夜摩天料理始末 46 |
「鞍馬!」
こちらに駆けよってくる熊野の姿を認め、鞍馬は軽く手を上げた。
「流石だ、熊野、最高の機を捉えてくれたな」
「患者の様子を挙動や顔から見抜くのも、医者の仕事さ……それで、どうだ?」
「奴が惑い、気力が衰えた最高の瞬間で術に捉えた、お陰で、あの陣の最深部に奴を封じられた」
「なら!」
これで、終わりか……そう言いかける熊野の前に、その喜びを制するように鞍馬の手が翳された。
「だが主君の力が無い今、いかにあの八門の迷陣と言えど、奴ほどの存在を捕え続ける事は出来ない」
これは、時間稼ぎに過ぎないんだ。
既にその五の門までが破られた事を、仕掛けた術者たる鞍馬は把握している。
「……そうか」
「ああ」
結界を複雑に組み合わせて、敵の感覚を惑わし、堂々巡りさせる迷陣。
だが、流石に術の達者たる妖狐の分身である。
気の流れを読み、陣の構造を解き明かしつつ、正しい方向へ……この庭へと戻って来ているのを感じる。
「あれほどの陣でも、か」
「熊野、戦に絶対はない。いかに強大な陣であれ必勝の戦術であれ、所詮は兵器だ、そして兵器は駆け引きの道具に過ぎない」
駆け引きの道具を絶対だと思った瞬間、それは敗北を内包する。
「どういう事だ?」
「そうだな」
多少の時間はある、他に出来る事も無い今、自分の理論を誰かに聞いて貰いたい衝動に駆られるのは、実に何とも凡夫の性だな。
内心で苦笑しながら、鞍馬は言葉を続けた。
「そこに堅固な要塞や踏破困難な地が有るとしよう、何度も攻められたが何年も破られた事が無い場所だ……それは防御側の大いなる助けだが、それは同時に防御側の心理的な隙を生む事になるんだ」
そちらから来た敵は阻める、その場所を抜けられるわけが無い。
「そういう心理的な依存が生じる故に、そういった要塞を破るのは、心理的、かつ象徴的に、敵を屈服せしめる有効な手となる……兵器、兵法への依存は脆さを内包するんだ」
そういえば、これを伝授した弟子が、馬では下れぬと言われた崖を駆け下りて敵陣に奇襲を掛け、見事な勝利を収めた事もあったな。
ただ、彼は、その思考法の根幹を為す、固定観念を作らない、囚われない考え方を、戦場の外や、己自身の境遇を見る所にまで演繹する事は出来ず……結局は軍才に驕り、その若い命を実兄との確執の果てに散らす事となってしまった。
苦い思いを振り払うように、鞍馬は一つ頭を振った。
「何かに固執しては真の強靭さには至れない、絶対に敵に勝てる兵器、陣形、戦術、そんな物は有りはしないんだ」
「鞍馬、そういう理論は今は良い、現実として、あの陣がこの庭最後の守りであるという事に変わりはないだろう?」
それを破られたら、この庭は終わりなのか?
そう口にしかかった熊野を手で制し、鞍馬は言葉を続けた。
「その通り、あれはこの庭最後の要害だ……だからこそ、それが落ちた時、次手が繋がる」
「それはどういう?」
ぐらり。
その時、大きく大地が揺らいだ。
地震とは少し違う……不自然で奇妙な揺れ。
恐らく、この周囲しか揺れていないだろう。
今のは、この庭の力を利用して作った自分の結界の、よりこちらの世界に近い箇所が破られた事による揺れ。
「……この揺れは」
目で問いかける熊野に、鞍馬は頷いた。
「ああ、六の門が破られた」
それが、彼女の想定の裡である事を示すような静かな声でそう口にして、鞍馬は歩き出した。
「軍師たる君が出るか?」
つまり、それは。
「私の軍師としての仕事は手仕舞い、という事だ」
後は、私も一兵卒となるさ。
そう呟くように口にして、鞍馬は後ろを振り向いた。
「そして熊野……君に頼みたい事がある」
大地が揺れ、火に包まれた館が大きく揺れる。
みしり。
「いかぬ!」
炎からは、おつのの術が守ってくれる、だが……崩れる家に巻き込まれてはひとたまりも……。
その音を聞きつけたこうめは、自らの体を盾にするように、男の上に覆いかぶさった。
その、男の胸に体を伏せた時、こうめは微かな違和感を覚えた。
(……これは?)
みしみしと木が軋み裂ける音に、キシキシと炭が擦れる、金属的な高い音が混じる。
そして爆ぜるような音と共に、火の粉と灰を巻き上げながら重い梁が崩れ、二人の上に落ちてきた。
これまで何とか耐えていた、目の詰まった太い木材で作られた頑丈な梁が、ついに揺れに抗しきれずにへし折れ、屋根が崩壊を始めた。
その時、覆いかぶさったこうめさら、男の体が軽々と抱え上げられた。
「蜥蜴丸!」
「しっかり掴まって!」
たんっと蹴った床が崩れる、だがその一飛びで、三人の体が、火に包まれた障子を破って庭に飛び出した。
着地した蜥蜴丸が、二人を抱えたまま、上空に向けた視線をぐるりと巡らす。
「……居ませんね」
僅かに安堵の息を吐く。
火の中でも、敢えて館に留まっていたのは、炎などより遥かに恐ろしい敵から、主の姿を隠す為。
だが、これで、主の姿を隠す場所は無くなった。
後は、何とか逃げ回るしかないが、主を庭の外に……この大樹の傍から離すわけにはいかない……。
どうすれば良い……どうすれば。
「蜥蜴丸、下ろしてくれ」
「こうめ殿?」
その声音に、何か異様な響きを感じて、蜥蜴丸は、抱えた主と、その体にしがみついたこうめに視線を落とした。
「下ろせとの仰せですが……館が燃え落ちた以上、後はご主人様の体を抱えて、逃げ回るしか」
だが、こうめはそれを真っ直ぐ見返して首を振り、再度同じ言葉を、より強い意思の下で口にした。
「蜥蜴丸……下ろせ」
「……は」
こうめの声に応え、蜥蜴丸は、主の体を、苔むした、まだ火の回っていない松の根方に横たえた。
それを待ち切れぬという様子で、こうめは男の寝巻の胸をくつろげた。
「こうめ殿、何を?」
「……見よ」
抑えきれない興奮に、その声が震える。
傍らで燃え盛る館の炎の明かりの中、主の胸に、うっすらと何か文字のような物が浮かび上がっていた。
「これは一体……天竺の文字と見受けますが?」
「そう、梵字じゃな……だが恐らくじゃが、これは種子(しゅじ)じゃ」
「種子?」
「うむ……密の真言じゃ」
一文字一文字に仏を宿す、密教の秘術が一つ、種子真言(しゅじしんごん)。
それが、次々と彼の体に浮かび上がってくる。
必死でその文字の意味する仏尊を思い出す。
これは毘沙門天、次が十一面観音……か?
整然として、一定間隔を保ち三文字。
行を変えるように、更に三文字。
そして更に行を変え、一文字。
浮かび上がったのは、今の所七文字。
指でなぞると、その文字に込められた力を感じる。
だが、その字の大半は、うっすらとした痕跡でしかなく、その薄さに比例するように、本当に微かな力しか感じない。
最初の文字はそれなりに濃く、判読しやすいが、文字を追うごとに薄く、判読しづらくなっていく。
こうめは、携帯していた矢立(携帯可能な筆記具一式)を取り出し、筆に墨を含ませた。
陰陽師になろうってんなら、常に書き物位はできねぇとな。
そう言いながら、これを贈ってくれた、照れくさそうな彼の顔を思い出す。
彼に何が起きようとしているかは、正直解らない。
判らないが、こうめには確信があった。
彼の体に触れたあの時、この呪から、祈りに似た想いを感じた。
生きてくれ……と。
誰かは知らない、何をしようとしているのかも判らない。
ただ、確かに言えるのは、誰かがこの人を助けようとしてくれている事。
そして、その力が、文字を追うごとに弱くなっている事。
ならば、こうめが躊躇う理由は無い。
「どなたかは知らぬが……このこうめ、未熟者ながら助勢いたす」
その文字をなぞる様に、こうめは男の体に筆を走らせた。
男の体に筆を走らせる、陰陽師の息が荒い。
外見にも判るほどに、全身に脂汗を滲ませ、震える手を押さえつけるように八文字目を書き付ける。
毘沙門、十一面、如意輪、不動、愛染、聖観音、阿弥陀如来、そして弥勒。
だが、筆が離れない。
最後に文字に神を降ろす、その力が出ない。
目が霞む。
歯がかたかたと鳴る。
萎えて震えそうな腕に、必死で力を込める。
「おい……死にそうな顔しとるぞ、大丈夫なのか?」
傍らから、気づかわしげに語りかけて来る領主殿の声も、夜摩天たちの戦いの音も遠い。
五感が薄れていく。
頼むから保ってくれ、次で最後なのだ。
それなのに、自分の力の残りが僅かである事を感じる。
これ以上続ければ……私の存在は。
(もう止せ、お前は良くやった)
傍らの領主殿だろうか、どこか遠い声が囁く。
否!
まだ終わっていない。
(お前は勇敢に、滅びの危険を物ともせずに冥王の戦いの只中に飛び込んで、墨壺を持ち帰った)
止めろ……言い訳を探すな!
(現世の術の行使が許されない冥府で、己の魂を削って術をここまで使える奴が他に居るものか)
……何と言った?
あの領主殿に、こんな知識がある訳がない。
お前は、誰だ?
(自分で言ったではないか、誰もした事の無い事だ、お前がそれを完遂できずとも、誰もお前を責めはせぬ)
違う!
違うんだ。
他人がどうとか、責められるとか褒められるとか、そんなの全部どうでも良い事。
これは私が成し遂げたいから、している事。
(お前がその行為を完遂したとて、助かるのは他人だぞ、自己犠牲などつまらん、何の得にもならぬ話ではないか)
助かるのは他人、何の得も無い話か……。
ふふ。
(何がおかしい?)
今の言葉で、お前が誰か判ったよ。
(私は……)
お前は私だ。
お利巧な、自分が傷つかぬ言い訳を探し、自他を騙し、人の裏に隠れるのが上手な……弱い私の声だ。
だけどな、お前は判って無い。
(何を、判っていないと?)
「今から助けるのは、私自身だ」
そう口の中だけで呟いて、気力のありったけを込めて、筆を離す。
その字に吸い取られるように、彼の力が根こそぎ抜けていく。
その代わりに種子が力を帯びるのを確かに感じる。
……後……一文字。
(魂が滅ぶぞ……解脱も救済も叶わず、輪廻の輪に還る事も無く、お前はここで虚無の中に消える)
そうだな、だが、私はそれを受け入れよう。
私は、今はただ、あの男のように、大馬鹿者になりたいのだ。
その先どうなろうが……私は、それで満足だ。
(そんな事をして何になる!)
何になる?だと。
彼は、静かに過去の自分を憐れむように笑った。
己が満足して在り、為す事に誇りを持てる以上に、大事な事があろうかよ。
(よせ!)
過去からの声など、既に彼の耳には入っていなかった。
最後の種子を書きつけようと、今にも闇に閉ざされそうな目に、萎えそうな腕に力を込める。
頼む……後一文字。
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式姫の庭の二次創作小説です。 前話:http://www.tinami.com/view/985714 そして、冥府の動きに現世が呼応する。 |
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