葉についた芋虫の処遇 |
街灯1つない夜の道路を、知朱(ちず)は歩いていた。知朱は短髪に男物の服を着込んだ少女だ。知朱がジーパンを履き、コートを羽織ったその様は、傍目から見ると、少年のようにも見える。知朱は幼さが残る童顔に、笑みを浮かべていた。
桃畑に囲まれた道路に人影は見えない。知朱は、咲き誇っている桃の花を懐中電灯で照らし、眺め歩いている。この夜の散歩が、知朱の数少ない趣味の一つだった。懐中電灯をしぼって明かりを調節してやると、夜の闇に溶けて花が美しく見える。上品な漆黒の服を、花弁が来ているようだった。
「綺麗だねぇ、綺麗だねぇ。」
知朱は頬をゆるませ、花弁を見つめる。
ふと、知朱は花弁に芋虫がついているのを見つけた。まるまると太った黄緑色の芋虫で、体長はゆうに二センチメートルを超えている。知紅は、舌を噛んで、整った顔を歪ませた。
知朱は桃の花弁に近づくと、親指と人差し指でためらいなく芋虫を指で掴んだ。芋虫は知朱の指に挟まれ身をくねらせ、足を蠢かす。芋虫は徐々に体をずらし、知朱の指の間から逃れようとしていた。
知朱は、二本の指を滑らせて、芋虫をすりつぶす。緑色の汚い体液が、あたりに飛んだ。芋虫は、空を眺めて動かなくなる。知朱は、眉一つ動かさず、指に残った死骸を口に含んだ。知朱の口の中に、苦く、それでいて甘い味が広がった。
芋虫を飲み込み、知朱は再び桃の花を見る。知朱は懐中電灯の光を絞ったり、開いたりして、桃の花の明暗を楽しんだ。桃の花を見る知朱の表情は、親に甘える幼子そのものだ。無防備な、満ち足りた顔をしている。
町のスピーカーから響くサイレンの音が、夜の十時を伝えた。
知朱は綺麗な手で包むように花弁を撫でると、名残惜しそうに道路を去っていく。
知朱はコートのポケットから鍵を取り出して、家の戸を開けた。知朱の家は前時代的な、和風のお屋敷といったものだ。明かりは既に消えており、玄関には知朱のもの以外、靴はなかった。
知朱は台所へと向かい、手を丁寧に洗う。自らの指を磨くように、石鹸を染みこませていった。
時計を眺めると夜の十時半、あと半刻ほどで知朱の兄が家に帰ってくるはずだ。
兄である和也(かずや)は知朱にとって唯一の肉親であり、両親が他界してからは二人だけで暮らしている。和也は眼鏡をかけた、ひょろっちい長身の男で、蜘蛛のように手足が長い。
和也は機械を作る仕事をしており、夜遅くまで帰らないことが多かった。知朱はそれを寂しいと感じたことはあまりない。知朱にとって和也は優しく強い存在であり、信頼できる相手だ。知朱は和也に対して、不信感をもったことは一度もない。幼い頃、臆病だった知朱の面倒を、和也はよく見てくれた。そして、その優しさは今日まで変わっていない。知朱は、和也との間に兄妹の繋がりを強く感じていた。
和也は味噌汁が好きで、なんてことのない市販のものであっても、作るとこの上なく美味しそうに食べてくれる。知朱は、冷蔵庫から野菜と味噌を取り出し、味噌汁を作り始めた。具は何にしようか、この前は大根だったし、今日は他のがいいかな、知朱は唇に指をあてて、そんなことを考えた。
「今日はニンジンか。うん、なかなか美味しいね。」
和也と知朱は、テーブルに座って夜ご飯を食べていた。白米に味噌汁、魚の煮物といった和食だ。味噌汁にはニンジンが入っている。
「野菜、足りなければサラダ用意するけど。」
魚の骨を箸でとりあげながら、知朱が言った。和也は首を横にふり、味噌汁の味が残る口内に米をほうりこむ。
「それで、調子はどうだい?」
「特に何も。兄さんはどう。職場でうまくいってるの?」
和也は軽く首をふって二度頷いた。
「坂口さんや佐藤さんがいちゃついてるのがちょっと目に毒だけど、それ以外はいたって好調だよ。ああ、眼福でもあるのかもしれないけどね。」
和也の口から坂口という名前が飛び出すと、知朱は唇を噛んだ。知朱は箸を強く握りしめた。
「坂口さんはお元気なんですね。良かったです。」
坂口は体格の良い、寡黙な中年で、やけに堅い口調で話す男で、佐藤は坂口を慕う、おしゃべりで奔放な若い女性だ。二人とも和也の同僚で、時おり兄の職場へとついていく知朱とも面識がある。
「うん。歳のわりにはね。そういえば坂口さん、知朱の話もしてたよ。」
知朱の食事の手が、止まった。
「根本くんの妹さんは家事、特に掃除がよくできている、将来良いお嫁さんになるだろう、てね。」
「兄さんがまた私のこと自慢してて、坂口さんが相槌うってあげただけでしょ。坂口さんは真面目な人なんだから、あんまり付き合わせないで。」
言葉とは裏腹に、知朱の声はうわずっていた。俯き、表情を隠している。
「兄さん。明日、職場についていっていい?」
和也は橋を置くと、ポケットから手帳を取り出した。和也はぱたと手帳をめくって、そうだなぁ、と唸る。
「いいよ。ただバイク出してくれる?明日ちょっと急ぎだからさ。」
「飛ばしていいの?」
和也は頷いた。
綺麗な二人だと、二人の男女を見て知朱は思う。知朱が遠めにぼうっと見つめているのは、坂口と佐藤だ。寡黙な坂口のため、佐藤はせわしなく言葉を投げかけ、佐藤のため、坂口は一言一句逃さず聞いている。ときおり、頑なな口調で、坂口は己の意志を佐藤へ伝える。そうすると、佐藤は坂口の意志をきちんと確かめようと、言葉を重ね、問いかけるのだ。
知朱は、ため息をつかんばかりだった。けれども、知朱の胸中には二人の関係への憧れのほかに、体が溶けるような痛みが浮かんでいた。
知朱は、笑う佐藤を見て、思う。あの人が彼を選んだのは、私と同じ理由なのだろうと。彼女もまた、彼の誠実さに惹かれているのだと。
知朱が坂口に恋情を感じたのは、半年ほど前のことだった。そのとき、知朱は携帯電話を忘れた兄のため、バイクを駆って兄の職場まで来ていた。知朱が兄の職場にきたのは、その時が初めてなのだ。兄の背に隠れるように育った、臆病な知朱は身を強張らせていた。さらに出来の悪いことに、知朱は兄を見つけられずにいる。兄の話はよく聞く知朱であったが、兄は具体的な話をいつも避けたため、詳しいことが何もわからない。知朱にとって職場は迷宮のように感じられた。
「そこを通してほしいのだが。」
よく通る低い声が、知朱に投げかけられる。振り向くと、体格の良い中年の男が立っていた。浅黒い肌に、コートを着込んでいて、知朱には男がとても怖いものに見えた。
知朱は、何も言えずただ道を譲った。男は、ありがとうと会釈をし、通り過ぎていこうとする。その様があまりに礼儀正しかったので、知朱の胸から、恐怖の念が少しかき消えた。
「・・・せんか。」
ただ、知朱の口から出てきた声はひどくか細いものだった。
男は、立ち止まって知朱に向き直る。
「なにかね。」
「あ、あの。兄・・が・・えっと・・根本・・・。」
知朱の声は途切れ途切れで、不鮮明なものだったが、男はせかすことも正すこともなく、知朱が喋り終わるのを待った。
「根本くんの妹さんか。彼がよく話している。彼の元に案内すればいいのかね?」
知朱は小さく首を縦にふった。
「ご迷惑かけて・・・すみません。」
「そうだな、それは根本くんが謝るべきことだろう。」
その男が、坂口だった。それからは、兄にねだっては職場に連れて行って貰った。兄の送り迎えや、職場の皆の買い物の手伝いをしたりと、やることがあったため、知朱が職場にいることは許された。職人の性か、兄の職場の全員は、一度作業に取りかかるとなかなか外に出かけたりしないのだ。知朱は、それなりにありがたい存在として、職場に定着する。知朱は坂口とも何度か言葉を交わした。進路のこと、自分の臆病さのこと、人生相談のような会話が多かったが、坂口は一つ一つ、彼なりの言葉で答えてくれた。正しくないと、そう知朱が感じる答えも少なくはなかったが、彼の答えに、他人からの受け売り臭さがなかったため、知朱はそういった答えさえ気に入っている。
もし私が先に坂口さんに告白してたらどうなったんだろう、未練と知りながらも、知朱はそう考えてしまう。坂口さんの腕に抱かれるためなら、愛してると言って貰えるのなら、何をしても良いのに、知朱は、坂口をじっと見ていた。
知朱の右胸の奥が、熱くたぎる。ただ、知朱は表情は変えることなく、閉じた口の中で舌を噛んでいた。
佐藤が、坂口の手をとった。佐藤は、はにかみ、坂口に体を寄せる。坂口はこれといって拒絶の意を示さなかった。
昨夜、桃の花に張り付いていた芋虫が知朱の脳裏によぎる。
あの芋虫みたいに、あの子も潰してしまえたらいいのに、そんな考えが、ふっと浮かんだ。
「ばっかみたい。」
知朱は乾いた声で呟いた。バイクのキーを弄び、手にとる。
濁った味噌の味が、知朱の口に広がった。知朱は味噌汁を半分も飲まないうちに、机に置く。
時刻は十時半をまわり、知朱は家で兄と食事をとっていた。
「食欲ないの?」
和也が箸を休ませることなく言った。
「お昼、調子のって買いすぎちゃって。」
知朱は箸を置いた。知朱の前に並んだ器には、食べ残しが多くあった。
「片づけ、おねがいしていい?」
「残りものはとっとく?」
「捨てちゃって。ありがと、兄さん。」
知朱は席をたち、歯を粗雑に磨き始めた。水を吐き出し、汚れを洗い落とす。
「兄さん。兄さんは好きな人いるの?」
「人を好きになるのは三十過ぎてからにするよ。」
和也は食事を続けながら答えた。
「苦しくならない?」
知朱が矢継ぎ早に質問を続ける。
「なにが?」
「恋愛しないの。」
和也は思いきり吹きだした。幸いか、食事を飲み込んだあとのことだった。
「知朱は乙女だなぁ。」
心底ばかにしたような兄の言葉に、知朱は笑みを浮かべる。口に手をあてて、知朱も笑った。唇にふれた指先が、甘く痺れ、震えた。
知朱は兄の職場に、研いだ包丁を持っていくことにした。刃は思いのほか煌びやかに光る。知朱は目をほそめて、包丁を皮の鞘でおおった。
包丁を使って、何かをするわけではなかった。自分には、誰かを傷付ける気力がない、知朱はそう思っていた。もし、坂口を刺せたとして、あるいは佐藤を刺せたとして、この手に残るものはなんなのだろうか。手に入るものは、なんだろうか。そして、坂口の心に残るのは誰だろうか、少なくとも、自分ではないだろう。
ただ、もしこの包丁で自分を切ってしまえるのなら、楽になれるはずだった。自分の思い出も心も全部殺してしまえるのなら、楽になれるはずだ。
「どうでもいいや。」
知朱は、回る思考を断ち切った。兄のたてる食器洗いの音が、ひどく耳障りに思える。しばらくの間、耳鳴りが止まなかった。
知朱は、兄の職場で坂口とも佐藤とも会わなかった。知朱が兄に二人はどうしたのかと聞くと、別のチームに移ったのだという。会おうと思えばすぐ会えるけど、そう付け足した兄の言葉を、知朱は無視した。
一週間が過ぎた。
知朱は一人、夜の道を歩いている。桃の花は色薄くあせており、知朱は、もう緑葉の季節だったかと首をかしげた。
桃の花弁に、黄色い、小さな卵がついている。いつぞや知朱が潰した芋虫、蝶の卵のようだった。
知朱は、卵に向かって手を伸ばした。
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兄の同僚に憧れる少女の、どうしようもない一日。 深夜に一人歩く彼女は、葉についた芋虫をどうするのか? |
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