夜摩天料理始末 52 |
コタエヨ。
この問いに対して、俺は、他人に対して説得力を持ちうる答えを持っていない。
俺は……愚かだ。
鞍馬のように、世の物事を安易に判断せず、全てを緻密に分析し、理路整然とその精髄を極めて行く頭脳も無い、仙狸のように人生経験を幾重にも己の知恵の中に畳み込み、その厚みのある知性と理性を基に、静かに達観する事も出来ない。
右往左往し、思い惑うだけの、愚かな凡夫。
悔しさに、ぎゅっと手を握る。
……手?
自分に手がある事に、今気が付いたかのように、彼は改めて、自分の手を握った。
手か。
自分の掌に目を落とす。
「討伐お疲れさん、駆け付け三杯じゃねぇが、先ずは一杯やってくれ」
差し出した杯を綺麗に日焼けした紅葉御前の手が受け取り、ぐいと大きく傾ける。
喉がぐびりぐびりと旨そうに鳴る音に、男は嬉しそうに眼を細めた。
「ぷっはー、この一杯の為に生きてるってもんだよ、それにここで呑む酒の旨い事ったらないよ、なぁ童子切」
「全くですね、そろえたお酒が良いのもありますが」
こちらは、大杯に受けた酒の面(おもて)を揺らす事も無く、口にするすると含んだ童子切が淡く微笑む。
「気心の知れた人と呑む以上に楽しいお酒はありませんからねー」
この手で、気の合う友と酒を酌んだ。
「こりゃ、かなり凝ってるな。悪いな仙狸、面倒事を頼んじまって」
戦に必要な物資を調達する為の帳面を纏め終わり、手伝ってくれた仙狸の肩を揉む。
「口より手を動かしてくれんかの……ちと右……おお、そこじゃそこ、強めにたのむ」
「この位か?」
「そうじゃな、その調子で……しかし何じゃな、主に肩を揉んでもらうなど、式姫になって初めての経験じゃ」
ふにゃぁと力の抜けた声を仙狸が上げる。
「悪いな、この程度しか出来なくて」
「ふふ、なぁに、わっちの報酬はこれで十分じゃよ」
仙狸は眠る様に目を閉ざして、極楽極楽と呟いた。
この手で、感謝や親愛、そんな思いを伝えた。
振り下ろした刀が肉を裂く感触。
吹き上がる血と絶鳴。
倒れて動かなくなった妖を見ながら、俺はただ、荒くなった息を鎮める事だけしか出来なかった。
「震えておいでですか、主殿?」
荒い息を吐く俺に向かい、手の中の刀、蜥蜴丸が呟く。
臆病さを嘲るでも無く、挑発し鼓舞するでも無く。
ただ、俺の手から伝わる事実だけを伝えて来た。
「……ああ」
「恐怖、それとも武者震い?」
「……怖いな」
己が死ぬ事も、相手を殺す事も。
「妖の命ですよ」
妖、ヒトの敵、殺す事を世間から称賛される存在。
確かに目の前のこいつも、幾人もの人を食い殺した奴で……そいつを殺した事自体に悔いは無い。
無いけど。
「……何であっても、命を奪った事に変わりはねぇよ」
人は、いや、あらゆる命の営みは、全て取り返しのつかない事の繰り返しで出来ている事を、相手を斬殺したこの手の感触が、否応なくその事を俺に突き付ける。
「そう、そうですね」
刀の姿のままだったが。
「どうかしたか?」
「いえ、主殿らしいと思いましたので」
その時、蜥蜴丸が少し柔らかく微笑んだような気がした。
この手に刀を執り、皆と肩を並べ、生死を賭して戦った。
この手で、皆と畑を耕し、庭を丹精し、飯を作り、掃除をし、碁を打ち。
……そうして生きて来た。
ぎゅっと手を握る。
俺の手の中には……皆から預かった沢山のものが。
コタエヨ。
その声に、彼は顔を上げた。
「ああ、答えよう」
都市王の剣が、唸りを上げて床に倒れたままの夜摩天の上に振り下ろされる。
その絶望の中、動けぬ閻魔が、それでも何とか立とうと身をもがく。
領主は、何も見たくないと言うかのように、頭を抱えてうずくまる。
そして陰陽師は……ただ、祈っていた。
全ての力を絞り尽した人が、それでも及ばなかった時。
その足りない力を貸してくれと。
ただ祈り、そして願った。
ギンと、硬い石に刃が食い込む音が、静まり返った法廷内に響く。
夜摩天を両断し、法廷の床まで刃が食い込んだか。
顔を上げ、悲痛な目をそちらに向けた閻魔は、だが、そこに未だ床に倒れたままの夜摩天と、彼女の隣に振り下ろされ、石の床に食い込んだ都市王の刃を。
そしてその後ろ、あの三人の人間を守るかのように佇む、杖のようにも見える弓を構えたほっそりした人影を見た。
「流石に強いですね、私の一撃で剣を手放さないとは」
彼女は、ずっと隠していた、その理知的な美貌を、今は堂々と晒して、そこに立っていた。
「……なんで?」
この場所ではあり得ない存在を認めた閻魔が、茫然と呟く。
なんで貴女が。
夜摩天もまた、信じがたい物を見るような表情で彼女を……そして彼女が放った矢を見ていた。
緑の光を帯びた矢が都市王の剣を握る腕と、踏み込もうとした右脚を深くえぐり、更にもう一筋の矢は、夜摩天に振り下ろされた剣に突き立ち、その軌道をずらしていた。
一瞬の自失、だがそこから直ぐに立ち直り、夜摩天は叫ぶように声を上げた。
「駄目です……貴女がここに居ては!」
お忍びでの多少の情報交換程度なら兎も角、顔を晒し、紛争に介入するとは、それは天と冥府の間で取り決められた不可侵の協定に背く行為。
それに反しては、例え彼女ほどの神といえど、厳罰を下されるのは……。
その声を受けて、彼女は僅かに柔らかく微笑んだ。
「お久しぶりです、夜摩天さん」
涼やかなその顔と声を間違えようも無い。
キ……サマ。
その時、都市王の喉が、軋るような声を発した。
その喉の、本来の持ち主では無い存在が、無理やり吐きだす音。
「何です、都市王殿……いえ、彼の体を乗っ取った」
彼女の眼鏡の奥の瞳が、珍しく険しく鋭い色を帯びる。
「玉藻の前」
ナゼ、キサマが……。
呪詛に満ちた声が冥府の法廷に陰々と響く。
メイフデノイクサニ、キサマガ!アマツカミガ、カカワッテ、ヨイトオモウカァ?!
「貴女に文句を言われる筋合いは寸毫もありませんが……」
ふ、とため息とも憫笑ともつかない吐息の後に、彼女は微苦笑を浮かべた。
「仰る通り、天津神が冥界の事に関与する事は、本来禁じられているのは間違いないですね」
地上の世界に多少の介入をする程度は、口実一つでどうとでもなろうが、ここは冥王達の治める、世界の命と魂の循環活動たる、輪廻を司る厳正なる別世界。
いかに正しき理由からであろうが、他界の神からの干渉は、衝突と破局をもたらしかねない。
故に、かつて生じた軋轢の後に、互いに干渉しあわない事を約定した。
それを破る存在に対しては、厳しい罰が下される。
だけど。
くすっと、本当に珍しく、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「それは神霊たる私の話でしょう?」
ナンジャト?
そう……神霊の私には、何も出来ないが。
「ここに居る私は、天津神の一柱ではありません」
その眼鏡越しの鋭い目を若干優しくしながら、倒れ伏し、動けない陰陽師に向ける。
「今、ここに立つ私は、この方の術が結んだ仮初の姿」
「……わ、たし……が?」
上げた焦点を結ばぬ目に、ぼんやりと優しげな顔が映る。
君を私が呼んだと?
「ええ、そうです」
その繊手が、陰陽師の右手を指し示す。
「我が力の一部を象徴する種子に、貴方は力を与え、そして、冥府と現世への道を開き、助けを強く願った」
九字の最後の種子、知恵を司る菩薩、文殊。
式姫の庭の主、彼の体に書き付けた、その種子の上に置いたまま、もう動かす事も出来なかった、私の右手。
これを依代に……では、まさか、貴女は。
この仏を化身に持つ。
「その願いに私は応え、その種子を依代としてここに顕現しました」
そして、彼女は主と認めた存在に、自らの尊き名を告げた。
「我が名は、式姫、思兼(おもいかね)」
それを聞いた陰陽師の頬を涙が濡らす。
貴女は、私を認めてくれたのか。
「冥府と現世を貫いて届いた、強き願いの籠もった召喚に応じ、分霊をここに顕しました」
私はやっと、この生を通じて渇仰し続けていた……。
「ご命令を、我が主よ」
式姫と共にある陰陽師に、なれたというのか。
滂沱と溢れる涙をそのままに、陰陽師は思兼を見上げ、口を開いた。
「私は、この人達を助けたい」
私の魂を救ってくれた、そして今、式姫と共に在れた……その僥倖をくれた恩人たちを助けるために。
「だから頼む、私と共に、戦ってくれ」
命令をするのではない、縋るのでも無い。
共に歩む相手として、君に願う。
この動かぬ身で、こんな願いは滑稽に聞こえるかもしれないが。
だけど頼む、せめてこの魂だけは、君たち式姫と共に戦わせてくれ。
あの男のように。
その目を、全てを見通すと言われた神の瞳が受け止めた。
陰陽師としての栄達に挫折し、権謀と野心の濁流の中に身を投じ、裏切りと殺戮に満ちた生を終え、その果てに、式姫の庭の主と冥王の魂に触れ、貴方が最後に辿り付いた境地。
その覚悟、その魂、確かに見せて頂きました。
「承知しました」
思兼の放った矢を抜き放ち、その傷が癒えた都市王が、咆哮と共に、降って湧いたように現れた強敵に殺気を向けた。
右手には愛用の剣を、そして、背中から生えた別の手に、夜摩天の斧を拾い上げた彼が、凄まじい勢いで思兼に迫る。
それをちらりと見てから、思兼は静かに頷き、得物を構えた。
「共に戦いましょう」
説明 | ||
式姫の庭の二次創作小説です。 前話:http://www.tinami.com/view/986786 数少ない式姫眼鏡のもう一人思兼様、ついに登場。 作中の描写に関して、現在では、思兼様の本地仏の中に文殊菩薩が居ない事は承知してますが、鬼無里村の朝日社では文殊菩薩と思兼命を祀っていたという事例も有り、中世の信仰に於いては同一視に近い扱いが有ったとしても不自然では無いと判断し、採用しております。 |
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