とこしえの愛 |
「二人とも意識がありません……!」
夜のアテネ市街。世界有数の観光地は本日週末ということもあって、いつもよりさらに人と活気に溢れている。その賑わいの一角で大勢の野次馬が人山を築いていた。大通りに横転したトラック。砕けたフロントガラスが広範囲に飛び散り、仰向けに横たわる二人の男性が救急隊員による救護を受けていた。共に長身で女性でも見かけないほどの長髪、しかも見事な青銀髪である。外観に大きな損傷は見られないが、ピクリとも動かないため打ち所が悪かったようだ。
「運転手の方はダメだな…… この二人も危険な状態だ。」
「あ、ここに二人の免許証が落ちてます。」
「……名前は?」
「アクラシエル・アポストロス、こっちはアプラクサス・アポストロス。」
「双子の“天使”と“悪魔”か…… 」
「よし、早くストレッチャーに乗せるぞ!!…… 」
救急隊員たちは運転手と双子を救急車へ担ぎ込んだ。車内で並ぶ同じ顔の被害者。重く閉じられた瞼はピクリとも動かず、走行の振動のままにその身体が揺れている。隊員たちは忙しなく救護活動をしているように見えたが、マスクの上で鈍く光る瞳は異様な鋭さを湛えていた。好奇と不安に満ちた視線を一身に浴びた救急車は、病院に向かうはずの進路を途中で変えると暗闇の中へ消えていった。
「おい兄さん…… そろそろいいだろ?」
「ああ。外に気配はないな。出よう。」
並べられた二つの棺の蓋が同時にゴトッと音を立てて開いた。隙間から澄んだ翠の瞳が覗き、キョロキョロと周囲を見回すと、二人は完全に姿を現した。
「あーあ、痛かった。死んだかと思ったぜ。」
「そんなわけないだろ…… あれしきの衝撃で。」
カノンはわざと首を回したり肩を揉む仕草をしてサガを笑わせた。常に光速での闘いを強いられてきた黄金聖闘士にとって、トラックにぶつかる衝撃など蚊ほどの痛みも走らない。そのことよりも今の二人にとっては“なぜ自分たちが狙われたのか”を探ることが先決だった。
異変を感じたのは二週間前からである。その日の午後、彼らはアテネ市街へ来ていた。現在双児宮で仲良く同居中の彼らは、週一度は中心街へ出て二人分の食料や衣類、日用品の買い出しを行なっている。サガは次期教皇アイオロスと熱烈な恋仲でもあるが、彼が正式に教皇となり教皇宮に住む時が来るまでは、時々人馬宮に泊まる程度にとどめている。弟カノンとしても最愛の兄が双児宮を完全に出て行ってしまうのは正直寂しかったので、サガが教皇副官になる日までは双子暮らしを大いに楽しむつもりでいた。
いつものように買い出しを終え、夕食をとろうとお気に入りのタヴェルナに向かっている時だった。二人はすぐに顔を見合わせた。
「いるな。後ろに。さっきまで一人だったが今は三人だ。」
「ああ。小宇宙は感じないがわかりやすい殺気を感じる。兄さんどうする?」
「ここは街中だ。それにまだ日も明るい。あいつらも下手はことはしないだろう。」
二人はそのまま店に入り、何も気づいていないふりをして普通に食事をとった。実を言うと尾行されること自体は今に始まったことではない。彼らほどの美貌を持った兄弟などそうそうお目にかかれるものではなく、老若男女問わず好奇心で追いかけられることは日常茶飯事だった。ただ、今回のように明らかな殺意を持った者についてこられたのは初めてである。男たちの尾行は街外れまで続き、二人がロドリオ村の方角へ真っ直ぐ進んでいく姿を見てようやく追跡をやめた。彼らは次の週も買い出しに出たが、その時も同じことが起きた。
「お前が狙われてるんじゃないのか?」
双子は揃って聖域の“曰く付き”である。終戦を迎え、過去の罪を女神にも仲間にもすでに許されていたが、被害が絶大だったため聖域とは関係のない個人的な恨みを買っていてもおかしくはない。彼らは冗談半分で互いのせいにしあったが、二人だけの問題に止まらず聖域にもしものことがあると厄介なので、彼らはそれなりに警戒して様子を伺っていた。
そして……
「まさか夜の街でトラック使うと思わなかったな。仕掛けた野郎は死んだみたいだったけど自業自得だ。」
「死を厭わないほどの意志で私たちを襲ったんだ。相当強力な黒幕が彼に命令して実行させたのだろう。お前がさりげなく車体を蹴って角度を変えたのがわかったよ。巻き込まれた人がいなくて良かった。」
「ああ、わかってくれた?嬉しいぜ兄さん。」
「おかげでこっちにモロに飛んできたから拳で打ったけどな。」
二人のクスクス笑いが暗闇に響く。トラックに敢えてぶつかった後、彼らは体温と鼓動を操作して自分たちを重体患者に見せた。このまま病院に運ばれると思いきや、駆けつけた救急隊員の正体があの尾行していた男たちだとすぐに気づき、トラックも救急車もすべてシナリオ通りであることを悟った。ひと気のない場所で襲っても勝ち目がないのは必至だ。しかし街中で実行すれば双子も下手な振る舞いが出来ないと考えたのだろう。やり方は荒っぽいが、黄金聖闘士たる二人が不意をつかれて倒れたのを見た時、計画が成功して男たちはさぞ嬉しかったに違いない。彼らの目的を探るため、サガとカノンはそのまま意識不明を装って彼らのするがままに任せた。そして運ばれたのがこの場所だったのである。
壁にかけられた松明の灯に照らされ、廊下の両側の様子がはっきり見える。壁には、横長の長方形に均等にくり抜かれた穴が無数にあり、その中には数百年といってもおかしくないほど時が経過している遺体が横たわっていた。
「おお、なんと恐ろしい所だ!夢に見そうだぜ!」
「顔が笑ってるぞカノン。全然説得力がない。」
古代に作られたカタコンベ(地下墓穴)である。カタコンベというとイタリアのものが最も有名だが、地下集合墓地は世界中に存在しており、ギリシャではミロス島のものが特に有名である。車でここへ運ばれてくる間、二人は目を閉じたまま走行距離と進路から現在の位置をおおよそ把握していた。アテネ郊外にある小さな町の外れ、岩山の斜面に扉があり、そこから地下墓穴へ降りられるようになっている。この存在はこの町の長老クラスでないと知らないほど古いものだろう。彼らは不気味なこの場所をアジトとして使用しているのだ。死者に囲まれた空間を進むと、前方に新たな灯が見えてくる。ぼんやりとしていた光は近づくごとに膨れ上がるように岩壁を照らし出し、角を曲がった途端、目に飛び込んできた光景に二人は慌てて隠れた。
「すごい人数だ…… ミサでもやってるのか?」
広間にひしめき合う黒装束の群れ…… 彼らの前には祭壇があり、その側に一人の男が立っている。恐らく彼らの指導者だろう。彼もまた同じように黒衣を身につけ、祭壇に横たわるものに手をかざしていた。その正体が何かわかった途端、サガとカノンは顔をしかめた。
「あれは…… もしかして“あれ”か?…… 」
間違いない、あれは遺体だ。それも年数が経ち過ぎて人としての形骸をとどめていないほど古いものである。先ほどのカタコンベから持ってきたものだろう。燻んだ骨のかけらを人型に並べ、その上で何かを行おうとしている。男の両手に紫色の妖しげな小宇宙がたちこめ、その光が祭壇を包み込むと、横たわっていたものは次第にはっきりとした人間の形をとり、瑞々しい若者の姿で上半身を起こした。途端に広間には騒めきと喝采が沸き起こる。指導者の側近たちは「静粛に!」と叫んでこの騒ぎを静めようとしていたが、如何にも奇跡を起こしたようにみせている男の所業にサガとカノンは笑いを噛み締めた。
「おいおい…… とんだ隠し芸だな。俺たちの幻朧魔皇拳の前では稚技にも等しい。」
「ああ。しかし見事な幻術だ。骨のままなのに信者たちには生きている者に見えるらしい。彼らを騙すには十分すぎる能力だ。」
二人は密かに話していたつもりだったが、歓声を切り裂くような男の叫び声に広間は一瞬にして静まり返った。
「誰だ!!そこにいるのはわかっている!!隠れていないで出てこい!!!」
カノンは舌打ちした。簡単に蹴散らせる相手であることは百も承知だったが、自分たちを執拗につけ狙う理由を知るまで彼らを倒すわけにはいかない。駆けつけてきた黒装束に両手や後ろ首を捕らえられて二人は大人しくそれに従った。
「隠していた棺から出てきたのか?完全に気絶していると思って安心していたのだが、演技をしていたというわけか…… 」
そう言いながら、指導者の男は今回の事故を計画した者たちをギロリと睨んだ。
「あの程度で俺たちが死にそうになるとでも思ってたのか?黄金聖闘士を舐めるなよ。」
カノンは悪態をついたが、横で同じように押さえつけられてるサガは男の目を見て眉間を寄せた。この男の瞳の奥に見える深い憎悪。瞬きせずにじっとサガを睨みつけるその視線は、サガの心に深く突き刺さり、まるで過去を抉り出そうとしているように鋭く光っている。小宇宙では遥かに自分たちが勝っている。しかし、何故か彼の視線に抗うことができない…… サガはさらに食ってかかろうとするカノンを抑えると、静かに男に語りかけた。
「君たちの目的を知りたい。何故私たちを狙う?」
男はその質問には答えず、側近たちに命令すると二人を別々の部屋へ連れて行った。
通された部屋は、地下墓穴の中にあるものとは思えないほど豪奢だった。壁紙も常に新しく貼り替えられているようで、揃えられた家具も高価なものであると一目で分かるほどである。それもデザインからして恐らく“婦人用”に作られた部屋だ。ただ、その優雅さとは裏腹に、この部屋に立ち込める得体の知れない冷気にサガは珍しく悪寒を感じた。以前、真夏に全員で宝瓶宮に集まってカミュの作り出す氷点下を体感したことがあったが、今感じている冷たさはそういう即物的なものと種類が違う。この部屋の気配はどこか幻めいていて、“人間らしさ”というものが微塵もない。
この冷気を最も近い言葉で表現するとしたら………“絶望”かもしれない。
別の部屋に連れていかれたカノンも同じようなことになっているのだろうか?
寒気に腕をさすりながらあれこれ考えていると、静かに扉が開く音がして先ほどの指導者らしき男が入ってきた。
「アクラシエル・アポストロス…… いや、それは仮の名前。お前は双子座の黄金聖闘士サガ。ここへ運び込まれた時にも驚いたが…… お前たち双子は想像以上に美しい。」
「お前は何者だ?理由を聞かせてもらおう。場合によっては命の保証はしない。」
男は笑った。そしてサガの前に来ると、頭からすっぽり被っていた黒衣をゆっくり取り払った。年の頃は20歳を少し過ぎたくらいだろうか。身につけている黒装束にも負けないほどの漆黒でややウェーブのかかった髪を肩に落とし、鋭い瞳もまた黒曜石のように闇色に光っている。顔は疲れ果てたようにやつれ、長身だがどこか頼りない線の細さを感じさせた。ただその中で異様に光る瞳だけがサガに威圧感を与え続けていた。
「俺の名はスキア。俺の目的はお前の方だ、サガ。弟はただ巻き込まれただけ。 気の毒にな…… お前に関わるとすべての人間が“不幸”になる。」
不幸、というところが妙に強調されたように感じてサガは再び眉間を寄せた。そんなサガをよそに、スキアはソファに寝かせてあった白い衣を手に取るとサガの前に差し出した。
「これを着ろ。そうしたら理由を教えてやる。怒りに任せて俺自身を殺すのは簡単だろうが、そんなことをしても無駄だ…… 俺は神と契約している。目的を果たすまでお前を絶対に逃がさない。」
「神?神と契約だと?」
「いいから早く着ろ!これは神の命令だ!」
スキアの強い口調にサガは渋々衣装を受け取った。彼は神と契約しているとはっきり宣言している。自分一人の判断で解決しようとするのは危険だ…… 目の前で私服を脱ぎ、渡された衣に着替える。それは古代ギリシャのドレパリーで、純白である故に花嫁衣装のように清らかであり、経帷子のように厳かなものに見えた。女性ならば足元が完全に隠れて裾が地面に溜まるほどの長さがあるが、長身のサガの場合は裾の下から白い爪先が顔を出し、その様子にスキアは口元を歪めた。
「黄金聖闘士とは思えないほどきめ細やかな肌だな。真珠のごとく白く輝き、形の良い爪も艶やかな桜色…… これでいい。こうでなければ“この役”は務まらぬ。さあ、こっちへ来い。」
サガの手を掴むと、スキアはさらに奥の部屋へと進んだ。臙脂色の重いカーテンが開かれると、部屋の中央に設えられた大きなベッドが視界に入った。繊細な薔薇の刺繍が施された紗の天蓋がそれを覆っていたが、中に人が横たわっているのがわかった途端、サガは思わず口元を押さえた。白い霧のような生地を通して朧げに見えるその姿に生気はなく、直に見れば目を背けたくなるような状態であることは想像に難くない。
「これは女性か?…… 何故こんな事をする? 死者への冒涜だと思わないのか?!」
「黙れ!!彼女は死んでいない!…… 断じて死んでなどいない!!」
スキアは大声で叫んだ。寝かされているのは間違いなくこの男の恋人だろう。この部屋の内装がそれを物語っている。スキアは彼女の死を信じることが出来ず、妄想の中で今も生きていると夢を見続けているのだ。彼自身の小宇宙はとても弱い。その小さな力を駆使して彼女の身体を何とか保とうとしているようだが、サガからしてみればとっくに限界を越えている。現実を受け入れたくない気持ちは分かるが、こんな非道なことが許されるはずがない。サガは彼を諭そうと厳しい視線を向けたが、いつの間にかその両手に抱えられている物を見て驚愕した。
「お前…… 何だそれは!!何故それを持っている……!?どうやって手に入れたのだ!?」
「さすがだなサガ。一目でこれが何か気づくとは。」
スキアの手の中には青銅の壺があった。両手のひらにすっぽり入るほどの大きさだったが、その存在感はあまりにも凄まじい。生まれて初めて“真の恐怖”というものを感じ、サガの全身に震えが走った。壺の蓋には大きく口を開けている狼の頭部が象られ、その周囲で蛇がとぐろを巻いている。本体の方には三つの女神の顔が刻まれ、その頭上には満ち欠けを繰り返す月の面が一列に描かれていた。所々壺を装飾する毒草の細工は目を見張るほどの出来栄えであったが、今ここに、この壺が存在すること自体がサガにはとても信じられなかった。部屋に立ち込める異様な冷気もこれが原因と言われれば納得がいく。咄嗟にサガは、自身とスキアの身体全体を小宇宙で取り巻き、この壺から発せられている力から身を守った。
「これは…… 女神ヘカテーの魂の壺……!」
「俺のものだ。ある人物からすべてを投げ打って手に入れたものだ!」
「それは人間が持てるものではない!すぐに手放せ……! それを使うことで何かが起きても、私ごときの力ではとてもお前を助けることはできぬ!!」
「覚悟はできている!!小宇宙を解け!お前なんかに守られても…… 」
「お前は何も分かっていない!!女神ヘカテーがどれだけ恐ろしい神であるのか!!」
ヘカテーは夜と生死を司る高貴な女神である。名のある女神たちの中でも特に大神ゼウスは彼女を賞賛し、その愛は崇拝に近いと言われている。ゼウスによってその地位を強固に守られ、月を支配しつつも天界・海界・冥界を自由に動き回り、場合によっては女神アテナを遥かに上回る権限を持った厳格な女神である。スキアの顔が先ほどよりもさらにやつれたように見えるのも原因は明らかだった。すべては壺の力によるものである。黄金聖闘士最大級の小宇宙で二人分の身体を守っているサガですらそのパワーに圧倒されそうで、一瞬でも気が抜けない。
「その壺は地上にあってはならないものだ…… 存在するだけで平和が乱される。早く…… 」
「その平和を乱し続けてきたのはお前の方だろう?お前は聖域で教皇の座にあった時、いったいどれだけの人を苦しめたと思っているのだ?」
サガは口をつぐんだ。スキアの目的が見えてきた気がして、彼の言葉の先を待った。
「ああ、でも知らないだろうな。お前はただ教皇の座から命令しているだけだったからな。おかげで俺の大切な恋人は永遠に帰らぬ身となった。お前のために闘えば罪を許され、仲間と共に晴れて聖域に帰れると信じていた。そして…… あの流刑地で死んだのだ。」
「その人は…… 」
「彼女の名はガイスト。いや、それも通り名だ。本当の名はエフティヒア。ギリシャ語で幸福を意味する美しい人…… 気の強い少女だったが、俺にだけは優しかった。今でも彼女は俺の愛しい許嫁だ。」
ガイスト…… 直接会ったことはないが、かつて参謀から名前を聞いたことはあった。数々の悪業のために三名の部下と共に遠島罪となったゴースト聖闘士の女性である。まさかこういった形で彼女とその恋人に会うことになるとは思いもせず、サガは苦しさに目を伏せた。自身が過去に犯した罪の深さを改めて思い知らされる。ショックで小宇宙が少し弱まり、音を立てて床に膝を着きうずくまるサガを見下ろしながら、スキアは言葉を続けた。
「俺には聖闘士として闘えるほどの小宇宙はない。ただ、無能なヤツらを騙して従わせるくらいの幻術は使うことが出来た。すべて彼女から教えられたものだ…… 広間にいたあいつらはただの使用人にすぎない。俺を神のように崇めて何でも言うことを聞くのだ。実に使い勝手のいいヤツらさ。」
「その壺は誰から貰い受けたのだ?」
「女神ヘカテーに仕える者だと名乗っていた。俺の身の上話を聞いた後、これを持ってきたのだ。俺は全財産をそいつに渡して壺を受け取った。」
スキアの目が落ち窪んでいる。サガの小宇宙をもってしても、直接その壺に触れている身体は生気を失い、崩れかけているように見えた。声も老人のようにしゃがれ始め、必死で息をついでいるのがわかる。彼は驚くべき執念でこの苦痛に耐えているのだ。
「彼女を生き返らせるのが俺の目的。聖域への復讐などどうでもいいのだ…… お前には魂を差し出してもらう。この壺にお前の魂を入れ、そして彼女の身体に入れるのだ。神の化身サガ。お前の光り輝く魂は、我が愛しい恋人を生前以上に美しく蘇らせることだろう。そして再びこの腕の中へ…… 」
「その壺があれば確かにそれも可能だろう。しかし、使った本人の命は保証されない。お前も気づいているだろう?今のお前はまるで生きたミイラだ。まもなく私の小宇宙も効力を失う。お前の身体は砂のごとく舞い散り、すべてが終わった時には彼女ただ一人がこの部屋にいるだけになる…… お前は二度と彼女に触れることは出来ない。」
「それなら、彼女さえ助かればいい…… 彼女にもう一度、ギリシャの美しい大地を踏みしめてほしいのだ。さあ、この壺に触れて誓え。彼女に魂を捧げると。お前にはそうしなければならない罪がある。アーレスの名において犯した大いなる罪が!」
スキアは震える手でグッとヘカテーの壺をサガの目の前に差し出した。
「お前にしかできないのだ。さあ、誓え…… 」
サガはゆっくりと瞼を閉じ、指先を壺に向けた。この男の身になって考えればこの行為も不思議と許す気持ちになってくる。自分もかつて同じ想いを抱いて苦しんでいた。偽りの玉座で正気に戻るたびに、サガの心の中に現れる愛しい人。
アイオロス…… お前がいない十三年間どれほど孤独であったことか……
自分の命と引き換えにお前を取り戻すことが出来るなら、と何度祈ったかわからない。
この男もまた、同じ想いで今日この日まで必死に生きてきたに違いない。
罪を許されたとはいえ、個人が受けた苦しみは今も果てしなく続いているのだ……
スキアもまた、壺を差し出したまま足の力が萎えて床に膝をついた。彼の皮膚がひび割れ、それも少しずつ剥がれ落ちているのが見える。生きている人間たちを前にして壺自身が魂を求めているのだ。サガの白い指先はあと少しで壺に触れようとしていた。
「そこまでだ。壺を置いて下がれ。」
突然の声に二人は驚き、スキアは壺を隠すように抱きしめて震えだした。振り返ると、重いカーテンの隙間から黄金の鏃が覗いている。やがてカーテンがふわりと動き、矢をつがえたままのアイオロスが姿を現した。射手座の黄金聖衣を身につけ、巨大な羽根を背負うその姿はまさに聖域最強の戦士に相応しい。途端に部屋の中は光に満ち溢れ、黄金の小宇宙の風がカーテンや天蓋を大きく揺らした。ただ、いつもはサガに優しく惜しみない愛情を与えるグリーントパーズの瞳が、今は沼の深淵のように溟く淀んでいる。アイオロスがさらに進み出ると、スキアの持つ壺がカタカタと反応して揺れ始めた。
「ああ…… 壺が…… 」
「この矢はただの武器ではない。かつて、冥界にそびえ立つ“嘆きの壁”さえも貫通したことがある聖なる矢だ。今も女神アテナの加護と黄金聖闘士全員の小宇宙を秘めている故、その壺を破壊できるほどの力はある。」
「い、いやだ…… ようやくここまで来たんだ…… こいつの魂を…… 」
「サガに近づくな。それ以上近づいたら壺と一緒にお前を殺す。」
ハッとしてサガはアイオロスに見入った。温厚な彼の口から初めて聞く挑発の言葉。アイオロスの目は本気だった。驚愕の視線を向けるサガの方を敢えて見ず、アイオロスはじっとスキアの目を凝視していた。その鏃はしっかりと壺を狙い、そのまま彼の身体をも射抜く意志が込められている。スキアの身体がピクリと動いた。
「もう一度だけ言う。サガに近づいたら本当に殺す。」
アイオロスの声は恐ろしいほど低く静かだ。しかし、微かな震えを帯びたその声色に、サガは彼の中にある底知れぬ怒りを知って息を飲んだ。サガを守るためなら、アイオロスは迷わずヘカテーの壺を破壊するような罪をも犯す。そう感じさせるほどの決意の言葉だった。アイオロスの迫力を前にして、長く深い恨みに取り憑かれてたスキアの心もようやく折れ、震える手で壺を床に置いた。黄金の矢に圧倒されたのか壺はコトリとも動かなくなり、手放したスキアの顔はみるみるうちに元の若さを取り戻した。
「命拾いしたな。その壺を使っていたらこの程度ではすまなかった。お前は二度と彼女に触れられないばかりか、ヘカテーの守護精霊である狼や蛇たちに永遠にその身を食われる罰を受けるところだったのだ。」
アイオロスは弓矢を聖衣に装着すると、床に突っ伏したままのサガを抱き起こした。その瞳にはいつもの優しさが戻っており、サガは途端に緊張から解放されてその肩に寄りかかった。アイオロスは脱力したサガの腰をしっかり支え、そしてスキアに告げた。
「話はすべてカノンから聞いたよ。お前の部下たちは相当お喋りだったようだな。部屋から脱走する前に、カノンがうまく話を聞き出して全部教えてもらったそうだ。」
アイオロスの言葉にスキアは項垂れた。アジトの場所は完全にバレている。いずれは聖域の者たちが大勢ここへ詰めかけることだろう。当然、彼らに捕らえられ、そのままヘカテーの軍に引き渡されるはずだ。
「壺を持ち出した犯人は遊び半分だったようだが、ヘカテー自身の手ですぐに処刑されたそうだ。彼女は間違いを絶対に許さない。我らが主アテナとは違う。慈悲を乞うのは不可能に近いと言われている女神だ。」
「もうどうなってもいい。せめて彼女と…… エフィと一緒にこの身を葬ってほしい。」
アイオロスはサガと一度目を合わせると、スキアの前に膝をついてその肩に手を置いた。男は完全に失望し、もう瞼を開けることもできないほど憔悴しきっていた。
「現在、ヘカテーは聖域に降臨されている。壺の一つが地上に持ち出されたことを知って、アテナの元へ訪ねて来られたのだ。今、まさにアテナとお二人でこの件について交渉されている。」
「えっ……… 」
「壺を私利私欲で手に入れたお前の罪は重い。これまでの私の言葉で十分その恐怖と絶望を感じたことだろう。ただ…… 」
言葉を途中で切ったアイオロスは、この場の雰囲気にそぐわない少し悪戯な目をして視線をそらせた。
「本当のことを言うと、アテナとヘカテーお二人の関係は姉妹のように良好であると聞いている。お二人ともゼウスが溺愛する女神であり、ヘカテーほどの強力な女神が聖域側についているのは幸運としかいいようがない。お前と亡くなった恋人の苦しみを考慮し、必ずやアテナの進言によって良い結果を出して下さることだろう。」
「良い結果とは……… 」
「お前が望む通りのことだ。他に良い結果などないだろう?」
「そ、それでは…… エフィは……!!」
アイオロスが笑顔を浮かべて頷くと、スキアの目から涙が溢れ出た。
遠い山際から朝日が差込み、人馬宮前の階段に座るアイオロスとサガを眩しく照らした。あれから聖域の者たちが地下墓穴へ駆けつけ、スキアは捕らえられて一時的にアテナの元へお預けとなった。壺は直接触れると危険なため、ヘカテーから渡された霊力を持つ箱に収められた。エフティヒアの遺体が運び出される時、サガはすぐに従者たちの前へ進み出た。
「彼女は私が運ぶ。布を貸してくれ。」
サガは躊躇せず天蓋の中へ入り、エフィの全身を清潔な布で覆うと丁重に抱えた。すぐにその横にアイオロスが付き添い、彼女は二人の黄金聖闘士によって守られながら、ついに故郷への入域を果たした。その姿を見てスキアは再び大粒の涙をこぼした。十二宮の入り口で待機していた教皇シオンとカノン、そして他の黄金聖闘士たちとヘカテーの従者たちも加わり、エフティヒアはそのまま二柱の女神が待つアテナ神殿まで運ばれた。現在、アテナとヘカテーによる復活の祈祷が行われている。彼女は生前の美しい姿を取り戻し、罪を許された恋人の腕に強く抱きしめられることだろう。
「スキアは長く孤独な日々を過ごしていた…… 今回はお二人の女神の計らいで事なきを得たが、彼のような不幸な者が他に大勢いると思うと私は…… 」
アイオロスはすぐにサガの肩を抱き、その?に口付けた。温かく柔らかな唇の感触。もうそれ以上は言うな…… そう示しているような優しい口付けだった。
「この先お前には私がついている。どんな理由があろうと私はお前を守る。エフィにスキアがずっと付き添っていたように。彼らは愛によって神々の心を動かし、輝く未来を手に入れたのだ。私たちにも出来るはずだ。そうだろ?」
淀みないアイオロスの言葉にサガは自然と微笑む。
そうだ…… 過去は取り返せない。
だから、せめてこの力を平和な未来のために。
この想いを最愛の人のために。
愛する者を取り戻すことの出来たこの奇跡を、二度と失わないために……
「この件が無事に済んだら、アテナとシオン教皇にお願いしよう。私の次期教皇就任を早めてもらうように。」
「ええ?大丈夫なのか?」
「まあ…… 完璧ではないが、でも晴れてお前と教皇宮に住むことが出来る。お前が副官でいてくれるなら仕事も私生活も安泰だよ。」
そう言いながらアイオロスはキラキラと輝く顔でサガを見た。朝日が射手座の聖衣に反射しているせいなのか、それともこの男の喜びからくる小宇宙なのか…… 夜明け前にあの地下墓穴で起こった事件が嘘のように感じるほど、アイオロスの放つ光はいつも清々しい。
「朝、目覚めた時にお前がすぐそばにいる。仕事も休日も一日中ずっと一緒。たまには諍いも起こすだろう。でも、私はそれすらも今から楽しみなんだ。失った十三年の記憶を取り戻すのではなく、これからのお前をもっと知りたい。もっと愛したい。そして、共に幸せになりたい…… 」
「アイオロス…………… 」
「幸せを先延ばしにする必要はないだろ?これから一緒にたくさんの喜びに出会っていくんだ。辛い過去など消え去ってしまうくらい、二人でたくさんの楽しい思い出を作ろう。」
アイオロスはサガの両手をとると、その指に口付けを落とした。何度も落とされる唇はやがて?へ移り、そして笑顔と共に唇を重ね合わせる。輝かしい朝日が恋人たちを黄金色に照らし、吐息にも似たアイオロスの囁きがサガの耳を震わせた。
「永久の愛を、お前だけに。」
(あとがき)
ここまでお読みいただきありがとうござました。今回は、原作・初代アニメオリジナルの中でも三本の指に入る私の好きな女性キャラが登場するお話を書きました。ガイストはドイツ語で幽霊を意味しますが、ギリシャ語のエフティヒアという響きがとても綺麗だったので本名として使うことにしました。荒木伸吾先生の描いた彼女の設定画がすごく美人で、幸せにしてあげたかった。恋人はオリキャラですが、スキアはギリシャ語で“影”を意味します。影の守護者というイメージです。サガとカノンについて、以前「双曲の弓」の中で“免許証が偽名”というネタを書いたので、今回その偽名を冒頭に入れました。苗字のアポストロスはギリシャ語で“使徒”を意味します。余談ですが、あと二人好きな女性キャラはテティス(アニメだと正体が人魚という設定が最高)、相沢絵梨衣です。いつもマニアックなネタばかり書いてますが、改めて、お読みいただきありがとうございました(*´ω`*)
説明 | ||
ロスサガですが、少しカノサガっぽいところもあります。作品の最後に「あとがき」があります。※注意:軽度の交通事故、遺体表現があります(流血なし)ので、少しでも苦手な方は閲覧ご遠慮ください。 | ||
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