ライカ
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 学校を出ようとしてローファーを履いたところで、背中をとんと押される感覚があった。振り向くと、わたしの背中に手をついて苦しそうに呼吸をしている女子生徒がいた。びっくりして出口のほうへ後ずさると、彼女が身体のバランスを崩して転びかけた。思わず抱きかかえる。

「大丈夫?」

「ごっ、ごめんなさい」

 誰だっけと一瞬考えたけれどすぐに思い出した。うちのクラスに入ってきた転校生だ。

 苦しそうな息を整えながら、転校生はまっすぐと立ってわたしの手を握った。

「宮次さんっ」

「な、なに?」

「私に、東京を案内してほしいんよ」

 すぐに返事ができなかった。喋ったこともないのに、どうしてわたしなんだろう。それに、どうして名前を知っていたんだろう。席も近くないから、当然話したこともない。彼女が転校してきたのは一週間ぐらい前だったけれど、初日から何人ものクラスメートに囲まれていた。わたし以外に東京を案内できる人間はいくらでもいるのに。

 どうしてわたしなの、と聞くときに、まだ彼女の名前を聞いていなかったことを思い出した。

「ごめん。名前なんだっけ」

「ふかがわ……」

 しばらくしても、彼女は苗字から先を話そうとしなかった。あんまり名前が好きじゃないのかな、と思って、苗字で呼ぶことにした。転校初日に自己紹介をしただろうけど、聞いていなかった。

「深川さんね。それで、なんでわたし?」

 ローファーを履くようにジェスチャーをして、出口へ誘導する。彼女は一番端のシューズロッカーに手をかけて、上履きを脱ぎながら説明をし始めた。田舎から突然東京に出てくることになったから、学校とその近くは迷わないように道を覚えておきたい。友達はみんな部活で忙しくて、吹奏楽部の由依ちゃんから帰宅部の宮次さんを薦められた。聞けば、わたしを探すために随分と校内を走り回ったという。学校の中だってそこそこ広いのに、と思うと、なんだか申し訳ない気持ちになった。

「由依、連絡くれればよかったのに」

「電池が切れてるって」

 そういえば、そうだ。由依の携帯はいつも電池切れだから、連絡が取れないこともしばしばある。由依は中学から五年間、ずっとクラスが同じ友達だった。彼女のご指名ということは、より一層しっかりとエスコートしたほうがいい。大事な友達でなければ、わたしに任せてくれないはずだから。

「それじゃあ、歩きながらゆっくり話そうよ」

「よろしくお願いしますっ」

 深川さんが深々と頭を下げた。

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 学校を出て住宅街を抜けると、大きな繁華街に出る。東京の中でも特に発展しているこの街に立ち寄って帰るのが、うちの学校に通う生徒の行動パターンだった。わたし自身も入学した当初は道に迷って遅刻したことがある。入り組んでいてわかりにくい場所だから、転校生にはもっと辛いだろうと思った。

「深川さんはさ、どこから転校してきたの」

「すっごい田舎! ビルなんて市役所しかないような田舎なんよ」

「そうなんだ……すごいね」

 本当はどこの県から来たとか、どこの街から来たとかそういうことを聞きたかったけれど、聞いてもピンと来ないかもしれないと思って聞き直さなかった。

 深川さんは目をキラキラさせて、ひしめく建物や、何軒も隣り合って営業しているコンビニを眺めていた。

「あそこが駅。学校までの道はなんとなくわかる?」

「いま通ってきた道でバッチシ。これで迷わんよ、ありがとう」

「ううん、どういたしまして」

 といいつつ、彼女はスマートフォンの画面とにらめっこしながら、おそらく歩いてきたルートを指で辿っているようだった。

 東京を案内してほしい、とお願いされていたことを思い出して、彼女がどんなところを見たいのか尋ねた。

「どこか見たいところはある?」

「えっと、あのビル……サンシャインだっけ」

「駅の向こうだね。じゃあ、こっち行こう」

 サンシャインは、駅を超えた方向にある大きなファッションビルの名前だ。深川さんはテレビで見て知っていたと言う。

 駅の東口と西口を繋ぐコンコースを歩きながら、駅前のお店で買ったシナモンドーナツを食べた。彼女は、都会で食べ歩きすると美味しく感じるねと言ったあと、こちらを向いた。

「聞きたいことがあったんだった。宮次さんにとって、東京ってどういう街なん?」

「東京? 考えたことないな……。東京以外に住んだことないし」

 まあそりゃそうよね、と彼女は下を向いた。いつの間にか手元のドーナツが無くなっている。

「深川さんは、東京ってどんな街だと思う?」

「うーん、と」

 彼女は頬を指でなぞって、むずかしいなぁと呟いた。

「来たばっかりだからわからんけど……でも、全部が物新しさで溢れてて楽しい街だと思う。おもちゃ箱みたいに」

「おもちゃ箱?」

「うん。東京は人もいっぱいいるし、モノもいっぱいあるんね。私、なんにもないところから来たから」

 食べ歩きするもんだって肉まんぐらいしかないんよ、と笑いながら彼女はドーナツの包み紙を鞄にしまった。

 コンコースを抜ける。駅前には四車線の道路が二つ通っていて、いろんな種類の車が四方八方へ走り去っていく。こういうのも、彼女にとっては東京の象徴なんだろう。深川さんは少し顔をしかめていた。

「空気が淀んでるね……」

「そうかな」

「み、宮次さんは大丈夫なん? っていうか、他の人も平気そうにしとる」

 きょろきょろと周りを見て、東京の人はすごいなと感心している様子は、わたしにとっては新鮮なものだった。確かにここは他の場所より排気ガスのにおいがして空気が煤けているように見えるけれど。

「こっちの方は来たことなかったの? みんなと遊ぶなら、大抵こっちだと思うけど」

「一週間、転校してきたばっかりでごたごたしてて。遊べんくて……みんな部活が忙しくて、これからしばらく休めないって」

 わたしのクラスメートは大抵どこかの部活に入っていた。由依は吹奏楽部でパートリーダーだし、愛美は陸上部。千秋はダンス部で二年生のまとめ役をしている。わたしは誰かがオフのとき以外はひとりで帰ることにすっかり慣れてしまっていた。

「クラスで暇なの、わたしぐらいだったな」

「そうなん? 宮次さんも部活入ればいいのに……ひゃあ!」

 信号を渡っていると、彼女は反対側から押し寄せた人波に驚いたのか、わたしの手を掴んできた。つなぐというよりはがっしりと握っている。急なことだったからびっくりして、立ち止まってしまった。

「ごっ、ごめんなさい!」

「びっくりしただけだから、別にいいよ。はぐれちゃったら大変だし、繋いでて」

「そ、そう? おっ、お願いします」

 こんな人混みの中を進むのは始めてだというように、強い力が手に入ってくる。わたしに若干引っ張られるようにして歩いている彼女を少し可愛らしく思った。

 大通りを左に曲がってサンシャイン通りに入ったところで、彼女が空を見上げる。つられて一緒に視線を上げてみると、建物に周りを囲まれて真ん中に空がひらけていた。ドーナツの穴から外を見たときみたいだった。

「空、狭いなあ」

「うん、狭い。窮屈だよね」

 顔を見合わせる。彼女は一瞬不思議そうな表情をしたあと、あははと勢い良く笑った。どうして笑っているのか分からずに彼女を見ていると、楽しそうに自分の頬を指でなぞった。

「東京の人でも、感想は同じなんやね」

「空のこと?」

「うん。東京の人は、これが普通なんだと思ってた」

 ここは繁華街だから、他の場所より背が高いビルが並ぶ。ただ歩いているときには感じないのに、見上げると一気に閉塞感に襲われる。もっとも、普段はここで空を見ない。わたし自身が持っている空のイメージは、どこかへ旅行に行ったときに見上げる広い空だったから、余計に狭く感じる。

「たぶんわたしの思ってる空は、深川さんと一緒だよ」

「ほんとう? 宇宙のウラまで覗けちゃうほど、くっきり見える空?」

「うん。星の光が見える」

 なんだか親近感わいたな、と言って彼女はふたたび笑顔を見せる。お互いの見ていた「東京」と「田舎」の景色がはじめて重なった。話し始めて一時間だというのに、ずっと前から二人で遊んでいたかのように感じた。

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 サンシャインビルに入る前、深川さんがビルの最上階へ視線を向けた。

「おっきいなー。ここは空も広いし」

「あんまり来ないけどね、普段は」

「そうなん?」

「駅と離れてるでしょ。ここまで来なくても、けっこう用事は済んじゃうんだよね」

 彼女はへえー、と残念そうに言った。こんなに大きな建物があるのに勿体無い、と言いたげに見えた。中を一周しようよと提案して、ふたりで建物の中へ進む。入口のドアを抜けると、ショッピングモールのちょうど端っこに出た。

「宮次さんはショッピングとか好きなん?」

「そこそこ。買うのはCDとかだけど」

「じゃあ、いっぱい音楽聞くんやね」

 どんな曲を聞くの、と聞かれて、ポケットにしまっていたスマートフォンを取り出してプレイリストを開く。好きなアーティストのアルバムを画面上に表示させると、彼女は知ってると言ったり、私も好きとはしゃいだり、さまざまなリアクションを見せた。そのうち、彼女も自分の音楽プレイヤーを取り出して、プレイリストを見せてくれた。わたしと同じ曲を聞いてると分かると嬉しくなった。

 歩き回った先にあったファストフード店で休憩することになって、ハンバーガーとコーラをひとつずつ買って席についた。

「そういえば、深川さんはどうして転校してきたの?」

 なんとなく頭の中に浮かんでいた質問が口をついて出た。ハンバーガーの包みを触っていた彼女の動きが止まる。もし言いたくない事情が絡んでいたなら失礼な質問になるから、聞かないようにしようとしていたのに。しかし、特にそういうことはないようだった。包みを開いて、食事がしやすいようにハンバーガーを持ち直す。

「お父さんの仕事の都合。どうしても東京に来なきゃいけなくて、家族全員で引っ越してきた」

「東京で働くことになったんだ」

 そうなんよ、と彼女はハンバーガーを一口食べたあとに、口をペーパーナプキンで拭って続ける。

「ほんとは東京に来たくなかったんやけどね。地元は離れたくないし、東京は怖いところだって聞いてたから」

「怖いところ?」

「ちょっと身体がぶつかっただけでカツアゲされるぅ、とか。落とし物が二度と帰ってこないっ、とか」

 おおげさなジェスチャーをつけて話しているのが面白くて、思わず笑ってしまった。彼女はほんとにそういうイメージだったんよ、と唇を尖らせていた。

「想像が古すぎだって。そんなに怖いところじゃなかったでしょ?」

 彼女の表情がぱっと晴れやかになる。

「うんっ。むしろ、クラスも優しい人ばっかりでびっくり! 宮次さんだって、今日初めて会ったのにいろいろ付き合ってくれるし」

 褒められたのが恥ずかしくて、彼女から目を逸らすようにストローに口をつけた。勢い良くすすったコーラが口の中でぱちぱちと弾ける。

「むしろ、わたしで良かったの? 由依とかのほうが良かったんじゃない」

「由依ちゃんが、宮次さんと話してるとこ見てたから。私も喋ってみたいなって思ってた」

 宮次さんは私の第一印象、どんな感じだったと質問される。転校生が来たとみんなが騒いでいたときは好きなアーティストの新譜を買わなきゃ、なんてどうでもいいことを考えていて、正直きょうまで全然見ていなかった……なんてことを正直に言えば、悲しませてしまう。

「おとなしそうな人……だな、って」

 なんだかわざとらしくなってしまったけれど、深川さんは良く言われるんだと返してくれた。気がついたら、もうハンバーガーの包み紙を四つ折りにしてトレイの上に置いている。ドーナツのときも思ったけれど、食べるのが早い。

「でも食べるの早いみたいだし、喋ってて印象変わったよ」

 そう言うと彼女は包み紙とわたしの顔を交互に見て、あははと頬を指でかいた。

「なんか、田舎っぽいかな。恥ずかしい」

「そんなことないって」

 ふう、と一息つく。手元にある半分ほどの量になったハンバーガーをじっと見ていると、深川さんが明るい声色で言った。

「楽しいね」

「うん。なんだか新鮮」

「本当にいろいろ案内してくれて、ありがとうね。宮次さんもだし、由依ちゃんたちも……みんないい人で良かったなあ」

 彼女は少し目を細めて、転校初日は不安だらけでしょうがなかったんよ、と続けた。わたしは転校を経験したことがないけれど、いきなりコミュニティが出来上がってる場所に飛び込むのってすごく怖いことだと思う。深川さんも見知らぬ土地で見知らぬ人に囲まれて不安だったろうし、わたしももっと早く話しかければ良かったかもしれない。

「転校してきた日に話しかければ良かったな、深川さんに」

「これからいっぱいお喋りすればいいんよ」

「そっか、そうだね」

 それからしばらく、由依や愛美の話をした。彼女はわたしの話を楽しそうに聞いてくれていた。やがて、トレイには四つ折りの包み紙と空っぽになった紙コップがふたつ並んで、わたしは「そろそろ出ようか」と席を立った。

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 ショッピングモールを一周回って、二階から公園に繋がる広場へと出た。入り組んだ大きな階段のほうへ、彼女が思い切り駆け出した。

「スペイン階段だ!」

「そういう名前なの?」

 ゆっくりと歩くわたしのほうを向いて、彼女はにっこりと笑う。

「そっ。ローマの休日って映画、知らん?」

「名前は知ってる。見たことないけど」

「それに出てくるんよ。主役の女の人が、ここでジェラートを食べるの」

「へえ。ここで撮影したんだ」

 深川さんは一瞬きょとんとした顔を見せて、すぐさま苦笑いをして「いやいや」と手を振った。自分でも言ったことが見当外れだったことに気付いた。ローマの休日、なんだから東京で撮らないよ。

「本物はちゃんとローマにあるんよ。映画のファンがいっぱい遊びに来るんやて」

「あれ。でも、ローマってイタリアじゃなかった? どうしてスペイン階段って言うんだろう」

 彼女はえ、と声を漏らしたあと、腕を組んで首をひねってしばらく唸っていた。その理由はわからないらしい。

 階段をのぼった先の広場に置いてあった自販機からジュースをふたつ買って、隣のベンチに腰を下ろした。

 なんとなく空を見上げてみる。ベンチの後ろの植え込みから伸びている木とビルが視界の半分以上にせり出て来ていた。

「こういう空はどう?」

 缶に入っているカフェオレを飲むタイミングで顔を上げた彼女は、こういうのもオツなもんやね、と言った。

「オツなもん?」

「えっと、最高じゃないけどそこそこ素敵だねってこと。なんでオツっていうのかは知らないけど」

 確かに、【オツなもん】だと思った。ビルが見えているのに、不思議と閉塞感もない。空港の滑走路のように空に向かって一本伸びていて、ネイビーブルーの色をした空が綺麗だった。

 両手を組んで身体を伸ばして、彼女は鞄から大きなクッションのようなものを取り出した。スカイブルーのそれに手を突っ込む。一眼レフのカメラが小さな手のひらに吸い付くようにして出てきた。

「カメラ?」

「うん。趣味なんよ、お父さん譲り」

 彼女がカメラを向けた。大きなレンズがわたしを捉える。撮られるのかなと思って、少し身構えて笑顔をつくってみた。

「私、風景写真だけなんよ。ごめんなさい」

「そっ、そっか」

 恥ずかしくなって顔を背ける。その直後、かしゃっとシャッターが降りる音がした。身体を元の位置に戻すと、彼女は慣れた手つきで向かい側の誰も座っていないベンチを撮っていた。もう一度、シャッターの音。

「すごいね、慣れてる」

「あはは、ありがとう。田舎は娯楽が少ないから、こういうのが趣味になるんよね」

「撮った写真、たくさんあるの?」

 あるよ、と言って、カメラに保存されている写真を何枚か見せてくれた。月明かりに照らされた海や誰もいない道の写真には、言葉では言い表せないような不思議な魅力があった。うまく感想を伝えられないことがもどかしいくらいに、美しかった。

「綺麗だね」

「目で見ていいなって感じたものは、カメラで残しておきたくて。この空もね」

 ベンチから立ち上がって、数歩進んで止まる。真上を撮るというより、斜め上を写すようにカメラを構えた。

「連れてきてくれてありがとう。おかげさまで、いい写真撮れた」

 ベンチに戻ってきた彼女が撮った空の写真を液晶画面にうつす。いま肉眼で見られるこの景色が、写真として残っていくのもいいものだなと思った。なにより、彼女が写真を撮るところを眺める時間は心地良かった。

「また今度、別の場所に行こうよ。写真を撮りに」

「ほんとっ? 良いとこ教えてくれるん?」

「深川さんが気に入ってくれるかは、分からないけど」

 彼女は楽しみにしてるね、と言ってカメラのネックストラップを首にかけた。

「いっぱい東京の町並みをうつして、田舎の友達に見せたいんよ」

「それじゃ、都会っぽいところを案内するね」

 深川さんと一緒に見る景色は初めて見るようで、楽しい気分になる。東京を案内しているつもりが、本当はわたしが案内されているようにも思えた。

「そうだ、深川さん」

「えっ?」

「名前まだ聞いてなかった。わたし、真澄」

 彼女はわたしの名前を反芻して、よろしくと言ってくれた。苗字じゃなくて名前で呼んでくれる友達が増えるのはいくつになっても嬉しいことで、頬が緩む。深川さんの名前はと聞くと、自分の名前はあんまり好きじゃないけど、と下を向いたあと、わたしの目を見つめた。

 その名前を聞いて、彼女の首から下がっているカメラに視線が移る。レンズの上に書いてあるメーカー名と同じ名前をつぶやくと、目の前で少し恥ずかしそうに顔を赤らめた。

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転校生の百合です。
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