夜摩天料理始末 64
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 男は、燐光の道としか言いようが無い場所を一人歩いていた。

 ただ、その手に、淡い光を放つ札を松明のように掲げ、歩みを進める。

 闇の中に細く細く伸びる一筋の光。

 それはさながら、仏教の説話で語られる、極楽から地獄に垂らされた一筋の蜘蛛の糸のような。

 だが、それを手にした彼は結局……。

(いかんいかん、ろくでも無い想念だな、こりゃ)

 周囲は朧で曖昧な闇。

 目を凝らせば、様々な何かが見えそうな、向うからも覗き込む眼が見えそうな。

 そんな、どこか猥雑な騒々しさを薄皮一枚向うに隠した……そんな闇。

(この道は、冥府と人界を、常にない方法で無理やりつないだ物)

 冥府と人界、その間に蟠(わだかま)る様々な世界を、無理やりに貫いて作られた、祈りの道。

(故に、それは少し手を伸ばせば異界に触れられるような、非常に脆く、そして危うい道です、くれぐれも帰りによそ見や、独り言などしませんように)

 わき目もふらず、無駄口叩かず家に帰れ、か。

 さんざ遊んだ子供に言う言葉だな、こりゃ。

(余計な事を考えるのも駄目です、力ある「モノ」が近くに居た場合、意識を引き摺られますよ)

 おっと……そうだった。

 男は、意識を右手にした札に戻した。

 

(これは冥王が、貴方が現世に戻る事を許可した証の札、そして貴方の帰る道を指し示す案内役となります)

 

 夜摩天から手渡された札が、彼の手の中でひらりと踊る。

(……そっちか?)

 男の意思に応えるように、札が頷く様に動く。

(あの味噌汁君も大概だったが、この札君も面白いもんだな……)

 翳して置くと、時に右に、時に左に、そして時には後ろにそよぐ。

 妙な動きではあるが、男は逆らうことなく札の動きに従い、歩みを進めていた。

(貴方の感覚では後戻りや左右への移動など、無駄な指示に見える事があるかもしれませんが、過たずその札の動きに従って下さい)

 前を向いたまま、時に数歩後戻りしてから前に進む……。

 彼女の言う、その無駄とも思える動きの説明は、彼の記憶に引っかかる物があった。

(えーと、それは、禹歩(うほ)って奴か?)

 こうめが練習していた、呪術に用いる変わった歩の進め方を思い出しながら、男が夜摩天に顔を向ける。

 それに、夜摩天と閻魔が頷き返す。

(あれを知っているなら話は早いわねー)

(そうですね、あの類の、呪術的な意味のある歩みだと思って下さい)

 禹歩は良く知られた呪術の歩法だが、ああいった歩みの多くは異界に入り、また出る為の歩き方。

 そういう、ややこしい事しないと、多分迷うと思うのよ、この道は。

 そう眉間に皺を寄せながら、閻魔が言葉を継いだ。

(私らの使う本来の道なら、ある程度は安全に戻れるんだけど、そっちを通ってたら、多分間に合わないわ、その札の導きに間違いなく従ってね)

 閻魔の言葉に頷きながら、夜摩天は男の顔を正面から見上げた。

(私たちからの注意はこれだけです……どうかご無事で)

 そう言いながら、じっと向けられた冥王の浄眼を男が受け止める。

 きりっとした瞳の奥に、ほんの僅かな揺らぎが見える。

 厳正にして、心優しき冥王よ。

 死んだ事を喜ぶ気は更々ないが……それでも

(色々ありがとう、貴女に会えて良かった)

(……そうですね、私も、同じ思いです)

 にこりと笑って、夜摩天は手を差し出した。

(ゆめゆめ、我らとの約定を違えませぬよう)

 差し出された手を……あの凄まじい膂力からは想像も付かない華奢な手を握る。

 細くひんやりした繊細な手。

 彼女はこの手で、この世界の人々の生を裁き、次なる道を定めるという重責を担い、誇りと、常に消えない疑問と恐れを胸にしながら、それでも怯むことなく進んでいる。

 そんな風に生きている人が居る、それを知れただけで……俺が一度死んで、ここに来た事に意味は有った。

(ああ、約束する)

 一つ頷いて、夜摩天の手を離した男が光の輪に向いて歩み出す。

(冥府から応援だけはしてるわ、当分こっち来るんじゃないわよー)

(閻魔大王に応援してもらえるとは、身に余る光栄だ、それじゃ)

 背中越しに手を振って、彼は光の中に歩み出した。

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 あれから、どれ程歩いたのか。

 世界を一周した程にも。

 その感覚に矛盾するようだが、同時に庭の散歩程度にも思える。

 朧な闇の中、時が、空間が、次第に曖昧になっていく。

 どれだけ歩けば、現世に届くのか……。

 ぺしっ。

 男の手を、札が叩いた。

「おっと……」

 曖昧な場所に身を置く時は、自我を基準にするしかない、故に己を強固に保つべし、だったっけ。

 あれは鞍馬の講義だったか、それともこうめに漢籍を読んでやった時の記述だったか。

「ありがとよ、札君」

 その言葉に、札が彼の手の中で、前に進めと言いたげに、ぴらぴらと動く。

 その導きに従い、更に一歩踏み出す。

 ふわりと、彼の足許の燐光が舞い上がり、辺りを一瞬だけ、明るく照らした。

 その明かりが、男の周囲の陰影を浮かび上がらせる。

 何かが居る。

 辺りを見渡したくなる衝動に駆られるが、冥王達の戒めを思い出し前だけを見る。

 歩みを進める。

 錯覚だろうか、ひやりとした手が、背中を掠めたようにも感じる。

 ひたひたという足音が、後ろから聞こえる気がする。

 左右に朧な何かが視界を掠める様に見える。

 足が止まる。

 振り向きたい、駆け出したい、叫びたい、耳を塞ぎたい……。

 押し込めていたあらゆる感情が、周囲を包む闇の中から伸びてきた手に、引き出されていくように感じる。

 ぴらぴら。

 その時、男の翳した手の中で、確かな感覚として、札がひらひらと動くのを感じた。

 それが、辛うじて彼の理性を繋ぎとめた。

「……そうだったな、札君」

 もう一度、彼は自分の顔の前に、札を翳し、その動きだけに目を凝らした。

 その動きだけに神経の全てを集中する。

「俺は、信じて前に進むしか、無いんだよな」

 彼は、足を踏み出した。

 

 そう、それで良いんです。

 私も、貴方も。

 何があっても、前を見て。

 何が立ち塞がっても、何が背後で蠢こうと……前に進む生き方を選んだんですから。

 

 札を通して、あの人の声が確かに聞こえた。

 その言葉に背中を押されるようにして、更に歩を進めた男の体を燐光が包み込む。

 冥府であの光を潜った時に感じた、あの感覚。

 この門を作ってくれた人の祈りを感じる。

 あの最後まで名を知る事も無かった陰陽師、こうめ……そして式姫のみんな。

 ありがとうな。

 

 光の輪を潜った彼の前に、その先には進ませまいと立ち塞がる人影があった。

 その外見には見覚えが有ったが。

 おっさん……じゃねぇな。

 ぎろりと彼を睨み、食いしばった歯の間から呪詛の声が漏れる。

「来たかぇ」

 

「おう、残念だったな化け狐」

 おっさんは、間に合わなかったか。

「戻って来たぜ」

説明
式姫の庭の二次創作小説です。

前話:http://www.tinami.com/view/994506

兄ちゃんが歩くだけで一話使うとか、何考えてるの?
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コメント
OPAMさん ありがとうございます、何だかんだ、黄泉路帰りはイザナミもオルフェウスも、ある意味生還の際の試練のクライマックスですから、ホントはもう少し凝っても良かったんですが、ココに来るまでが試練その物だし、流石にダレるので、危ない道感だけ出して通過して貰いましたw(野良)
ここに至るまでの(文字通り)死ぬほどの激しい展開を考えれば、兄ちゃんが現世に向かって歩いて行くだけでも読んでいて心に来るものがありました。(OPAM)
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式姫 夜摩天 閻魔 

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