

『魔孔』によって滅ぼされた故郷を取り戻すため、家族を失った自分達を育ててくれた養父オルクの恩に報いるため、画家や歌手という幼少の夢を捨ててまで志した騎士への道。

 それが今、閉ざされようとしていた。

 自分の力が足りなかったがゆえに。

 重ねた努力に結果が伴わなかったがゆえに。

 見習い騎士の二人は瞼を閉じ、落胆の声を殺す。

 叫びたかった。何故だ、どうしてだと喚き散らし、おのれの不遇を嘆きたかった。

 だが、アイザックとアイリは耐えた。

 全ての元凶──努力を否定するために『閃光』を発動させたベルゼ。今頃、彼は『魔孔』の奥地で自分達を嘲り笑っているであろうから。

 ゆえに吐き出さぬ。これ以上、奴に笑いの種を提供せぬために。

 ここで弱音を吐き出してしまっては負けなのだと。自分に言い聞かせて。

 これが今、現実に敗れた自分達ができる最大の矜持であったのだ。

 ──心底より情けなく思う。

 だが、受け入れねばならぬ。これこそが現実なのだと。

 その上で選ばねばならない。今後の自分の行く末を。

 エルシェより提示された選択を。

「今すぐ結論を出す必要はないわ。道中のことは全て私たちに任せて、貴方達は体調の回復と今後の身の振りかたを考える事に専念すること──いいわね?」

 三人は一斉に力なく頷く。

「ああ」とアイザックが言った。

「わかったわ」と重ねてアイリが答えた。

「わかりました」最後にクオレが多少の間をおいて呟いた。

 声に力はなかった。エルシェの発言によってもたらされた落胆ゆえか、セルバトでの過酷な生活による疲労が理由かはわからない。

 だが、これで良かったのだ──そう、異国の公女は思う。

 偽りを述べて下手に期待を持たせるのも、沈黙を守り何も知らせぬまま宮廷の決定を突きつける格好を取らせるのも、いずれにせよ彼らのためにならない。

 ならば、あらゆる可能性を事前に示唆し、王都に帰還した彼らに如何なる結果が待っていようとも済むように覚悟を決めさせること。

 それが今、エルシェにできる最善の方法であったのだから。

「今日はもう休みましょう」

 エルシェは空を見上げ、薄雲の先にある空に差す光が弱くなっていることを察した。

 日は暮れ、セルバトの地に宵闇が舞い降りようとしていた。

「天幕を用意しているから今晩はそこで眠るといいわ。少しだけど中に酒も用意している。酔えば今宵だけでも嫌なことは忘れられるでしょうし、身体も温まり、眠りにつきやすいことでしょう」

「すまない」三人を代表して、アイザックが礼を述べた。「何から何まで気を使ってもらって」

「──気にしないで」

 エルシェはようやと穏やかな笑みを浮かべた。

 厳しい話の終わりを宣言するかのような、そんな穏やかな笑みを。

「積もる話もあるでしょう。外の見張りは私の部下に任せて、今日だけは自分達が無事だったことを喜ぶことにしましょう」

 それはアイザックらにこれ以上の真面目ぶった議論を許さぬ、そんな強い意志を秘めた笑みでもあった。

「出発前から頭を悩ませていたら、良い答えなんて浮かびはしないわ。時にはこうやって強引にでも楽しむ時間を作らないと、正気が保てなくなるわよ」

「そりゃあ……」アイザックは観念した。「……おっしゃる通りで」

「さあ、付いてきて」

 エルシェは席より立ち上がり、歩き出した。

 周囲の騎士達に見送られ、アイザックたちは彼女に続く。

 天幕に向かうエルシェの背中越しに、既に闇に包まれた北の空を見つめた。

 今も『魔孔』が留まるルインベルグの空を。

 諸悪の根源が眠る、因縁の地の空を。

 そして、思う。

 ──自分達の何がいけなかったのだろう、と。

 おのれの無事が確約され、僅かに落ち着いた心で、あらゆる努力が水泡に帰した現実、『魔孔』と密接に絡む巫女制度の撤廃を求める騎士団の思惑全てが裏目になってしまった現実を噛みしめた。

 様々な手を講じたはずだった。

 北教区のあらゆる都市や集落を制圧、或いは騎士団の勢力下においてルインベルグへの圧力を強め、大聖堂主流派を仲介役として炙りだすことに成功した。

 見事自分たちがこの圧倒的な武力を背景に、大聖堂より言質を取れば全てが丸く収まるはずだった。

 巫女制度によって、新たな犠牲者を出すこともない。

 この功績を認められ、平民でありながらも自分達が騎士叙勲を受ければ、それにあやからんと次々と人々が騎士に志願し、巫女制度以外の手段による『魔孔』対策が確立するまでの間、繋ぎとしての戦力が整うはずだった。

 そのために養父オルクを頼り、自分達に批判的な宮廷の動向を牽制してもらい、『聖皇庁』対策の先頭に立つための手配をしてもらい、自分達はそれに応え、小さいながらも功績を重ねてきた。

 なのに……

 アイザックは北の空を狂おしく見つめた。正しくはそこに住まい、落胆する自分達を嘲笑しているであろうベルゼの姿を幻視していた。

 騎士の頭の中で血が響動めいた。

 ──今すぐはどうにもならない。白書を解明し、『魔孔』の仕組みを理解できぬ以上、手も足も出やしない。

 だが、見ていろ──ベルゼ。

 お前が全身全霊で否定し、嘲笑の対象としている『人々の不断の努力』とやらで、今一度お前に挑んでやる。

 快楽に溺れ、惰眠を貪るお前の寝首を掻いてやる。

 アイザックはふと足を止め、足元の朽ち果てた石畳へと視線を向けた。おもむろに落ちていた石の破片をひとつ拾い上げると、また別の──本来それが収まっていたであろう窪みなかへと差し込み、石畳の一枚を復元させる。

 そう。今日こそが始まりなのだ、と。

 今日のこの日こそ、『魔孔』消滅への第一歩。その長き道を舗装するための、最初の敷石が置かれた日であるのだ、と。

 アイザックとアイリ、そしてクオレ──三人の生存者の新たな戦いはこの瞬間から開始されたのだ。

説明
C95発表のオリジナルファンタジー小説「Blue-Crystal Vol'06 〜Uprising of Isolationist〜」のうち、 第一章を全文公開いたします。
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