火焔の馬 |
「何をしている!早くしろ!……」
「おい、崩れるぞ!……そこから離れろ!!」
雑兵たちの慌ただしい叫び声が十二宮のふもとに飛び交っている。彼らの連れている番犬のけたたましい吠え声が、よりいっそう事態の性急さを伝えていた。
その日の聖域は、朝から妙に生暖かい空気に包まれ、この地で働く者たちは不快さを身体中に感じながら一日を過ごしていた。日没の頃、番犬たちの興奮した声を耳にし不思議に思った雑兵の一人が、外の様子を見に行って異変に気づいた。聖域の象徴でもある火時計が、真っ黒な煙を噴き上げて燃えていたのだ。いつもならば12個の青白い火を灯して静かに刻を告げているその時計版が、今は狂ったような激しい炎に包まれている。早急に人手が集められて消火にあたったが、何故か普通の水がこの炎には通用せず、まるで油を注がれたように勢いを増すばかりであった。途方に暮れている雑兵や聖闘士たちを押しのけて、たまたま宝瓶宮に滞在していたカミュが火時計の前へ駆けつけた。
「おお、カミュ様!……申し訳ございません!…火がどうしても治まらず……」
「わかっている。兵士たちはすぐに下がれ!聖闘士は私に小宇宙だけ送ってくれ!」
この炎が強力な小宇宙を含んでいる事を一目で見抜いたカミュは、現場に居合わせた聖闘士たちに加勢を呼びかけた。周囲は言われた通りにカミュに小宇宙を送り、彼はその力を自身の小宇宙に加えて氷水へと転化させ、燃え盛る炎めがけて噴射した。彼の力をもってしても数分かかったが、聖域を騒がせた謎の火災はようやく鎮火し、現場にいた者たちは未だ黒煙を上げる火時計の近くに集まって、その焼け焦げたレンガを眺めていた。全員が異常な興奮状態にあった。
「女神が日本に帰られている間に、このような不祥事が起きるとは……」
カミュは立ち込める熱さに滲んだ汗を拭いながら、ため息をついた。彼を取り巻く者たちの顔にも不安の表情が浮かんでいる。
「カミュ様が帰還されていて本当によかった……シオン教皇を始め、黄金聖闘士たちは本日全員が任務で外出されていて、貴方様以外の方はまだお帰りになっていません。我々だけでは到底この火災を鎮める事ができなかったでしょう。」
「ああ……確かに珍しい事だ。私も予定より早く戻れたからこそ、この事態に間に合ったようなものだ。まるで隙を突いたかのような事故だったな……」
そう言いながら、カミュは火時計の様子を見回った。時計版に刻まれた黄道十二宮の紋章はどこも激しく焦げていたが、何故か人馬宮の位置だけが四面とも完全に崩れ落ちて、ぽっかりと黒い空洞を見せていた。
シオン教皇の命令で、その日の夜のうちに火時計の周囲には足場が組まれた。赤々と灯されたかがり火の中で雑兵たちが瓦礫の回収を始めている。特に時計板の部分が激しく損傷しているため、黄道十二宮の細かなレリーフを再現するために大勢の有能な石工たちも集められた。火災の後、次々と任務から帰還した黄金聖闘士たちは、カミュから詳しく状況を聞きつつ不思議な面持ちで時計を眺めていた。サガは現場から少し離れて時計を観察していたが、やがて誰とも会話を交わす事なく、静かに自宮へと帰っていった。その後は、闇の一角を明るく照らし出している修復作業の様子を、宮の入り口から幾度となく見つめていた。
その夜、サガは不思議な夢にうなされていた。双児宮の中を自分自身が彷徨っている夢だ。まるでアナザーディメンションにかけられたように、光と闇が反転する柱の間を延々と走り続けている。その後ろを、何かの足音が追いかけてくる。振り返っても姿は見えず、背後の闇そのものが足音を立ててついてくるようだ。サガは流れ落ちる額の汗を拭いながら、その音から必死に逃げようとスピードを上げた。カンカンカン……と軽やかで金属質な音を響かせて、サガを執拗に追いかけてくる。どこか聖衣を装着している時の足音に似ているが、これは弟カノンのものではない。彼はこの数日間、スニオン岬で海皇軍の残党の監視にあたっていて宮には帰っていない。感じる小宇宙も彼とは違う。そもそも、この足音は「人」なのだろうか………?
なにか………もっと大きな……
もっと……………
眠りが浅くなり、サガはゆっくりと瞼を開いた。足音はまだ聞こえている。もはや夢ではない。はっきりと認識できるその音に、サガはベッドから飛び起きてルームガウンを羽織った。小宇宙に隠された秘密の扉を開き、暗い廊下へ出る。闇の向こうから聞こえてくる足音は軽やかに響くひづめの音へと変わり、やがてサガの目の前に、荒々しく熱い息を吐く巨大な栗毛の牡馬が立ちはだかった。
「すっごい!……こんな立派な馬、見た事がない!」
翌朝、白羊宮前の広場へ連れ出された馬を見て、真っ先にアフロディーテが感嘆の声を上げた。周囲の騒ぎに敏感に反応した馬は落ち着きを無くして足踏みを続けている。馬の気性の荒っぽさを見て、アフロディーテはすぐには手を出さずに距離をとって様子を伺っていた。それでも、早く触れたそうに馬の身体を隅々まで眺めて楽しんでいる。
「私は馬が大好きなんだ。スウェーデンの実家でも数頭飼育してる。ああでも、この子はすごいよ!今までどこに住んでたのかな。」
アフロディーテが興奮するのも無理はなかった。聖域に突如現れたこの馬は、通常の大きさを遥かに超える体躯を持ち、頸や肩、胸、脚など全身に渡って隆々とした見事な筋肉を備えていた。全身を覆う栗色の毛並みは露に濡れたように艶やかで、少し動くだけでも引き締まった筋肉の流れがはっきりと見てとれた。これが聖闘士であったなら、アルデバランの身体を上回るほどの精悍な肉体である。両耳は鋭利な矛先のようにキリッと立ち、辺りを睥睨する瞳はどこまでも深いオリーブ色だった。太い頸が大きくうねる度に、長いたてがみが音を立てて舞い上がる。その色は、日の光に透けると炎のように赤かった。
「いいなあ、サガは。なんで私の宮に来なかったんだろう?」
「むしろこっちが聞きたい。なんでお前の宮じゃなくて私の所だったのか……」
サガは珍しく愚痴をこぼした。その割に、普段は見せない優しげな表情を浮かべて馬の鼻面を撫でたりくすぐったりしている。確かに、なぜ双児宮に来たのかは謎だった。しかし、その場の全員が馬の迫力に圧倒されていたので、あまりその事を追求する者はいなかった。
「十二宮のペットするか?何を食ったらこんな身体になるんだろうな。やっぱりニンジンか?」
デスマスクは面白そうに言って手を出した途端、馬が咬もうとしたので、彼は慌てて手を引っ込めた。
「まあ、立派な馬だこと!」
澄み渡る声に、全員が反射的に跪いた。シオン教皇を従えて、日本から帰国した城戸沙織が早速この不思議な馬を見にやって来た。沙織の反応はおおむね皆と変わらなかったが、突然起こった火時計の火災と馬の出現の報告を受け、女神自身もその理由を考えあぐねているようだった。
「とりあえず兵士たちに面倒をみて貰うようにしましょう。十二宮は馬が住むには相応しくない場所ですから、広い土地に馬屋を建ててあげなくては……」
女神の言葉に数名の雑兵たちがすぐに動いた。このやりとりの間、サガの傍にいた馬は大人しくじっと女神を見つめていたが、雑兵に引き渡されそうになった途端、いきなり両前足を上げていなないた。人の悲鳴にも似たその鳴き声に全員がギョッとして、どよめきが起きる。シオンはすぐに女神の前へ出て彼女を馬から遠ざけた。
「こら!……やめろ!危ない、皆も少し下がってくれ!」
馬は頸を振るって雑兵たちを激しく威嚇した。サガは宙を舞うたてがみを強く掴んで必死に馬をなだめている。サガが出来る限り優しく話しかけ、身体を撫で続けると、馬は荒い息を吐いて動きを止めた。この馬が出現してからずっと状況を見てきた者たちは、少なからず「ある事」に気づいていた。そしてそれは今、確信へと繋がった。
この馬は、サガの言うことしか聞かない。
もちろんサガ自身も、その事実に薄々気づいていた。サガが優しく接するほど、馬はその巨体から想像もつかないほど従順な態度を見せる。サガの頬に顔を擦り付け、時には肩のあたりの衣を甘噛みしたりもする……馬の逞しい首筋を撫でながら、サガは言い出す事をためらっていた。しかし、こうなる事は自分に課せられた運命なのだと、彼は覚悟を決めて女神に進言した。
「女神アテナ……この馬を私に預けて頂けないでしょうか。私が責任をもって飼育致します。」
「サガ、貴方が……?」
サガの突然の申し出に、女神だけでなく黄金聖闘士たちも驚き声を上げる。
「サガ!何言ってるんだ……お前は双子座の黄金聖闘士だぞ。そいつに構ってる暇なんかないだろ??」
「黄金聖闘士が馬番なんて……」
次々に仲間の非難が発せられたが、サガはきっぱりと女神に言い切った。
「聖域にはいつでも駆けつけられるよう、近郊に住居を探すつもりです。これだけ立派な馬ですから、飼育次第では今後女神のお役にたてられるよう調教できるかもしれません。どうか私にお任せください。」
沙織は無言のまましばらくサガを見つめていた。そして、堂々とサガの傍に立ち、フーッと誇らしげに鼻息を吹く牡馬の様子も。ふと、沙織は笑顔を浮かべて言った。
「……良いでしょう。皆の言う通り、貴方は聖域になくてはならない存在です。ここに近い場所にいて下さるなら、私に異論はありません。むしろお願いします。」
サガの表情がパッと明るくなった。聖戦後、サガがこれほど安堵した様子を周囲に見せたのは初めてだった。
「ありがとうございます。それでは……」
「お待ちなさい、サガ。」
馬を牽こうとしたサガを、沙織は呼び止めた。今までとは打って変わった強い口調に、サガだけでなく周囲も女神の方へ視線を向けた。
「……サガ、貴方も気づいている通り、その馬には普通ではない何か強い意思を感じます。彼を慈しみ、大切にしてあげてください。しかし、共に過ごす中で、どうか貴方も本心を見失う事がないように。」
言葉の最後の方は、周囲もその意味を計りかねた。サガも同様だったが、彼は女神に一礼すると、馬と共に静かにその場を去っていった。
聖域の近郊に空き家を見つけたサガは、早々に移住の準備を始めた。荒れ野だったが、馬が走り回るには恰好の広さがあり、人影もほとんどなかったため、飼育にはぴったりと言える場所だった。馬のために選んだ処と言えば聞こえは良かったが……正直なところ、サガにとってこの地に赴く事は別の想いがあった。
昨日スニオン岬から帰り、事の次第を知ったカノンは、寝室で黙々と支度をしている兄の姿をドアに寄りかかって腕組みしながら眺めていた。
「一回で持っていくの、大変だろう?俺は構わないから、必要になったらいつでも取りにくればいい。」
「ありがとうカノン。その時は入らせて貰うよ。」
「当たり前だ。ここはお前の宮でもあるんだから。今更遠慮するなよ。」
カノンの心遣いにサガは優しく微笑んだ。その表情に硝子のような脆さを感じたカノンは、はっきりとした言葉で切り出した。
「兄さん、移住するのは本当に馬のためなのか?」
サガは支度をする手を止めた。
「今でも、過去の罪に後ろめたさを感じているんだろ?……兄さんは俺と違うからな。聖域に居づらいんだろ?」
「そんな事はない。私は女神のためにもう一度尽くしたいのだ……気にしすぎだカノン。」
サガは苦笑して衣類をたたみ始めたが、弟の方へは振り返らなかった。
「聖域から離れれば、兄さんも少しは安堵できると……」
「考えすぎだ。」
「あいつだけが、今も還ってない事も……………」
「ありがとう、そろそろ行くよ。」
カノンの言葉を打ち消すようにサガは荷物を持って部屋を出ようとした。
「待てよ兄さん。移住先は教えてくれないのか?」
「落ち着いたら必ず教えるよ。お前だけには必ず……」
サガはカノンの手を取って約束した。その手はドキリとするほど柔らかく滑らかで、聖闘士には思えなかった。
兄はこれほど脆く壊れそうな人だっただろうか……
改めてそう思うほど、今のサガはあまりにも儚かった。カノンはサガの真意を追求する事をやめ、逆に手を握り返すと視線を合わせたままそっとその甲に唇を当てた。
「分かった。それを約束してくれるなら、俺も少しは安心だよ。」
カノンは荷物を半分抱えると、サガと一緒に双児宮の入り口まで来た。馬は柱に繋がれていなかったが、まるで忠実な犬のように大人しく、サガの姿が見えると長く美しい尾を揺らし始めた。利かん気が強いくせに、サガが荷物を背に乗せても全く嫌がらない。馬と目が合うと、カノンはあからさまに顔をしかめた。
「じゃあ……お前も元気でな。必ず連絡するから。」
「ああ。」
階段を降りていく「二人」の姿を、カノンは再び腕組みをしながら見送った。馬は明らかに機嫌がよく、軽い足取りで階段を降りていく。思わずカノンは「チッ」と舌打ちをした。正直、カノンは馬の事をよく思っていない。
「あの目だ……あいつのあの目。怖いわけじゃない……むしろ優しすぎて気味が悪いんだ……しかし、どうであれ見上げたヤツだ。馬のくせに、誰もが所望したがるあのサガをまんまと手に入れやがった。女神のお墨付きで堂々と一緒に住めるんだからな。」
カノンはやれやれとため息をつき、金牛宮の裏へ入っていく彼らの姿を見ていた。ふと、人の気配を感じてカノンは宮の端に視線を向けた。小柄な雑兵が1人、おどおどした様子で角から顔を出している。
「なんだお前か。いつからいたんだ?」
「申し訳ありませんカノン様。どうしてもお伝えしたい事がありまして……」
雑兵はトコトコと頼りなさそうにカノンの前に進み出た。彼は子供の頃から聖域に住んでいる。元は聖闘士候補生で努力家だったが、小宇宙の覚醒が今ひとつ追いつかず、念願の聖闘士にはなれなかった。小柄ゆえに仲間の兵士たちから馬鹿にされやすい存在だったが、とても生真面目な性格で、サガとカノンは彼の実直さを高く評価していた。
「何かあったのか?」
「カノン様。本当はもっと早くお伝えしようと思っていたのですが、なかなか持ち場を離れられず……サガ様が出発する前に来たかったのですが、間に合いませんでした。」
カノンは険しい表情を浮かべて、言葉の先を促した。
「カノン様、あの馬はあまり良いものではありません。私には、あいつがサガ様を何処かへ連れ去ろうとしているように感じるのです。」
本来ならば雑兵が黄金聖闘士に口出しできる内容ではなかった。しかし、今の彼は必死だった。叱責を受ける覚悟で進言しているのもカノンにはよくわかっていた。
「あいつは良くない……絶対に良くない……それだけじゃない……」
「……何だ?」
雑兵はあえて馬の事を「あいつ」と呼んだ。密かに恋慕うサガを手に入れた者に対する嫉妬の感情そのものだった。彼は実に忌々しそうに言い放った。
「あいつは本当に馬なんでしょうか。私は以前、ロドリオ村で何度か馬を扱った事がありますが、どんなに大きな馬でもあいつと全然違います。先ほどここへ来た時も、すでに入り口にあいつが立っているのを見ました。階段のかなり下の方から見たのですが、それがカノン様、あいつが一瞬何か別のものに……」
「それ以上言わなくていい。お前の言うことは、きっと正しい。」
「えっ……」
カノンは雑兵の顔を見ながらニヤリと笑った。雑兵は自分が興奮している事に気づいたのか、恥ずかしそうにモゴモゴと口ごもり、それ以上の言葉を慎んだ。
「吉と出るか、凶と出るか見物だな……気をつけろよサガ。」
カノンは悪戯っぽい笑みを浮かべて、再び二人の消えていった方向を見つめていた。
石造りの住居は、年数こそ経っていて古びていたが、大きな修復を必要としない程度だったのでサガは安心した。静かな環境を望む者にとっては夢のような場所だった。敷地内に農具用の小屋があり、サガはこの部屋を厩にするつもりでいた。馬自身もこの地が気に入ったらしく、着いてからずっと辺りを走り回ったり飛び跳ねたりして遊んでいる。それでも、時々サガの気を引こうとして、視線が合うと立ち止まって悪戯っぽく構えたり、音もなくサガの背後に忍び寄って背中を軽く押したりした。まるで気配もなく易々と背後に立つ馬に、最初はサガも驚きを隠せなかったが、馬の持つ優しい気配に慣れて、今では完全に背を預けるようになった。しかし、ここへ来てもやはり馬の利かん気は相変わらずだ。小屋の中に柵を作ってあげても、馬はサガが見ていないうちに丸太に足を掛け、大きなひづめでガリガリと引っ掻いて壊した。また、あらゆる馬具を身体に着けられる事も嫌がった。
「お前は馬なのに、馬扱いされる事が本当に嫌なんだな。やれやれ……気まぐれで懐いたり反抗したりするのか……」
女神には、いつか聖域のお役に立てるように調教すると約束してしまった。鞍を着けるのが嫌では誰も乗れない。綱も引けない。馬具を見せただけで遠くまで逃げてしまう。サガはどうやって乗馬出来るようにするか途方に暮れた。しかし、まるで考えを察したように、急に馬はサガの前で前足を軽く折り曲げて低い姿勢をとった。
私に乗れと言っている………私の心を読んだのか??
疑心暗鬼になりつつもたてがみを軽く掴んで跨ぐと、馬は恐ろしいくらいの速さで走り出した。その脚は巨体とは思えないほど軽やかだ。馬は喜んでいる。馬そのものが風のように感じる。馬と触れ合っている部分がしっとりと馴染んで貼り付いてしまったようで、鞍など着けていなくても何の支障もない。夢中で走る馬の背でサガは自然と笑みを浮かべた。聖域に還ってきて半年、これほど楽しいと思った瞬間はない。毎日が虚しかった日々の果てに、こんな神秘が起こるとは思ってもみなかった。馬はサガの鼓動や感情の高鳴りに合わせて自在に速度を変え、誇らしげに岩山をいくつも飛び越え、一度では到底無理と思えるような川幅さえも軽々と跳躍した。この時から、サガは完全にこの巨馬の虜となった。
早朝、二人は同じ場所で目を覚ます。生活空間を整えた母屋の方ではなく、干し草を敷き詰めただけの小屋の中で。食事も一緒にとり、清流での水浴びも一緒だった。サガが湯に浸かる時は、馬は外側から風呂の窓の縁に顎を乗せ、嬉しそうにその様子を眺めていた。草原で互いに寝転がったり、サガが投げるリンゴを上手に口でキャッチして美味しそうに食べたり、天気の良い日は浅瀬で一緒に泳ぐ事もあった。心の赴くままに散策して小屋に戻った後も寄り添って静かな時を過ごし、山のように積み上げたフカフカの干し草の上で安らかな眠りに着く。聖域での喧騒を忘れてしまうほどサガは幸せだった。乗馬に慣れてくると、サガは走っている馬に合わせて飛び乗る事すら出来るようになった。馬はサガをかすめ取るようにして彼を背に乗せる。まるで、風の神が恋い焦がれた人を気流に乗せて奪い去るように。その一連の動作すべてが紳士的で優雅だった。
野へ海へと共に繰り出すうちに、サガはますますこの馬の背に釘付けとなり、一時たりとも離れがたくなっている事に気づいた。サガの想いが募るほど、馬の態度も明確に変化していった。今までとは比べものにならない過剰な甘え、物欲しそうな優しいいななき、サガへの異常なほどの執着心。視線を合わせると、ペリドートの穢れない瞳がサガの心を甘酸っぱく乱した。しかし、これだけ深い意志の疎通があっても、サガは馬に名前をつけなかった。サガが愛しさを込めて誰かの名前を呼ぶとしたら、それは唯一「彼」の名前しかない。それをこの馬に付けて呼ぶ事には、どうしても心の中で咎めるものがあった。この馬は、彼ではない。彼の身代わりにはならない……その葛藤が、甘美で危険な宿命に陥る後一歩の所でサガを踏みとどまらせていた。そういったサガの困惑に反して、馬は日に日にサガへのアプローチを強くしてくる。その行為は動物がするレベルのものではなかった。ふざけて背中を押してきた仕草が、今はそっとサガの肩に顔を乗せて、豊かな髪に鼻先を埋めて執拗にその匂いを吸い込んだり、耳元で何か囁くように口を動かす事もあった。夜、一緒に眠っていると、いつの間にか馬は明らかな意志を持ってサガの首筋や身体を鼻先でくすぐり出す。その感触は、目をつぶっていると人の気配と全く変わらないほどだった。驚いてその顔を押しのける事はあっても、サガは馬の傍で眠る事をどうしてもやめられなかった。
私がこの馬を養っているのではなく、私の方が確実に彼にすがりついているのだ。
少し離れただけで、身を切るような苦しみを心に感じる。
愛し合い、共に生きていく事を強く願っている……
たとえ黄金聖闘士を辞しても、一緒にいたいと思う事すらある。
現に、この生活を始めてから私の小宇宙は衰えたような気がする。
力を奪われ、心が溶け出し、自我を失って朦朧としていく感覚……
そして………あろうことか………口に出すのも恐ろしい事だが………
これとひとつになる夢を見ることも………
人が、人でないものに、恋を。
サガの心の中でいつかの女神の忠告が過った。
本心を見失うな、と。
本心…………私の本心………
いや……それも、今の私にはもはやどうでもいい事だ。
女神がどう言われようと、私はどうしてもこの想いを捨てることができない。
人として、あまりにも愚かで報われないこの恋を。
笑われてもいい。呪われているのかもしれない。
でも、私は愛しいのだ………この馬が!
ここへ移住してから一度だけ聖域に戻ったサガは、カノンにだけ場所を知らせていた。しばらくぶりに兄の顔を見て、咄嗟にカノンはサガの手を強く握った。
ーーー兄さん、自分がどういう顔をしているか、気づいてるのか?
ーーーどういう意味だ? 別にどこも悪くないし、食事も普通にとっている。
ーーーそういう事じゃない……兄さん……今の兄さんは、とても聖闘士と思えないような……
カノンは新しい住居へ訪ねて来たがったが、サガは丁重に断った。それ以来、誰とも会っていない。正しくは誰とも会いたくなかった。聖域に帰る気すらなくなっていた。それほどまでに、二人は自分たちの世界に浸り、とても幸せだった。
ひと気のない砂浜で、サガは馬の背に跨ったまま長いたてがみを指で梳き、手のひらで優しく撫でつけ、そして……愛しさに耐えられず何度も口づけた。それでも我慢できず、太い頸に両手をからませ、 たてがみに?を埋め、完全に馬に身を預けて強く抱きしめる。純白のローブの裾が大きく広がり、まるで恋人同士が真っ白なシーツの下で愛し合っているようだった。強い海風を受けて、サガの青真珠の髪が風に流れる。その間、馬はピクリとも動かず、大きな瞼を閉じてサガのしたいがままに任せていた。もたれかかるサガの身体を大きな背中で優しく抱きとめ、サガの感情が昂ぶっている事もはっきりと理解し、その熱を受け止めていた。馬の健気な姿に、サガの脳裏を過去の記憶が過ぎっていく。素直になれず、結局すべてを失った悲しい思い出。最後に彼と交わした柔らかい口づけ。13年経った今でもはっきりと思い出せる。胸を締めつける切なさに耐えられず、サガはよりいっそう馬の頸にすがりついた。そして、その温もりに誘われてつい呼びそうになる彼の名前を、涙と共に必死に飲み込んだ。
その日の午後、サガはいつものように馬をあてもなく走らせていた。家からかなり離れたようで、遠方に視線を向けると見慣れない廃村があった。その上を大勢のカラスが飛び回っていた。灰色の空の下で不気味な姿を見せている廃墟群に引き寄せられるように、サガはそちらの方へ馬を進めようとした。ふと、馬は自ら立ち止まった。何かを探るように鼻先を動かし、耳をピクピクさせている。不思議に思い、サガはその背から降りた。
「どうした?」
サガが問いかけると同時に、大きな岩の向こうから数人の男たちが姿を現した。身体も大きく、見るからに柄の悪そうな連中だったが、その男たちの顔をサガは知っていた。彼らはかつて聖闘士候補生だった者たちで、年齢もサガより上である。聖衣を巡る試合に敗れた後は女神への忠誠心も失せて、あちこちの村や町に繰り出しては住民に悪さばかりしているならず者たちだった。何度も聖域から忠告されているが、彼らは懲りずに今でも同じ事を繰り返していた。こんな輩の気配にも気づけないほど自分が憔悴している事に気づき、サガは愕然としたが、そうしているうちにリーダー格の男がサガの前へ進み出た。
「こりゃ驚いた!……双子座のサガじゃないか!……こんなとこで何をしてんだ??」
男たちはニヤニヤと下品な笑いを浮かべてサガたちを取り囲んだ。サガは心の中で舌打ちした。男たちが何の警戒もなく黄金聖闘士を挑発できるのには訳があった。聖闘士は女神の許しを得ずに争いを起こしてはならないと定められている。ましてここは聖域の外で、この者たちは聖闘士になり損ねた一般人である。感覚が衰えたとはいえ黄金聖闘士が普通の人間に力を振るうなどもっての他だ。それに、聖域に報告しなければならないような事件を起こすのも、今のサガには面倒な事だった。出来れば会話だけでこの場を切り抜けたい……そう思うサガをよそに、聖域の掟を知っている男たちは遠慮なくサガに近づき、全身を舐めるように見回した。サガは屈辱を感じつつもじっと黙っている。
「ガキの頃から可愛かったが、今のお前は最高だな……その髪、その目……いつ見てもすげえ美貌だよ。」
「あの頃からお高い感じだったもんな。強すぎてとても試合なんかできなかったし。オレ、初めてこんな近くでコイツを見た!」
「ますます綺麗になっちゃってさ。女でもこんな顔のヤツを見たことねえ。すっげえ……なんかドキドキしてくる………」
男たちはジリジリと近づきながら、目の前の美人をどうしようかそればかり考えているようだった。リーダーの男は、ようやく気づいたように馬の方へ視線を向けた。その堂々とした体躯に思わず口笛を吹く。
「でっけえ馬だな!………ああ、そうかそうか。過去の罪のせいで聖域を追われて、今は寂しくお馬さんと旅でもしてるのか?」
4人はゲラゲラと声をそろえて笑った。それでもサガは黙って彼らを睨んでいる。サガの澄みきったエメラルドグリーンの瞳は、儚気な容姿も手伝って、やさぐれた男たちにはどこまでも艶めかしく扇情的にしか見えなかった。
「俺たち、知らない仲じゃないだろ? 女神に追い出されたのなら俺たちと同じだ。仲間になろうぜ。可愛がってやるから………ほら、こっち来いって。」
リーダーの男が馴れ馴れしくサガのローブを掴もうと手を伸ばしたその時だった。パーン!と乾いた音が響いて、男は岩の向こう側まで軽々と飛んでいき、それっきり戻って来なかった。男たちには一瞬何が起こったかわからないほどの早さだったが、サガの目は、凄まじい速さでひづめの一撃が繰り出された瞬間を捉えていた。男たちはポカーンとしていたが、サガの傍で後足立ちをする馬の姿を見て、その尋常ではない迫力にようやく我に返った。地響きのような咆哮を上げるその獣は、もはや馬ではない。覆いかぶさるように両前足を振り上げ、その身体は噴出する怒りで何倍にも膨らんで見える。
「なんだこいつ!!…… おい逃げろ!こりゃあ普通じゃねえ……!!!」
恐怖に逃げ出した男たちを追いかけ、一人に容赦なく噛み付くと遥か遠くへ放り投げ、もう一人を大きく振り回した側頭部で殴り倒した。残った一人は落ちていた太い枝を掴むと、馬の後ろへ回り込んで反撃を試みた。馬は振り返ってその男を睨みつけた。
「ひいぃいぃっ………」
男の腕は振り下ろされる事なくそのままふらふらと後ずさりし、尻餅をついた。そのまま両手で枝を握りしめたまま、ガクガク身体をふるわせている。わずか数秒間の出来事だった。唖然としていたサガは、ハッと我に返って慌てて馬に飛び乗ると、その場から逃げるように走り去った。しばらくして、噛み付かれた男が肩を押さえながら、飛ばされた所から戻ってきた。最初に飛ばされたリーダーと殴り倒された男は互いに失神していた。戻ってきた男は、未だにブルブル震えている男に暴言を吐いた。
「てめえ、何震えてんだよ!!一人だけ上手いこと助かりやがって……!!サガも逃しちまうし………畜生あのバケモン………!あぁ痛え……」
それでも男の震えは止まらず、真っ青な顔で同じ言葉を繰り返していた。
「あ、あいつは馬じゃねえ……すげえ目でオレを睨みやがった……あれは人間だ……人間の目でオレを睨みやがった………!!!」
慌てて帰ってきた二人はそのまま小屋の中へ入り、干し草の中で寄り添っていた。サガは馬の広い胸にすがりつき、瞳を閉じて完全に馬に身を預けている。サガをなだめるように馬もまた優しく彼の髪に鼻先を押し付けている。サガは静かにその愛撫を受け入れていた。
「さっきは助けてくれてありがとう……私には分かるよ。お前はちゃんと急所を外して攻撃していた。私よりもずっと聖闘士らしい……こんなに弱くなってしまった自分が本当に恥ずかしいよ。」
そんな事ないよ、大丈夫だよ……そう言っているように、馬は顔を擦りよせた。その?を撫でながら、サガは馬に語りかける。きっと、この馬なら私の言葉が分かる。そう確信してサガは話し始めた。
「私は、かつて一人の人を心から愛した。今でもその人を愛している。彼も、私を愛してくれていた。相思相愛だった。それなのに、私は素直にそれを受け入れなかったのだ。」
火時計の影でその壁に私を柔らかく押し付け、夢中で唇を合わせてくる愛しい人。その口づけが、記憶に残る最後の口づけだった。
「私は15歳、彼は一つ下だった。小さい頃から良きライバルでもあり、また、一番の理解者でもあった。彼は、いつも私の事を綺麗だと言って褒めてくれた。私は彼の事が好きだったから、それがとても嬉しかった。友人から恋人に変わるのは自然の流れだったが、大人を真似た未熟な恋だった。」
ーーーもういい……離してくれ……
ーーーどうして?…… 私はもっとこうしていたいよ。君は嫌かい?
ーーーそんな事はない。嫌ならば、こんな所にいない。
ーーーじゃあ、もう少し。
何の悩みもなさそうな無邪気な彼の顔を見て、私は思わずプッと吹き出した。
ーーーそんな悠長な事を言っている場合じゃない。明日は次期教皇の事でシオン教皇から打診がある。お前が選ばれるのは間違いないのだから、もっと気を引き締めていないと。
ーーーそれは君の方だろサガ。私は君の補佐だ。それはそれでずっと一緒にいられるのだからいいけどね。でも、その前にやっぱり君からちゃんと返事を聞かせて欲しいな。サガのこと、私は絶対諦めるつもりはないから。
ーーーお前ね………
「私は呆れた声を出してみせたが、内心は嬉しかった。素直に愛していると言ってもいいと思っていた。しかし、私は答えなかった。心の中に潜むプライドが、私にその言葉を言わせなかった。彼は幼い頃から”聖域の神童“と呼ばれ、黄道十二宮で最も栄誉ある射手座の地位を獲得していた。誰もが羨む天才だった。その彼が、唯一私だけを愛し、私の心だけを求めている。その事実が私のプライドをさらに煽った。その時の私は、愛よりも子供っぽい野心の方が上回っていたのだ。」
馬の?を撫でる手が止まった。サガの瞳は遥か遠い時代を見つめていた。
「私は彼に負けたくなかった。彼の愛を受け入れることは、自身の敗北を意味すると思うほど、彼の才能に嫉妬していた。その彼を翻弄している自分に優越を感じて気分が良かったのだ。私は、彼に愛される価値のない愚かな人間だった。たとえ悪霊の憑依がなかったとしても、シオン様は私を次期教皇には選ばなかっただろう。そして………そのプライドの高さと悪霊の力が混ざり合い、私は、彼も未来も聖域での信頼もすべて同時に失ったのだ。」
サガの瞳に後悔の涙が溢れ、白い?をつたった。その様子を馬はただ静かに見つめている。
「失って初めて、大きな喪失感と虚空をさ迷うような感覚を味わった。あれだけ欲しかった地位への執着はひとかけらも感じなくなった。私の心は、失った彼への恋心だけがそのすべてを占めていた。今も、その想いはずっと続いている。聖戦後、次々と仲間が帰還する中で彼だけが戻って来ない。私は密かに期待していたのだ。彼と再会できたら、今度こそ真っ直ぐ彼の愛を受け入れようと。でも、彼は戻らなかった。この恋に、二度目のチャンスは与えられなかったのだ。これは罰だ。神は未だに私を許していない………」
いく筋もつたう涙を、馬は舌先でそっと舐めとった。その瞳は、サガを慰めたいと必死に訴えている。嬉しさに余計止まらなくなったサガの涙を、馬は何度もすくい上げるようにして吸い取った。
それまでじっと聞いていた馬は、急にフッフッと軽く鼻息を吹くと、落ち着きのない様子で耳をピクピク動かし始めた。そして、鼻先でサガの?を優しく撫で、そのまま首筋を伝い、襟の中にまで入ろうとする。柔らかくタッチしてくる感触はいつもの夜と変わらないスキンシップだ。しかし、馬は積極的に動き始めた。サガを干し草の上にうつ伏せに押し倒し、逃がさないとばかりにひづめでローブの端を抑えつけ、大胆にもその身体に乗り上げようとしてくる。その動きがあまりに異様だったので、さすがにサガも泣き止んだ。
「おい、待ってくれ…… お前、ちょっとおかしいぞ。こら、やめるんだ………」
馬の鼻息が荒くなってくる。ふざけているのではない。自分に対する明らかな欲望を感じたサガは、初めて馬に対して動揺を覚えた。夢のように思っていた行為が急速に現実味を帯びてきて、サガの背中を冷たいものが走る。まるで人間相手に訴えるように、サガは慌てて馬に向かって叫んだ。
「やめてくれ……… 私はお前を彼の身代わりにしたくないのだ………!」
それでも馬の行為はエスカレートし、ついには衣を咥えこんで引っ張り始めた。人のように衣服を脱がせないため、力任せに破ろうとしているのだ。今まで優しかったこの馬が、とても同じものに思えない。押し返してもその身体はビクともしない。聖闘士であるサガと同格の力で迫ってくる。逃げようとすればするほど馬は興奮して、サガの肩に前足をかけて何度も干し草の上に彼を転がした。今度はローブの裾から頭を入れようとしてくる。とうとうサガは大声で叫んだ。
「やめろ!!!…… いい加減にしろ!!!」
サガの叱責がビリリと耳に響いて、馬はすぐに顔を引っ込めてうずくまった。その後も耳を倒したまま困ったような顔をしている。サガは乱れた服を直すと、呼吸を整えながら馬の方を睨んだ。謝っているつもりなのか、馬は何度も頭を上下させている。ついに種族の域を超えようとした馬を目の前にして、サガはようやく長い夢から覚めた気がした。そして、涙に潤んだ瞳のまま静かに馬に語りかけた。
「私が悪かった…… これでもう終わりにしよう。」
エッという声が聞こえてきそうなほど、馬は瞳をぱっちりと開けてサガを見返した。
「………やはり、お前にはちゃんと名前を与えなくては。お前に相応しい、立派な名前を。」
サガは馬の方へ真っ直ぐ向き直り、笑顔を浮かべた。悲しい笑顔だった。
「このままでは、私たちは本当に罪深い一生を送る事になる。私はお前に幻影を見ていたのだ。お前をその気にさせた私が悪い。お前の事、すごく好きだよ。でも私はお前の温もりに頼りすぎていた。彼は彼、お前はお前。私が間違っていたのだ……」
サガは独り言のように呟いた。馬に話すというより、自分自身を諭しているようだった。
「この生活は良くない………一緒に眠るのも、もうやめよう。お互いのためにそうした方がいい。たとえ神話の中でもこういう絆は許されないものだ。いつか取り返しのつかない大きな罪を犯してしまう前に………」
馬は慌てて悲しげに鼻を鳴らし、イヤイヤと頭を振った。水晶玉のように大きな瞳が涙に濡れて光っている。その悲痛な仕草に再びサガも涙が溢れてきたが、ここで折れるわけにはいかない。落ち着きをなくしている馬の首筋を撫でて、何とかなだめようとした。
「離れるわけじゃないんだ。これからも一緒に暮らす事は変わらないんだよ。そうだ、つがいの牝馬も探そう。お前が気にいるような美しい牝馬を。きっと素晴らしい子馬が生まれるだろう。」
これでいい。女神の言われた通りだ。本心を忘れてはいけない。この苦しみを癒すのに誰かを身代わりにするのは間違っている。まして、この馬を身代わりにしようなんて…… 私は今でも彼を愛している。彼の想いに報いるためにも、この馬をこれ以上追い詰めないためにも、自分自身を見失ってはいけないんだ。
今度こそ、私は………
サガの強い決意を理解したのか、馬はついに観念したようにションボリと項垂れた。そして、その大きな額をサガの額に柔らかく押し当てた。重なり合う肌がとても温かい。その温もりに喉元に熱いものが込み上げてくる。サガは胸の前で手を組むと静かに祈り始めた。もう二度と過ちを犯さないように。もう二度と本心を忘れないように。馬も、今は静かにサガに寄り添い、共に祈っているようだった。
祈りの最後に、サガは初めて告白した。彼と共に生きていた時はあれほど頑なに言うことを拒み、その後も胸の奥底にしまい込んでいた大切な言葉を。まるで呼吸をするように、サガは自然に囁いた。サガにとって、ただ一つの真実の言葉。
「アイオロス…… 愛している………」
辺りの空気が止まったように感じた。微かに聞こえていた虫の声も草が揺れる音も、すべてが動きを止めている。耳が痛くなるような静寂だった。
突如、馬が雷に打たれたように大きく目を見開き、飛び上がって激しく哭き叫んだ。その身体にバリバリバリと無数のひび割れが入って強烈な光が吹き出す。目も鼻も口からも光が洪水のように噴き出し、馬の上げる絶叫がサガの全身を突き抜けた。吹き荒れる光の嵐が干し草を舞い上がらせ、小屋の壁を大きく振動させる。
「どうしたんだ!!?……… 何が起こったんだ………!!!」
状況が全く理解できない。強烈な光に目を開ける事もできない。その場にうずくまり、長い髪も衣も強風に流れるに任せて、この凄まじい嵐が過ぎ去るのを待った。光の放出が最大になった途端、強烈な爆発音が響いて、辺りは急速に静けさを取り戻した。頭上で硬く交差させていた手をゆっくりと解き、恐る恐る顔を上げる。小屋は跡形もなく消え去り、野外の草の上にポツンと座り込んでいる自分に気づいた。サガの目の前に光の炎が立ち昇っている。光はやがて人の形になった。
「ああぁ…………」
それが誰なのかすぐに気づき、サガは口元を抑えて嗚咽をもらした。衝撃の凄さに立ち上がれないサガに、その人物がすぐに近づいてきて両手を差し伸べた。
「さあ、おいで……… ずっと会いたかったんだ……… 私のサガ。」
「何故だ、どうしてこんな事に………」
がっしりと逞しい両腕がサガを抱き起こし、震えている身体を強く抱きしめた。乱れた青銀の髪を撫で、ずっと泣き続けている愛しい人を安心させようと、何度も何度も口付ける。
「呼んでくれサガ、私の名前を。」
「ああ、アイオロス………!アイオロス…………!」
「頼む、もっと呼んでくれ!…… 私の名を…………!」
長い時をかけてようやく想いを交わす事が出来た喜びに、サガは何もかも忘れて泣きながら愛しい人の名を繰り返し叫んだ。ここで命が尽きても良いとさえ思った。震える手でアイオロスの?を包みこみ、確かめるように指先でこすり続ける。アイオロスはサガの髪や背中を撫でながら、笑顔を見せた。
「藁がいっぱいついてる…… 可愛いな…… お前、子馬みたいだ。」
アイオロスの優しい声に、サガは泣きながら笑顔を見せた。
「アイオロス……… なんで馬に…… 今までどうして………?」
「お前に話したい事が山ほどあるんだ。でも……その前に大事な願いがある。」
アイオロスはサガの肩を抱きながら、しっかり顔を見合わせて告げた。
「お前を愛したい…… 今すぐ。」
サガは返事をする代わりにアイオロスの肩に両腕を回し、深く深く唇を合わせた。
「女神のご慈悲で復活した私の魂は、お前に会いたい一心で現世を目指していた。ところがあと少しで聖域に帰還できる時、私はある神に捕まった。神の名はアンテロース。愛に対して愛を返す神だ。」
「ああ…… 知っている。愛の神エロースの弟だな。」
アイオロスの腕の中でサガはもぞもぞと頭を動かし、その顔を見つめて言った。恋人の上気した?にキスを落としてから、アイオロスは頷いた。奇跡の再会を果たした後、二人は母屋で初めて愛を交わした。呼吸が収まってもすぐにまた互いが愛しくなり、何度も熱く火照った手足を絡め合った。神秘の夜が明け、高く昇った太陽の光がカーテン越しに部屋に差し込む頃にようやく二人は落ち着いて、アイオロスは現世に戻る前に起こった不思議な出来事をサガに語り始めた。
「アンテロースはとても美しい少年神だった。彼は私にすがりつき、もしこの愛を受け入れてくれるのなら神々の国での永遠の命を約束すると言った。正直、これは厄介な事になったと思ったよ。神話の時代から、この兄弟が持つ愛の力は最強だ。最高神ゼウスを始め、名だたる神々を翻弄するほどの力だからな。もちろん、私はお前を諦める事など出来なかった。地上にいる恋人のもとへ帰りたいと彼に願ったのだ。当然、彼は機嫌を損ねて、愛を返さない私に恐ろしい呪いをかけた。」
その時の苦悩を思い出し、アイオロスの表情が曇った。サガは切な気に眉を寄せ、話に聞き入っている。
「私が人馬神の宿命を持っている事を知った彼は、その名の通り、私を馬の姿に変えた。もしそれがケンタウロスのような形だったなら、誰が見てもすぐに私だと気づいただろう。しかし、神が私にかけた呪いは違っていた。見た目は馬だが、心が人間という生き物だ。私を火時計目がけて叩き落とす時、アンテロースは笑いながら叫んだ………」
ーーーその姿で恋人に会うがいい 。愛していると言ってもらえたら、お前の勝ちだ。
アイオロスが次元を突き抜けて落ちてくる勢いで大気が乱れ、あの日の聖域は異常な生暖かさに満ちていた。そして、あの火災が起きた。人馬宮のレリーフだけ欠落したのは、アイオロスの魂がそこから帰還したせいだろう。
「それでも最初は何とかなると思ってた。サガとは相思相愛だと自信があったし、小宇宙を感じ取ってもらえれば、馬の正体が私だとすぐに気づいてくれるだろうと。でも、この呪いはそんな生易しいものではなかった…… アンテロースは私の小宇宙を歪め、正体が私であることを悟られないようにしたのだ。これに気づいた時はゾッとしたよ。お前も皆も、誰一人私の正体に気づかない。女神アテナですら、どれだけ目で訴えてもダメだった……皆の目には、大きくて異様な馬にしか見えないのだ。あの時の私はとてもイライラしていた。」
確かに、あれだけ一緒にいたサガですら、馬の姿からアイオロスの小宇宙を一片も感じる事ができなかった。聖域に一度だけ戻った時も、修復中の火時計を眺めていた馬に向かって小柄な雑兵が小石を投げつけていたのを見ている。馬の正体が射手座のアイオロスだと知ったら、彼は腰を抜かした事だろう。話の途中だったが、切なくなったサガは身体を起こしてアイオロスに口づけた。両手で?を包み、額や瞼にも唇を落とす。恋人の優しさにアイオロスは満足気に微笑むと、その手をそっと握って話を続けた。
「どんなにアプローチを仕掛けても、私がやることはすべて“馬の求愛“になってしまう。焦れば焦るほど、気づいてくれと強く願うほど、お前への行為もどんどんエスカレートしてしまう。名前すら呼んでもらえない私は、本当に気が狂いそうだった……」
「アイオロス………」
「でも、お前自身もすごく苦しんでいた。人間としての境界線を超えそうな恐怖と戦い、小宇宙さえ目に見えて衰えていった。疲弊していくお前が可愛そうで仕方なかった。だから、私もたまらなくなってあんな暴挙を……」
お互いにとって辛かった日々を思い出し、サガの瞳に涙が浮かぶ。
「怖い思いをさせてすまなかった。しかも、あの暴挙が原因で私はますます窮地に陥った。お前が私に別の名前をつけると言い出した時は、これで本当に終わったと思ったよ……… お前の性格はよく知っている。きっと、私との思い出を心の奥へしまい込み、二度とその名を発する事はないだろうと。ところが、最後の最後で、初めてお前は私への愛を告白してくれた。お前の愛が、私にかけられた呪いを打ち砕いてくれたんだ。」
握っていた手を優しく引き寄せて体制を入れ替える。サガは真っ白なシーツに横たわって自分を幸せそうに見下ろす恋人の顔を見つめた。13年の時を経て、精悍な大人の肉体を手に入れたアイオロス。神のごとく雄々しいその姿に、サガはうっとりとした瞳で見惚れている。途端にアイオロスは照れたように視線を外した。
「やれやれ、困ったな……」
「どうかしたか?」
キョトンとした表情でサガが尋ねると、アイオロスは指先で?を掻いた。
「こればっかりは、私は馬以上かもしれないな……」
その意味がわかったサガは、顔だけでなく身体まで紅潮させて視線を泳がせた。もちろんその仕草がアイオロスをさらに煽ったのは言うまでもない。アイオロスは目一杯の幸福を感じながら、ようやく手に入れる事ができた愛しい宝物を思い切り抱きしめた。
その後しばらくの間、アイオロスとサガは聖域には帰らず、二人きりで穏やかな日々を過ごした。ただ普通に暮らす事が二人にとっては最高の喜びだった。人と馬であった時は別々にならざるを得なかった風呂も、今は横並びで浴槽に浸かり、思い切り窓を開け放して外の風景を眺めたりした。テーブルで一緒に温かな食事を取り、ソファや暖炉の前で寄り添い、夜の帳が降りると二人は語り合う言葉を抱擁に変えた。
「聖域に帰る時は、白馬に乗って行きたいな。」
サガの額に浮かぶ小さな汗の粒を指先でそっと撫でながらアイオロスは呟いた。その表情はとても楽しそうだ。
「白い衣装を着て、お前を私の前に乗せて手綱を取るんだ。みんな驚くだろうな。」
「…………いるよ、ここに。」
「えぇ?」
アイオロスがサガの瞳を覗き込む。澄み切ったマラカイトグリーンの瞳が優しく微笑んだ。
「白馬は、ここにいる。」
そう言いながら、サガの?が恥ずかしさに紅潮する。自分で言っておいて赤くなるサガがとても愛おしい。幼い時から“生涯の恋人”と心に決めた人は、こんなにも可愛かったのかとアイオロスは改めて嬉しくなった。青銀の波打つ髪を撫でながら、殊更甘い声で囁く。
「……… おいおい、私はもう馬じゃないぞ。それを言うなら、白馬の王子様だ。」
ますます赤くなるサガが愛しくて、アイオロスは強く抱きしめた。ふと、アイオロスは大切な事を思い出した。
「そうだサガ。聖域では人馬宮に一緒に住もう。双児宮はカノンで満室だろう?これはもう決定だから、変更は効かないぞ。それから……」
「……それから?」
「火時計の下で、もう一度お前と口づけをしたいんだ…… きっとあの塔も完成しているだろう。その思い出の場所で、お前を抱きしめたい。そして…… 」
「私もお前に伝えたい。アイオロスを心から愛していると。お前が望む限り、何度でも。」
サガは両手でアイオロスの?を包み、引き寄せてそっと額を合わせた。柔らかく擦り合わせて瞳を閉じる。この幸福が永遠であるように、この愛が永遠であるように。これから始まる輝かしい未来へ、二人は祈りを捧げた。
(あとがき)
ここまでお読みいただきありがとうございました。予定よりずっと長くなり、自分でも「ちゃんと終われるのかなあ」と思って書いていました。子供の頃にテレビで初めて映画を見た時は映像がグロテスクで怖かったのですが、立派な腐女子になってからは(笑)いつか同人でパロディを書いてみたいと思っていました。星矢以外のキャラでも考えたことがありましたが、馬がアイオロス、気の強いヒロインがサガ。これが一番ぴったりだと思います。ポーの原作はずっと後になってから読みましたが、もともと映画と原作がかなり違う(子供向けアニメもやっぱり違う)ので、それぞれ気に入っている場面やキャラクターを寄せ集めました。小柄な雑兵のモデルも原作に出てきます。映画版は恋愛ネタを絡めたせいでとても切ないです。馬と一緒にいる事でヒロインの精神がおかしくなっていくところとか、馬とヒロインが本物の恋人のように寄り添っているシーンとか。しかし、何と言っても黒馬の演技は本当にすごい。あんな馬が側にいたら乙女はみんな堕ちると思います(笑)映画では、愛する心が欠落しているヒロインが悲劇の最後を迎えますが、ロスサガはハッピーエンドにしないといけないので(必然)最後は大幅に内容を変えました。ほとんど「美◯と野◯」(愛を告白すると呪いが解けるあたり)もしくは「千と千◯?」(名前を聞いて目覚めるあたり)……… あとがきまで長い。今度は短くて可愛いお話にしたいです。もちろんサガ受♪
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この作品は、ポーの原作小説とその実写映画「黒○の哭く館」(○の中は馬)をモチーフにしています。後半はかなり内容が変わります。軽度の馬×人の恋愛表現があります。文章の最後にあとがきあります。 | ||
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