夜摩天料理始末 62 |
蜥蜴丸と、尾裂の獣の対峙を、息を詰めて見ていたこうめが、何かに気が付いたように視線を傍らの男に向けた。
彼の胸で光っていた種子が、さながら、命の拍動のように明滅を繰り返す。
「……これは?」
こうめの声が一つの予感に、期待と喜びで震える。
短い光の明滅が収まった時、それまで、彫像と見紛う程に微かだった呼吸が、まるで眠っている人の如く深く長い物に変わる。
そして、深く世界の気を体に取り入れる度に、蒼白だった体に血色が甦る。
「あ、ああ」
帰って来た。
目の奥に溢れた熱が、零れ出す。
言葉にならず、こうめは、ただ彼の服の裾を握りしめた。
その裾が動いた。
男がぎこちなく身を起こそうとする。
「む、無理をするでない!」
涙を拭い、男の顔を見る、そのこうめの背に、ぞわりとした悪寒が走った。
生気の無い白っぽい目が、こうめを見返す。
その目が不気味だったというだけではない。
その奥に淀む、何か得体のしれない輝きが、こうめの心に寒気を呼んだ。
だが、こうめはその悪寒を振り払うように、男の手を握った。
蘇生したばかりなのだ、少しばかり妙な、彼らしくない顔をしていたとしても……それは仕方ない事。
大丈夫、落ち着け。
違和感と、恐怖をねじ伏せ、こうめは気遣うように、男に声を掛けた。
「慌てるでない、もうすこし大人しく横になりながら、ゆっくり呼吸するのじゃ」
そのこうめの言葉を聞いて、男の口角が僅かに上がる。
それを見たこうめの喉が強張った。
違う。
そこに在ったのは、見なれた彼の、どこか困ったような、優しい笑いではない。
こうめの気遣いを、いや、人の善意全てを……。
嘲笑い、憎む、邪悪極まる笑い。
背中越しではあるが、こうめのただならぬ様子は、蜥蜴丸も気が付いてはいた。
だが、眼前で殺意を漲らせる強敵を前に、振り向ける訳も無い。
獣を睨み据え、牽制しながら、蜥蜴丸はじりじりと歩を移し、視界の隅に、主とこうめの姿を捉えた。
ちらりと見えた……その光景に、さしもの蜥蜴丸が一瞬だが自失した。
彼の式姫だけが見えた。
虚ろな主の肉体から、悍ましい淀みが漂い、その昏い意思が、体を動かしている。
「こうめ殿っ!」
その蜥蜴丸の隙を見逃す尾裂の獣では無い、豪と吼えて襲い来るそれを迎え撃つ為に、蜥蜴丸は焦りを感じながら前を向き、振り下ろされる鋭い爪に、刀を叩き付けた。
「逃げて!」
「蜥蜴丸!?」
「それは、主殿ではありませぬ!」
蜥蜴丸の言葉に、男から身を離そうとする、そのこうめの手が、強く掴まれた。
いつも、こうめの手や頭を、優しく包んでくれた、あの手が。
その華奢な手の骨が砕けても構わぬといわんばかりの力で。
「貴様か、小娘……」
上半身を起こした、男の白っぽい目が、こうめの顔を見ていた。
「貴様が……」
もう一方の手が、自身の胸に書かれた種子に触れようとして、熱い鉄鍋に触れてしまった時のように、びくりと引っ込められる。
「これを、書いたのか」
「……だとしたら、何じゃ?」
「そうか」
クックと嗤いが喉を震わせ、こうめの手を握る力が更に強くなる。
だが、その痛みに耐えながら、こうめはキッとその顔を睨み返した。
「ならば、礼を言わねばならぬなぁ」
「……貴様、何者じゃ」
「妾か……そうじゃな、貴様らには何と名乗れば良いのだったか」
タマモノマエサマ!
その時、蜥蜴丸と競っていた尾裂の獣から、歓喜の叫びが上がった。
「玉藻の前……じゃと」
「……馬鹿な」
驚愕に揺れる蜥蜴丸と、絶望に拉がれるこうめの姿を見た男の顔の中で、目が細く吊り上がり、口が、にいと笑う。
「貴様が開いてくれたこの道を辿り、妾は封じられた冥府より抜け出した」
それが身を起こし、立ち上がる。
炎を背にした、男の影がこうめの上に落ちる。
「わしが……」
「こうめ殿!その化け狐の言葉に耳を貸してはなりません!」
蜥蜴丸の声も、焼け落ちる屋敷の轟音も、木の爆ぜる音も、どこか遠い。
わしは……こやつに騙されたのか。
あの遠くから響いた願いに、真実を感じ、力を貸してしまった。
わしのせいで、彼は。
項垂れたこうめの襟を掴み、男は、首を絞める様にそれを持ちあげた。
「先ずは礼代わりに、貴様から縊り殺してやろうかねぇ」
「……」
絞められた喉から、微かに音が漏れる。
「駄目、何とか抗(あらが)って!」
そして、蜥蜴丸も動けない、主の復活に力を得た尾裂の獣が、圧倒するように圧し掛かってくる。
「ほほ、無駄じゃ、この肉体、人にしては中々に良く鍛え上げられているではないか、小娘の力が抗せる物かや」
「……っ!」
彼の力は、鍛えた本人、師たる蜥蜴丸には良く判っている。
だけど……こんなのは。
例え肉体のみとはいえ、主が、掌中の珠と大事にしてきた少女を縊り殺すなど……そんな。
私は、こんな光景の為に、生き恥を晒して来た訳では。
「駄目!」
こうめは、苦しげに両手を上げて、男の手を取った。
引きはがそうとするのではない。
その手を。
こうめに沢山の大事な物をくれた、優しい手を、小さな手が柔らかく包んだ。
悔しさに、涙がこぼれる。
助けたかったのに。
もっと、一緒に居たかったのに。
「何の真似じゃ?」
男が、いや、その身の裡に巣くった玉藻の前の意思が、怪訝そうにその手を見た。
こうめが、苦しい喉から声を絞る。
目の前の化け狐にでは無い。
せめて、自分の最後の言葉は、彼に……。
「す……まぬ」
取り返しのつかぬ事をしてしもうた、愚かなわしを許してくれ。
静かに向き合う、男と夜摩天。
閻魔ですら口を挟めない程に、そこには侵しがたい雰囲気があった。
そして、閻魔も彼も悟った。
これが、彼がこの冥府を去るに当たり、最後に受けねばならぬ、夜摩天の審判なのだと。
「……俺が危険か?」
「ええ、途方もなく」
そう口にして、夜摩天は指を繰りだした。
彼と式姫の絆。
その意志力。
あの庭の持つ絶大な力、あまつさえ、それがまだ発展途上でしかない事。
何れ、貴方の望む、あの庭の力で黄龍の封印を為すという事を達成する為にも、その力は、嫌でも、神々の列に並ぶ事となるでしょう。
「つまり、単純に、貴方の力は、揺れ動く人の心に委ねられるには、危険極まる物なのです」
貴方が堕落し、その力を以て、人の世に害をもたらす存在にならないとは、誰も保証できない。
そんな存在を、緊急事態であるという理由だけで、簡単に戻していい話では無い。
そして、何より。
「更に、魂の滅びの淵からすら、貴方は戻って来た」
神々ですら容易に為し得ぬ奇跡を起こしてまで、貴方は戻って来た。
そこまでの事を為し得た、その原動力は一体何なのです。
野心、欲望、名声、富、情愛、妖怪を討ち果たし、衆生を救おうという理念。
貴方を衝き動かすそれは、何なのです。
夜摩天の浄眼が、彼を静かに見据える。
「何故です?」
何故貴方は、人としての生に、そこまで執着するのです。
何度か発せられた、同じ疑問。
だけど今、その問いは、冥府の裁判長が、一人の亡者に下した問いではなく。
「何故……か」
「その答えを、聞かせて下さい」
同じ場所、同じ目線、そして同じような、悩める魂を抱えて生きる二人の間に発せられた問いだった。
その夜摩天の真剣な顔を見て……男は困ったように笑って、口を開いた。
「そんなに難しい顔で聞く事かな?」
「え?」
「俺は、自分の家に帰りたいだけだ」
その男の返事に、夜摩天と、そして閻魔も、どこか呆気に取られた顔で、彼の顔を見返した。
まるでそれは、幸せな人が、一仕事終えた後に発したような、普通の言葉。
「家?」
「ああ、天界とか人界とか関係ない、あの庭が俺の」
あの真っ白な場所で、三尸と交わした言葉を思い出す。
俺が一番安らげる。
この魂と、体を最後に置きたいと、心から願った。
「帰りたい場所」
それまでは、ただ自分が住んでいた、身を置いていただけのあの場所。
そこに、こうめが来て、式姫の皆が来て。
俺たちのしようとしている事、その歩みに共感してくれた多くの人が作り上げてくれた。
そうして、あの場所は、俺が帰りたい場所に。
俺の家になった。
「あの庭は、あの場所にしかない、だから俺は帰りたい、それだけだ」
「それだけ……」
そう……なんだ。
それだけって、そんな普通の顔をして言いきれてしまうんだ。
本当に……本当に、この人ときたら。
くすくすくす。
荒れ果てた冥府の法廷に、時ならぬ笑い声が響いた。
その声に、閻魔が目を丸くする。
「……嘘でしょ?」
明日辺り、冥界に槍か隕石でも降るのかしら。
長い付き合いの彼女すら、聞いた事が無かった。
夜摩天が顔を伏せ、心底楽しそうに笑っていた。
邪気の全くない、静かに銀鈴を転がすような、清楚で穏やかな笑い声。
「……そんな面白い答えだったか?」
若干気分を害した様子を表情に漂わせる男に、夜摩天は詫びる様に軽く頭を下げた。
「失礼、馬鹿にしたのではありません」
寧ろ、それはとても清々しい気持ちになれる答えで。
この人の下に、あれだけの式姫が集った理由が、今、ようやく夜摩天にはすとんと腑に落ちた。
口許に笑みを残した夜摩天が、顔を上げた。
「以上で、調べは終わります、閻魔、依存は有りませんね?」
頷く閻魔を一瞥してから、夜摩天は顔を男の方に向け、背筋を伸ばし、懐から、その職位を示す笏を取り出した。
ボロボロの法衣に、乱れた髪、くしゃくしゃの冠を戴いた姿。
だが、その身に威厳と理知を纏い、紛れも無い冥王が、誇りを胸に、すっくと立っていた。
「では、裁きを申し渡す」
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式姫の庭の二次創作小説です。 前話:http://www.tinami.com/view/992630 |
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