夜摩天料理始末 44 |
陰陽師が一歩近づく毎に、閻魔と都市王の変容した化け物の戦いの凄まじさが身に迫る。
唸る刃風が、ぶつかり合う殺気と闘気が、無形の圧力となって、彼の接近を阻む。
いや、彼とて本来、このような超越者同士の戦いの場になど、近寄りたくも無い。
だが、彼の自尊心を傷つけられた怒りと反発が、その恐怖を上回った。
そろりそろりと、慎重に歩を進める。
隠形術(おんぎょうじゅつ)で、この姿は見えない筈だが、ここに居るのは、いずれも武の達人達ばかり。
気を乱し、僅かの気配でも見せれば、たちどころに見破られるだろう。
足音を忍ばせ、骨の軋み、筋肉の擦れる音すら消して、徐々に冥府十王が座っていた場所に近づいて行く。
その時、彼は視界の隅に何か光る物を知覚した。
戦場経験の長さと言うべきか……それを認めた瞬間に、彼の体は勝手に身を伏せていた。
低くした彼の頭を掠め、何かが床に転がり、彼の足もとで澄んだ音を立てる。
銀に光る剣の切っ先。
拾い上げ、その鋭利な刃を見た彼の額に脂汗が滲む。
身を伏せるのが遅れていたら、今頃、この刃の破片は彼の体を抉っていただろう。
(……桑原桑原)
それ以上、見ているのが怖くなったのか、彼はそれを無意識に袂に放り込んで、静かに息を吐いた。
戦場往来を生業としていた彼である、恐怖に竦む事は無いが、流石にその体に僅かだが震えが走り、その心臓が早鐘を打ちだすのは、これはもう仕方ない。
体の外に聞こえる音では無いと理解をしつつも、早くこの動悸を鎮めないと、と焦る心が湧き上がる。
心の臓が乱れたままでは、動きもまた乱れる……そして、乱れた動きでは、気配を消す事が出来ず、見つかってしまう。
落ち着け……何は置いても呼吸を整えるのだ。
呼吸を整え、心気を素早く静めるのは、陰陽師に限らず、魑魅魍魎やら妖怪変化を相手にする稼業の必須技術と言っても過言では無い。
彼らはこちらの乱れを敏感に感じ取り、そこに付け込む物。
心の乱れを大きく吐きだし、変わって外の気を体に取り入れ、それが体の隅々、指先まで至る様子を脳裏に描く。
そうして、何度か静かで深い呼吸を繰り返し、体と心を鎮める。
(ふぅ……)
広い部屋とはいえ、多寡の知れた距離だというに、彼の望む物までが何と遠く感じる事か。
ピリピリした緊張の中、陰陽師が再度歩き出す。
一歩……二歩。
やや高い所に在る、冥王の席の近くに至る階段を上る。
机を盾にするように、身を低くして、更に歩を進め、それにようやくたどり着いた。
(あった……あったぞ)
裁判記録を書き記す書記の席の、乱れた書類の中に、彼が望んだそれはあった。
墨壺と筆。
知を書き記し、伝承する為の道具。
命短き人が、時に抗う為の武器。
幸いな事に、墨壺は机に据え付けられた物では無く、携帯が可能な物。
そして、まだ中には十分な量の墨が残っている。
残念ながら周囲に蓋は無いが、これならゆっくり運べば問題は無さそうだ。
彼は手早く筆を袂に落とし、墨壺の上に紙を畳んで乗せて、簡単な蓋とし、それをしっかりと包み込むように、手にした。
その手が包み込んだ、小さな墨壺が周囲から姿を消す。
良し。
大きく頷いて、彼は再度呼吸を鎮めた。
緊張の中、彼には恐ろしく長く感じた時間だったが、実際には、極僅かな時の経過に過ぎない。
恐らく、あの超越者同士が十合に満たない程度、切結んだ刹那の時だろう。
都市王の重い一撃を、閻魔が柔らかい身ごなしで、体全体でいなす様に受け流している。
その手にした刃の先端が欠けていた。
先程、彼に向かって飛来した刃の先端は、どうやら閻魔が手にした剣のそれらしい。
(……時がありませんね)
見事な体術と剣技を示し、都市王だった化け物の振るう剛剣を、上手く相手との距離を取る事で、辛うじて受け流している閻魔だが、それは既に彼女の腕力と剣技だけでは、あの剣をいなしきれない事の裏返し、彼はそう見た。
あの殺生石の力は、時間の経過と共に、更なる力を奴に与え、遠からずこの均衡は、都市王だった化け物の方に、更に傾くだろう。
心は急く、だが、焦っては元も子もない。
階の上から、もう一度法廷内をぐるりと見渡し、彼は僅かに安堵した。
領主殿とあの男の体が、極めて巧妙に柱の陰に隠れていた。
あの辺りに居ると知っている彼が高所から見たから判るが、同じ高さに身を置いていては、そうは判るまい。
あの領主殿の、生き残りの技、身を隠す場所を探り当てる動物的な臭覚は、流石と言わざるを得ない。
後は、あそこに戻り、わが生涯を捧げた陰陽の術の限りを尽くし、最後の抵抗をしてやろう。
地上の事などどうでも良いが、私を騙し、利用した奴が勝ち誇る未来など、想像するだけで肚が煮える。
(お前らから見れば私たちは虫けらかもしれんが、虫にだって牙も毒もある事を思い知らせてやるぞ、化け狐!)
覚悟を決め、呼吸を鎮めてから、階段を下る。
踏みなれた木の床と違い、異国の物らしい、硬い石造りの床が素足の彼の足音を消してくれる。
今この時は、何よりありがたいのだが、同時に木の床ではありえないひんやりとした冷たさが、足音を消すために素足となった足裏から伝わってくる。
それは、この石の床の下に、地獄が広がっている事を否応なく彼に思い出させる冷たさで。
その芯から冷える感触が、歩を進める彼の背に、得体のしれない恐怖と寒気を、同時に走らせる。
(気の迷いだ、これはただの床に過ぎぬ……落ち着け)
だが、そう意識すればするほど、足音を忍ばせる為に、足先に集中し、鋭敏になった感覚が、石の冷たさを更に伝えてくる。
ゆっくり、一段一段踏みしめて降りていく。
一番下に下りた時、彼は内心で僅かに安堵の息を吐いた。
閻魔と都市王の戦いは、ここから少し離れた場所、普段は亡者が控え、夜摩天の判決を聞く、開けた場所で繰り広げられている。
何とか無事に戻れそうだ。
彼は平らな床の上を歩き始めた。
それは、慣れない床の冷たさゆえだったのか。
(しまった!)
それとも、長く続いた緊張状態の中に訪れた、ほんのわずかな精神の弛緩の故だったのか。
きゅっ!
彼の足が僅かに滑り、踏みとどまろうとした、その足と床が擦れ、高い音を上げた。
彼が、閻魔と都市王の戦いの音の中に、自身の足音が紛れてくれる事を期待する暇すら無かった。
自分がそれまで認識していなかった異物の存在を認めた獣のように、都市王の変容した化け物の巨躯が、凄まじい勢いで、彼の元に迫る。
それを見た閻魔も動く、だが大きく間合いを取る戦いをしていた為に、都市王の動きを阻む事も出来ず、後を追う以上の事が出来ない。
「逃げなさい!」
閻魔に言われるまでもない、最前から彼の生き物としての本能が、死その物のような、この化け物から逃げろと、全力でわめきたてている。
だが、彼は一瞬迷ってしまった。
普通の人だったら、迷いもせずに、墨壺を放り出して駆け出して居ただろう。
だがこの場面においてですら、冷静さを保つよう訓練され、常に様々な事を考えられる頭は、その先の事を。
この墨壺こそが、彼が振るえる、最後にして唯一の武器であると……。
そこに、思いが至ってしまった。
それは、一瞬の。
(……我ながら、何と因果な)
だが、取り返しの付かない遅滞。
石を敷き詰められた床が波打つのではないかと錯覚するほどの振動を伴い、都市王だった化け物の巨躯が、他者からは見えない筈の彼の目前に迫っていた。
やはり、これ程の武の達者に、一度(ひとたび)存在を悟られては、隠形術程度では、その感覚を誤魔化す事は無理であったか。
足を止めては、後ろから閻魔に斬りつけられる、それが判っているのか、都市王は突進の勢いを緩める事無く、剣を横に突き出した姿で、こちらに突っ込んでくる
(ああ)
駆け抜ける、そのついでに私を斬り倒すつもりか。
既に目前に迫っている奴の、長大な剣を構える、その腕の筋肉が膨れ上がる様が見える。
「……無念」
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式姫の庭の二次創作小説です。 前話:http://www.tinami.com/view/985185 すまんけど、繋ぎの話なので式姫出番無いよ(看板に偽りあり |
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