夜摩天料理始末 48 |
こうめは、八文字目、弥勒菩薩の種子を、男の胸に書き付けた。
(何じゃ……これは一体何の呪なのじゃ)
格子状に配置されて行く八文字、八体の仏。
この整然とした並びから類推するに、恐らく、後一文字を書き入れ、縦三、横三の形を以て、この呪は完成する。
毘沙門、十一面、如意輪、不動、愛染、聖観音、阿弥陀、弥勒。
だが、この並びは、こうめの知見の中では関連性が見えない。
配置から曼荼羅の亜種か何かかと思ったが、阿弥陀の位置から見て、そうでは無かろう。
ただでさえこうめは未熟な術者で、正式な師にいた訳でも無いため、まだまだその知見も浅い。
彼女の祖父が修めた陰陽寮に伝わる術の幾ばくかを伝授されてはいるが、その全てを把握している訳でない上に、これがもし術者の家や、一門にだけ伝わったような秘伝の呪だったりしたら、それを理解するなど、それはもう、こうめどころか、一流と言われる陰陽師でも無理な話。
(判らぬ……この仏尊の並びは一体何じゃ)
あと一文字……それが判れば何か手掛かりになるかもしれないが、待っても、次が浮かんでこない。
この男の向こうで、この種子を書きつけている人に、何かあったのか。
ここまで必死で解読作業に没頭していたこうめだったが、次の文字が現れない事で、初めて焦りの感情を覚えた。
だが、待っている訳にはいかない、この並びから次を類推さえできれば、自分がこちらで呪を完成させられるのではないか。
そうすれば、もしかしたら彼を助ける何かの力に。
その考えが、徐々に己を……知識浅く、陰陽師として未熟な自身を責めだす。
必死で何かを追いかけていた時には忘れて居られたそれが、自分を追い詰める。
学びを嫌っていた怠惰の故に、今自分は、彼を助けられる機会をむざむざ失う事になるのではないか。
わしは……わしは。
良い考えが浮かばない時はね、こうめ君、一旦その考えを全部捨てる事だ。
鞍馬。
焦るこうめの脳裏に、何かを講義してくれていた時の、あの大天狗の言葉が甦る。
思考という奴は、容易く堂々巡りし、袋小路に迷い込む、何故だと思うこうめ君?
(知識が足りぬからか?)
(無論それはある、道を知らねば迷うのは当然……だが知識が多いが故に迷う事もあるんだ)
もっと根本的な理由は別にある。
(それは?)
それはね、人は自分の考えを正しいと思いこみたがるが故さ。
己の正しさの確信とは、安息でもある。
人は常に正しさという安定の中に身を置きたがる、それが常に枷となる。
自分は間違っているかもしれない、そんな思考を妨げる枷に。
意味がありそうだと思いついた可能性に囚われ、それをひたすら深めようと掘り進む……自分が掘っている場所に、何もない、もしくは掘り出せる物が乏しい、そんな可能性に目を閉ざしたまま……ね。
だが、逆に過剰な懐疑は、その人が踏み出す足を縛り、思考自体を放棄する縄ともなる。
立ち止まって考えられるのは賢者の第一歩だが、そこから一歩も動けないなら、愚者と大差はない。
思考し、そして先に進む為には、その両方を良い塩梅に飼いならす必要が有るのさ。
(では、わしは、人はどうすれば、どうあれば良いのじゃ?)
自由である事さ、考察対象から一歩離れ、目の届く範囲に、知っている事を全部等間隔に放り出していくんだ、有るだけの物を全部。
(放り出す)
そして、放り出した物を、可能な限りあるがままに見るんだ、無理に意味を求めようとするな、意味が向うから来て、それを自分の中にある知識が自然と受け止めるのを待つんだ。
(では、これは)
こうめの目が、焦りを捨てて、静かにそれを見た。
現状八つ、恐らく全部で九つの文字。
その種子の意味とか、それを一旦置く。
九つの文字と、その並びを虚心に眺める。
じっと見つめる、そのこうめの瞳に輝きが灯った。
そうか……そうじゃ、これは!
秘呪ではないか、曼荼羅では無いかなどという、難しい方に考えてしまった思考が、彼女の手の届く所にあった、一番簡単な解答から、寧ろ彼女を遠ざけていた。
こうめよ、これは神域に、神様のお庭にお邪魔する時に行う、おまじないじゃ。
陰陽師になるなら、よう覚えて置けよ。
おじいちゃんの手が、わしの頭を離れ、印を結ぶ。
その呪を唱えだすほんの一瞬の間。
おじいちゃんの口が低く呟いた言葉を、今、ありありと思い出せる。
この九字が単なる『おまじない』ではなくなった時、お前は陰陽師として、一つ成長をするじゃろう。
答えが見えた、そしてその答えが、この種子の意味も教えてくれた。
ありがとう、おじいちゃん。
鞍馬、おじいちゃん、そして……今目の前に横たわるこの人も、この種子を書いてくれている人も。
わしは、幸せ者じゃ。
こんなに沢山の、人生の良師に恵まれた。
こうめは迷いなく、最後の文字を……その仏尊を示す種子を書きつけた。
筆を置き、小さなその手に印を結ぶ。
これは、おじいちゃんに教わったおまじない。
魔を退け、世界を浄め、神域に立ち入る際に使う印だと教わったそれを結び。
今、彼女は高らかに、その呪を唱えた。
「臨!」
空間が歪む。
それを鞍馬はじっと見ていた。
(人事は尽したよ……主君)
足下の大地が鳴動し、火の回った館が更に崩壊する。
(祈るとか、そういう神頼みはしないと決めた我が身だけど)
歪みが拡がり、空間が軋む。
(今だけは、祈りながら天命を待っても良いだろう?)
大きな揺れに負け、館の周囲の壁が、門が崩れ、庭木や敷石が乱れ倒れ、彼女が作り上げ、あの妖狐を捉えていた陣を形作っていた全てが崩壊した。
妾の勝ちじゃ、式姫ェ!
陰々と響く声と共に、金色の獣が夜闇の中に再び、その禍々しい姿を現す。
だが、それこそが、鞍馬の待っていた瞬間。
「射よ!」
鞍馬が羽扇を一閃して巻き起こった風に、弓弦の響きが混じる。
その大妖に向かい、四方から一斉に矢が雨霰と降り注いだ。
さしも、素早い身のこなしを誇る藻といえど、躱し切れる数では無い。
空気を引き裂く音の中に、肉を裂く音と、獣があげる、苦痛の吼え声が混じる。
数瞬の後、金の獣は針鼠にでもなったかのように、無数の矢を体に突き立てられた姿を空に浮かべていた。
「やったか」
鞍馬の口から、覚えず低い呟きが漏れる。
だが、その呟きに応えるように、何かが空気を震わせた。
ほほほ。
それは嘲笑。
高く、全てをあざ笑う、大妖の勝ち誇った笑い声が庭に響き渡る。
その体がぼろぼろと崩れる。
いや、そうではない。
藻の体から、無数の獣が、剥がれ落ちていく。
「……何て奴だ」
あの陣を抜ける前に、彼女の分身たる金色の獣を呼び出し、それを全身に張り付けて、矢を防いだか。
「凡百の妖ならばいざ知らず、貴様の狙いが読めぬ妾と思うたか!」
あの迷陣は、その本来の役割たる、彼女を捉えるのでも、迷わす為に使われたのでも無かった。
致命傷を与えるには、余りに素早く自在に空を舞う彼女の『位置』を固定し、限られた戦力を集中し一斉攻撃を仕掛ける為のおぜん立ての道具。
あれほどの術の精髄を極めた陣を、ただその為だけに使い捨てた。
「良い狙いじゃ、妾に及ばなんだとはいえ、その知略、見事と褒めてやろうわいナァ!」
藻は口から炎を迸らせながら、その身を空中で回転させた。
妖気を纏う炎が、途方も無い速さで四方を一斉に焼き払う。
そして、その炎は、藻を包囲するように木や植え込みや塀の陰から、藻を倒したと安心して姿を現していた、飯綱やかやのひめ、コロボックル、そして白兎を捉えた。
「みんな!」
一人、辛うじて空に逃げた鞍馬が悲痛に叫ぶ。
炎の中、彼女たちの豊かな髪や艶やかな尾に炎が燃え移り、悲鳴を上げながらその熱の中で身を捩り、倒れていく。
「おのれ!」
「嘆く必要は無い、貴様も直ぐに幽世に送ってやろう程にナァ」
体を一揺すりして、最後の獣を振り落した藻が、しなやかで優美な体を空に躍らせる。
「ち!」
鞍馬の想像を超えて奴の動きが早いのは、この庭の力が、ほぼ完全に潰えている、それは証か。
巨体の藻を掻い潜る為に、鞍馬が慌てたように地上すれすれに急降下する、だが、そこに悠々と追いつき、鋭く振られた藻の手が鞍馬の体を捕え、刃の如き爪が、彼女の腕に食い込み血が飛沫いた。
「……くぅ」
苦痛の呻きを、だが鞍馬は堪えて、身動きが出来ぬままに、それでも藻を睨み据えた。
「流石知略を以て鳴らした式姫じゃ、主なき屋敷一つで、よくもここまで妾を手こずらせてくれた物、貴様だけは楽には殺さぬぞェ」
にたりと笑った藻は爪で掴んだ鞍馬の体を、押さえつける様に地面に叩き付けた。
その衝撃で鞍馬の翼が折れ、腕に藻の爪が更に深く食い込む。
余りの苦痛に、その秀麗な顔が歪む、その様を心地よさそうに見おろして、藻は哄笑を放った。
「痛いか、苦しいか、じゃが式姫は人ほど楽には死ねぬ……じっくりとその四肢を断ち切って、羽を引き毟り、身動きできなくなった貴様の前で、あの男の体を、喰らい尽くしてやろうナァ」
「……そんな真似は、させない」
苦痛を堪えながら、それでもその眼気には衰えを見せない鞍馬の言葉に、不興気に鼻を鳴らして、藻は更にその手に力を込めた。
「く……ぁ」
「弓使い共は消し炭になり、今貴様もその様で、一体何が出来ると言うのヤァ……」
力と自信に満ちて、鞍馬を見下す藻の目が、その言葉を発した時に、僅かに泳いだ。
その目に、彼女の拭いがたい小心さを見て、鞍馬は冷笑を浮かべた。
「さてな、それより君は、この状況に至って尚、まだ私の知略を……いや、この『庭』を怖れるか?」
あの、陰陽師ですら無いただの人間を中心に、様々な想いを結集した……この場所を。
「ほざくな!」
ギリギリと爪が更に鞍馬の腕に深く食い込む。
それでも尚、鞍馬の眼光は静かだが激しい光を宿したまま、彼女を見据える。
「気に入らんナァ……お前らは存在そのものが気に入らんのヤ」
二度と現世に戻りたくないと思う程の絶望の中で嬲り殺してやるぞ、式姫。
最後の種子を書こうとしていた陰陽師の手が、途中で止まっていた。
もはや、彼の魂には、それ以上筆を進め、神をその種子に降ろすだけの力が残ってはいなかった。
もう、目も殆ど見えない。
(無念……)
意識が闇の方に引っ張られる。
ここで意識を喪えば、恐らくそのまま、私の魂は滅ぶだろう。
私は……ここまでなのか。
「おい、おい!しっかりせぇ!」
傍らで話しかけて来る、領主殿の声に、軽口を返す気力どころか、その声を意味を持って聞く事すら、おぼつかない。
「儂に出来る事は無いか?!」
顔を向ける気力も無い。
だが、この親切心には、何がしか、返事を返しておくべきだろう。
俯いたまま、陰陽師は掠れた声をなんとか外に出した。
「お逃げ……なさい」
もう、人に出来る事は。
「良いから儂にも手伝わせろ!この字を書き終えれば良いのか?」
「……この字、何か判りますか?」
「坊主が卒塔婆なんかに良く書いてる奴じゃろ、儂には判らんが」
「では、むり……」
無理だ、並の人には。
梵字を知らぬ人が間違った字を書いてしまっては、この文字に神は降りない。
「何が無理じゃ、この光ってる所をなぞれば良いんじゃろうが!」
「……!」
今、何と……。
彼は何と言ったのだ。
闇に閉ざされそうな目を、何とか開く。
途中で止まった筆の先で、淡い光が、確かにそこに在るべき種子を描いていた。
霞む目と願いの見せた幻影……そんな疑念の中、恐る恐る伸ばした指先が、その文字に触れる。
ああ……。
正しく書かれた種子を通し、現世でこの男を待つ、暖かく、強い願いを幾つも感じた。
その中の誰かが、私のしようとしている事を正しく理解し、現世で呼応してくれた。
そして、現世の者が呼応した事で、道が出来つつある。
種子が、私が蒔いた祈りの種が……芽吹こうとしている。
この男に手を差し伸べようとしてくれている人がいる。
その手の暖かさが、種子を通じて、力を失い、冷え切った私の手を僅かに温めてくれる。
ありがとう、名も顔も知らぬ、私の願いに応えてくれた人よ。
筆を持つ手に力が僅かに戻る。
君のお蔭で、私はもう少し、頑張れそうだ。
「どうじゃ、儂にだって、この字をなぞる位は」
「……そうですね、それでは私の手に、手を添え力を貸してください」
「こうか?」
「ええ」
支えのお蔭か、手の震えも何とか収まった、残る力を込めて、少しずつ筆を進める。
何とか、この光の種子からずれないようにと、おっかなびっくり手を誘導する領主殿の様子をちらりと見て、陰陽師は低く呟いた。
「……何故逃げずに、私を助けてくれたんです?」
貴方ほどの、逃げの達人が、なぜ。
ふいの陰陽師の問いに、領主は苦笑した。
「逃げろと言うて、どこに逃げれば良いかも判らんしな……それに」
「それに?」
どう言った物か、暫し悩むような様子をしていた領主が、ふいと顔を背けて、ぼそりと呟いた。
「死にそうな癖に、それでも何かやり遂げようとしてる奴を放って置けなんだ」
なんでじゃろうな……そんな気になったんじゃ。
「そうですか……ふふ」
人というのは、全く。
「何がおかしい」
「いえね、嬉しかったんですよ」
にこりと笑って、陰陽師は、最後の種子を書き終えた。
人の手は、命を奪い、道具を作り、誰かを抱きしめ、誰かを支え、誰かを傷つけ、何かを書き記し。
そうして、何かを後の世に手渡す。
だから、その時ちょっとだけ、手渡した人と、手渡された人が笑顔になれたなら、それでいいのだ。
人の生は、畢竟それで良い。
力を失った陰陽師の手から筆が落ち、石の床の上で、からりと乾いた音を立てた。
「お、おい、しっかりせぇ!」
私を必死で呼ぶ領主殿の声が遠い。
ありがとう。
貴方と、この呪の向うで私を助けてくれた人のお蔭で、私はようやく、少しは陰陽師らしいことが出来そうです。
最後に我が魂の残り火の全てを捧げ、叡智の神を降ろし、ここに九字神降の呪を完成す。
囁きにすらならない掠れた声が、微かに空気を震わせる。
「来たれ……文殊よ」
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式姫の庭二次創作小説です。 前話:http://www.tinami.com/view/986006 |
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