夜摩天料理始末 58
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 とくん。

 微かな波動が、冥府の廷内に静かに響いた。

 そこに居た、全ての存在が、それを感じた。

 

 その波動が何を意味するか、それを悟った夜摩天の頬を伝い、頤から落ちた雫が、法廷の床で弾けた。

 言葉にならなかった。

 ただただ、嬉しい。

 私の、あの料理を食べてくれた人が、生きていた。

 心が歓喜に震える。

 暖かくこみ上げる感情が、彼女の目から、涙になって零れ、床を濡らしていた。

 

「……くっく……はは」

 苦労を背負こみに、わざわざ帰って来たか、大馬鹿者め。

 陰陽師が、それ以上笑う力も無く弱々しく咳き込む、それでも彼は微かに口角を上げた。

 それで良い。

 お前は、それでいいんだ。

 

「あの料理は、この世界の至宝たりうる存在……か」

 閻魔は、目を細めて彼と、そして夜摩天の姿を見ていた。

 夜摩天の料理が、都市王の手で奪われ掛かった一つの魂を救った。

 その料理は、万人にその味を喜ばれる物では無くなってしまったが。

 それでも、あの料理は、少なくとも彼を助け、彼の帰りを待つ式姫達を笑顔にしてくれるだろう。

 誰かを助けて、誰かを笑顔にできた。

 それは、貴女がその生を通じて望んでいた事。

 形は変わっても、貴女の料理はその役目を果たした。

 それは、とても素晴らしい事じゃないかな。

 

「可能性の卵が、孵りましたか」

 都市王の猛攻を凌ぎながら、思兼がクスリと笑う。

 不確定の、そう、さながら原初宇宙の混沌のようだった彼の魂が、今明確な姿を取って彼女の賢者の目に映る。

 ただの人が。

 いや、神にも魔にもなれたのに、試練の果てに、敢えて人である事を選んだ魂が、そこに。

「……良かった」

 建御雷よ、式姫達よ。

 貴女達の想いは、ちゃんと、彼に受け止められていましたよ。

 神のように世界を睥睨(へいげい)し、一足の下、強く早く華やかに制する歩みでは見えない場所。

 人が大地を踏みしめ、時に這いずってでも進むその先にしか存在しない、そんな時と場所は、確かにこの世界に存在するのだと。

 だからこそ、式姫達は神々の力を持ちながら、地上に、人と共に在る。

 そこまで歩くと決めた人と、その途中で、志半ばで力尽きた人の想いと共に、その約束された場所に、共に立つ為に。

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「キサマ、キサマノネライハ、コレカ……コレダトイウカ?}

 馬鹿な、あり得ない。

 それは、ある意味では彼女の自尊心を、最も引き裂く話だった。

 この知恵の女神は、たかが一人の人間、塵芥の如き存在の為に、その高貴なる分霊を、冥府の底に送ったと。

「その通り」

「タカガヒトノタメニ、カミガミガウゴイタノカ!」

 冥府の秩序を守り、妾や、黄龍の復活を阻むためではなく。

 たかが……人の為に。

「そうですね、確かに彼が復活したとて、貴女を一撃で滅ぼすような力も無いし、世界に跋扈する魑魅魍魎を平定する事も出来ないでしょう」

 その意味では、彼の復活など、たかがとしか言いようが無い事。

 そう、そういう価値のみを見る、貴女には判らないでしょう。

 けどね。

「彼はただ、自分が正しいと思う道を真っ直ぐに歩んできただけの人です……でも、その歩み方に、選んだ道に惹かれた、多くの流れが集まり、そしてその流れが、彼に、更にその先に進む事を望んだのです」

 それは、人であり、式姫であり、軍神建御雷であり。

「そして、それは私も同じ」

 今回の顛末の全てを見届けた今。

 世界の調和や、建御雷や式姫達の為だけではなく。

「私自身の想いとして、彼の歩みを見届けたくなったのです」

 

 刹那、都市王の、いや、その奥に光る玉藻の前の意思と、思兼の静かな瞳がぶつかり合う。

「カミガ……セツナニスギヌ、ヒトノセイヲ……ダト」

「ええ、私たちから見れば、一瞬の……そして得難い煌めきに」

 思兼の目に、煮えたぎるような屈辱と怒りと憎悪が見えた。

「……フザケルナ」

 低い唸るような声が、様々な感情に揺れる。

「ミトメヌワァ!」

 怒りの咆哮が冥府の廷内に轟いた。

 都市王が大きく剣を振るい、同時に背中に生じた手にした夜摩天の斧を、次いで何時の間に拾っていたのか、砕けた床石を投げつける。

 奇襲とも言えるそれらの攻撃だったが、それすら、全てを見通していた思兼を捉える事は出来ない。

 だが、その攻撃を回避した彼女と、都市王の間合いが大きく離れた、その拍子に、都市王は思兼に背中を見せて、躊躇いなく走り出した。

 冥王の座に。

 いや、その後ろに封じられた黄龍の魂に向かって。

 その背に、瞬時にぴたりと弓の狙いが付けられる。

「止まりなさい!」

「イタケレバ、イヨ!」

「……く」

 玉藻の前は賭けに出たのだ。

 都市王の攻撃をいなし、引き付け続けていた思兼。

 彼女を冥府に存在させている陰陽師の力が、最早限界に近づいている事に。

 その命を乗せた矢を思兼が射る事が出来るか、それとも出来ないかに賭けた。

 今、ここでこの矢を……奴を止め得る一撃、神の矢を射放てば。

 あの、辛うじて存在している陰陽師の魂は、全ての力を失い消失するだろう。

 それは……。

 狙いを付ける手がほんの僅かに震え、狙う都市王の巨大な背が揺れる。

 都市王が階に足を掛けた。

 ようやく動けるようになった閻魔が、罵り声を上げながら、斧を手に立ち上がる。

 夜摩天もまた、ふらつく足を踏みしめ、涙を拭って立ち上がる。

 だが、今からでは都市王の疾走を止めるのには、間に合うまい。

 私が射ねばならない。

 世界を滅ぼしかねない、黄龍の封を守る為には、それしかない。

 でも、それは。

 

 射よ。

 

 その言葉が、迷う思兼の心を貫いた。

 貴方は。

 射るんだ。

 駄目です、貴方の魂が存在している間に、冥王の判決を受け、次なる生を示されさえすれば。

 そうすれば、大いなる世界の理は、貴方の魂を忘却の裡に包み、癒し、そして次なる生に貴方を導いてくれるでしょう。

 今なら、まだ何とか間に合う。

 何か他に手段が……。

 そう、あの、庭の主殿が目覚めてくれれば、その力で……。

 時が無い。

 

 都市王が冥王の座に至る長い階を駆け上る。

 

 何か手段が在る筈です。

 君が思いつかない時点で、他に手段はない。

 

 都市王の振るう刃が、冥王の卓を、座を砕き、たくましい腕が残骸を払いのける。

 

 ……私に、主と認めた人を殺せと言うのですか。

 違う。

 それは、時に神々すら圧倒してきた……限りある命と魂だけが発する事が出来る、本当に静かな叫び。

 君には判っている筈だ。

 私が望んだ場所と生は、今、私の目の前に在る。

 だからこそ、その最後の一矢を。

 私の生を最後まで貫き、私を本当の意味で生かす、最後の一矢を、君が放つ。

 君は、その為に、その高貴なる神の身をやつし、ここに来てくれた。

 そうなんだろ?

 ……はい。

 滅びゆく魂の気配を感じ、その悲痛なまでの願いに、私は応えた。

 ありがとう、優しい女神よ、私は、君に救われたんだ。

 では、最後に、陰陽師らしい事をさせて貰おうか。

 

「我が式姫、思兼よ、主が命ずる」

 

 これは、私の願い。

 君はそれを叶えるだけ。

 だから、もう、泣くな。

 

 黄龍を封じた、分厚い扉に向かい、都市王が剣を振りかぶる。

 追いすがる閻魔と夜摩天も、ようやくその足を、階(きざはし)に掛けた所。

 それを睥睨(へいげい)して、彼女は笑った。

「カケハ、ワラワノ!」

 勝……そう吼えて、剣を振り下ろそうとする、その体を、緑の光が貫いた。

 凄まじい威力をまざまざと示し、その巨体が宙を舞い、壁に矢で縫い止められた。

 身をもがき、その矢を抜こうと触れた手が、瞬時に溶け崩れる。

 自らの敗北を悟った、絶望と無念の叫びが、甲高い狐の鳴き声のように上がる。

 完璧な力で深く体内に撃ちこまれた神の一矢。

 叡智の征矢の力が、都市王の体内に張り巡らせた、殺生石の邪悪な力を浄化していく。

 背中から伸びた腕がぐずりと崩れ落ち、巨体が徐々に元の都市王の姿を取り戻していく。

「オモイカネ……キサマァ!」

「賭けは貴女の負け」

 思兼が静かに弓を下ろした。

 その、彼女の姿もまた、この場に存在する力を失い、足元から薄れていく。

「……これで、良かったんですよね」

 彼女がそう呟きながら向けた目の先には、もう、あの陰陽師の姿は無く。

 力を使い果たした魂は、個を失い、その存在を、世界に還していた。

 思兼が目を伏せる。

 見事です、我が主よ。

 その魂、そして、その生き様、我が胸に刻みましょう。

 

「玉藻の前、貴女は、最初から間違っていたんです」

 なん……じゃと。

「貴女の賭けの勝負の相手は私ではなく、彼でした」

 妾が、人に。

「貴女は自分が弄んできたつもりでいた、人の覚悟の前に負けたのです」

 そして、巡らせた陰謀もまた。

「ご覧なさい」

 消えゆく思兼が細い手を上げ、指差す先。

 一人の人が身を起こす。

「そして今、貴女の陰謀も、ここに潰えました」

 そう、宣し。

 その言葉を最後に、知恵の女神の姿もまた、主の後を追うように、冥府の法廷から消えた。

説明
式姫の庭の二次創作小説です。

前話:http://www.tinami.com/view/989474
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タグ
式姫 思兼 閻魔 夜摩天 

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