夜摩天料理始末 60 |
「人界に?」
儂を?
「そうじゃ、修羅界送りを宣された、哀れな男よ」
「修羅……」
ああ、そうじゃった。
儂は、ここを潜り抜けても。
永遠に戦い殺し合い、生き返り、また殺し殺される、修羅の世界に転生せにゃならんのじゃ。
惑い揺れ動く領主の目を、妖狐の瞳が捉え、その奥の心をも呪縛した。
ぐびりと喉仏が大きく上下する。
彼が呑み込んだのは生唾か、それとも……。
「駄目よ、おっちゃん!」
こちらに走り寄りながら叫ぶ閻魔の声も、彼の耳にはもう入らない。
「顔を上げよ」
その声に導かれるように、領主は体を起こした。
「見よ」
その首の視線を追った領主の目に、身を起こそうとする庭の男の姿があった。
「お、お前、生きとったんか!?」
その言葉にも、だが、庭の男は反応せず、虚空を睨んだまま。
やはり、魂の蘇りには、それなりの力と、適応に時を要するようじゃな。
あの知恵の女神が喝破したように、魂が滅びから復活したこの男は、卵から孵った直後の、雛のような存在なのだろう。
この身が動くものなれば、あの無防備な喉笛に食いつき、噛み裂いてくれように……。
無念じゃが、今は時が無い。
「そやつでは無い、その隣じゃ」
「隣……」
目を転じた領主の目に、虚空に浮かぶ、淡い光の輪があった。
この光りは、あの陰陽師の書いた……あれと同じ。
「これは?」
「これは、現世に通じる門じゃ」
あの陰陽師が開き、この門を通じて、現世に祈りを届け、あの思兼を呼び出した。
冥府の法廷を崩壊させんとした、妾の望みを阻んだ……忌々しき人の願いの力。
「あの陰陽師が開いた、冥府と現世を繋ぎ、この男に力を与え、帰還させる為に開いた道じゃ」
これを通れば、誰でも人界に……。
「いけません、貴方は……貴方は死んだのですよ!死んだ者が現世に戻るなど!」
夜摩天の言葉にびくりと領主の肩が震える。
「儂は」
そうか、儂は死んでおって……。
「そこの男が生き返ろうというのじゃぞ、ヌシが生き返って何が悪い?」
その言葉を聞いた領主の顔が僅かに戦(おのの)いてから、無理やり捻じ曲げる様に青年の方を向いた。
その表情。
閻魔と夜摩天の目に、一瞬だけ見えた。
泣いてるような怒っているような笑っているような……一瞬であらゆる感情が溢れだした、奇妙な、それは、とても人間らしい顔だった。
彼が戦い、生き抜いて得て来た領土、眼下に多くの将兵を睥睨する……あの場所。
例え、戦陣での死、部下の裏切り、口にする物の毒、抱いた女に寝首をかかれる、そんな恐怖に怯えようと。
それが、儚い砂上の楼閣に過ぎぬとしても。
「……戻りたい」
その言葉に、都市王の首が……いや、玉藻の前の顔がにんまりと笑う。
「よう言いやった、さ、我が首を持て」
言われるままに、彼は目の前の首を両手で捧げ持つように手にして、その場に立った。
「並の人では、冥府と現世の間に横たわる、長い長い道に迷うでな、妾が案内(あない)してやろう」
怖れずに、その光を潜れ。
その声に、ふらふらと領主の足が一歩を踏み出す。
「止め……ろ」
領主の足が、背後からの声に止まった。
どこかまだぎこちない、辛うじて振り絞るような声だったが、あの青年の声だというのは判った。
その声に、振り返る事は無かったが、彼の足が止まった。
閻魔と夜摩天が慌ててこちらに走り寄る、石を蹴る硬い沓音が、静寂の支配する廷内に響く。
わなわなとふるえる領主の背中と手を見ながら、男は静かに言葉を継いだ。
「……なぁ、騙されて利用されるのは、一度で沢山だろ?」
あの陰陽師に唆され、彼を謀殺し、そして、彼の式姫に首を刎ねられた。
儂は……。
何となく判っている。
今ここで、この首の言う事を聞き、この輪を潜れば人界に戻れるのは間違いない。
だが、それはあの陰陽師や、この男の苦闘を裏切る行為なんだという事も。
そして、この青年の言葉が、恐らく正しいだろう事も。
心のどこかで悟っている。
だけど……な。
「ちっ!」
やりたくはないが已むを得ない。
間に合わないと見た閻魔が、領主に向かい斧を投げつけようと、走りながら目を凝らす。
脚でも手でも良い、私たちが駆け寄るまでの僅かな時を稼げれば……だというのに。
「……無理です、閻魔」
傍らの夜摩天は、閻魔より先にその手段を考えていたのか……低く呻いた。
そして、閻魔の目も、夜摩天と同じ結論を見出した。
彼らは、どうやっても柱の陰になり、まともに狙えない位置にその身を置いていた。
一つ舌打ちした閻魔が足を速める。
「上手く死角に入ったもんね」
「全くですね……戦場での生存に関して、賞賛に値する眼力と臭覚だとは思いますが」
それは、今日、ここに居たのは、一人として凡夫では無かったという証明ではあるが。
(間に合わない)
「おっさん」
青年の声に、ややあってぽつりと領主が呟いた。
「すまんなぁ……」
領主は振り向かなかった。
それが、答えだった。
「……そうか」
青年の声は、どこか優しかった。
人の弱さや愚かさを、その反対の強さと気高さを、その両方を沢山見て心に刻み、そして、自分の中に同じ物を見出して生きて来た人だけが持てる、どこかやるせない、優しい声だった。
なんで、そんな声で、儂を送るんじゃ。
お前を殺す片棒を担ぎ、今また裏切ろうとする、儂を。
罵られれば、まだ気楽だったんじゃが。
領主の皺と染みが浮き出した顔に、我が子を失った時にも流れなかった涙が伝う。
悔しいのう。
お前らみたいになりたい、そう思う心も確かにあったんじゃ。
じゃが、儂の中には、それ以上に……。
「すまん」
領主が、同じ言葉をもう一度呟く。
儂は、どうしてももう一度、野心に身を焦がし、滾り立つような、あの夢を見たいんじゃ。
「儂は……お前らみたいにはなれん」
喉に絡む声を残し、領主の姿が、光の輪の向こうに消えた。
屋敷が燃えるおどろな紅と対照的に、周囲に落ちる深い闇。
その闇の一部が、密やかに千切れた。
千切れた闇が、夜の中を歩む。
横たわる青年とこうめ。
そこに向かい、空気も揺らさず、音も無く、それは跳ねた。
それまで閉じていた口が僅かに開き、刃のような白い牙が、刹那に煌(きら)と闇の中に踊る。
あの青年の、寛げられ、何やら書き連ねられた胸が緩やかに上下する様が見える。
そして、無防備な喉も。
指呼の距離に迫り、漆黒に塗られた、刃の如き鉤爪を振りかぶり、そして振り下ろす。
その爪が、空中で止められた。
横から突き込まれた白銀の光。
堅い物同士がぶつかりあう、硬質な澄んだ音に、ぎぃという野獣とも人ともつかない獣の声が混じる。
振り下ろされようとした、短刀程もあろうかという黒い爪と、蜥蜴丸の刃が噛み合う。
……何だ、こいつは。
鍔迫り合いのように、相手の爪と刀を拮抗させ、主と襲撃者の間に割って入った蜥蜴丸の背に汗が伝う。
直前、本当に直前まで気配を感じなかった。
いや、実際の所、彼女の体が、何かを察知して刃が鞘走り硬い物とぶつかった、その後に感覚が奴の襲撃を知ったというのが近い。
それ程に、気配も殺気も巧みに消して為された、完璧な襲撃。
それだけに、相手もまた、成功を疑っても居なかったのだろう、思わぬ妨害に猛りながらも跳躍の勢いを生かして、それは蜥蜴丸を圧倒しようと、圧し掛かかってくる。
それに対し、蜥蜴丸も、鍛えた力でそれを押し戻す。
拮抗する二つの力。
だが、ここで蜥蜴丸相手に力比べなどする気は更々ないのだろう、獣は空いた右の前脚の爪で蜥蜴丸の腹を抉ろうと、それを突きこもうとするが、それを察知した蜥蜴丸の左手が、手首を掴みそれを抑え込む。
ほぼ互角……そのぎりぎりの状態の中、蜥蜴丸は振り絞る様に声を上げた。
「こうめ殿!」
その凄絶な声に、気を失っていたこうめが目を覚ました。
「これは!?」
目覚めたこうめの目に、獣の爪と、蜥蜴丸の抜き打った刃がギリギリと噛み合う様が見えた。
「ご用心を」
蜥蜴丸の言葉に、こうめが男の体を重そうに引き摺りながら、僅かに戦う二人から距離を取る。
荒い息の間から、こうめは火明かりの中に浮かび上がる敵の姿に目をこらした。
「こやつ……尾前の獣……いや?」
金色の毛も、爪も、全身を念入りに泥と煤で黒く染めた体の中で、血に染まったような口と目だけが、無限の憎悪と共にこちらを睨み据える。
あの尾裂妖狐の生み出す殺戮の獣の姿には間違いない……だが、こいつは。
「……違う」
こうめの声を背中に聞き、蜥蜴丸もまた、心の中で頷いた。
そう、姿はそうだが、これはあの尾裂の獣ではない。。
体躯の力強さ、宿る妖気、身を隠す為の細工を行える奸智……それらもそうだが、何より。
(意思)
殺戮の本能に任せるだけの単純な獣ではない……明白な、主を狙う殺意と憎悪の存在を痛い程に感じる。
鍔迫り合いが膠着しかかったその時、獣は、蜥蜴丸に力負けしたかのように、僅かに後ずさった。
それを感じ前に出ようとする蜥蜴丸、その顔に何かが飛んで来た。
(これは!?)
あの獣は単に後ずさったのではなかった、後足で地を蹴りあげた泥と砂が蜥蜴丸の顔を襲う。
「小賢しい!」
だが、蜥蜴丸はそれに頓着せず、鋭く吼えると、更なる力を込め、手にした刀を押し込んだ。
その小細工の為に、一歩退いた事が仇となった、押し込まれた獣が、踏みとどまれず呻きを上げた。
常の相手ならば、顔への攻撃や視界を塞がれた事で怯んだ隙を突ける物を……こやつは!
「はっ!」
鋭い呼気と共に、更なる力を与えられた蜥蜴丸の剛剣がついに振り切られ、獣の爪を弾き、相手の上半身を仰け反らせた。
だが、それだけでは終わらない、隙が出来たその腹部に、蜥蜴丸の左拳が叩き込まれる。
目が見えぬ状態では、細かい狙いは付けられないが、密着していた状態から最も広い的を狙ったのだ、練達の戦士たる蜥蜴丸が外す筈も無い。
蜥蜴丸の手に、肉を打ち叩き、その一撃が内臓にまで透(とお)った時特有の、強かな手ごたえが返る、と同時に左腕に痛みが走った。
咄嗟に振るわれた獣の鉤爪が、浅いとはいえ蜥蜴丸の腕を切り裂く。
獣が生臭い息と苦鳴を漏らしながらも、叩き付けられた力を利用して、大きく飛び退った。
流石の蜥蜴丸も視界が塞がれ、左腕に傷を負った状態ではそれ以上は追えない。
何より、敵がこいつだけという保証はない、主の身を守る為にも深追いは出来ない。
とにかく視界を確保するために、砂で霞み痛む目を無理に瞬(しばたた)き、涙で砂を洗い流す。
涙でぼやける視界の中、獣がこちらを睨みつけている事だけは判る。
再度の襲撃に備え、刀を構え、周囲に気を配りながら、蜥蜴丸は奴を睨みつけた。
ぐるると低く唸りながら、それは顔を上げた。
ドコマデモ、ワラワノジャマヲスルカ……シキヒメェ。
本来、人語を発するようには出来ていない喉をごるごると不吉に鳴らしながら、それは唸るような声を発した。
その声音、何よりその中に練り込められた呪詛に、蜥蜴丸は覚えがあった。
こいつは、間違いない。
大いなる力に満ちたあの身を捨て、そんな姿に成り果てても我が主を殺しに来たというか。
「尾裂妖狐……」
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式姫の庭の二次創作小説です。 前話:http://www.tinami.com/view/991076 これもまた人の性。 |
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夜摩天 閻魔 蜥蜴丸 こうめ 式姫 | ||
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